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第13話
孔雀屋は、沈んだ。
しばらく前にミハナという友人ができたらしいということで、見世の者たちはみんな喜んでいたのに、今はまるで葬式のようだ。だって、珠の進が見世を出たいと言い出したのだから。その話を聞かされた孔雀屋の親父は、あまりにも突然のことで寝込んでしまったほどだ。
珠の進はちゃんと手順を踏んでいるし、無茶もわがままも言っていない。ただ、好きな人ができたからその人と一緒にいたいと、それだけを申し出ている。本来なら見世を上げて応援してあげたいし気持ちよく送り出してあげたいのだけれど、何せここは妓楼だ。愛だの恋だのが長続きせず、それどころか口先だけの言葉遊びであることがほとんどだと誰もが身に染みている。だから、珠の進という男娼を惜しむ気持ちよりも、心配と不安の方がずっと大きい。初恋だというじゃないか。それならなおさらもっと慎重になるべきじゃないのか。身請けも同然なのだから、相手は見世に挨拶やそれなりの説明や誠意があってしかるべきだ。そんなこともできないような人に、うちの大事な、大事にしてきた珠の進を渡したくない。まあとにかく、そういうことで、見世は沈んでいる。
そのような話を多岐から聞いて、珠の進からも手紙をもらったため、ミハナは仕事のない日に孔雀屋へ、単身で尋ねて行った。
「おおげさだと、思わない?」
「思いませんよ。みなさんのお気持ちも、お察しします」
「おや、ミハナは僕を応援してくれないのかい?」
「応援はします。俺はお珠さんの味方だし、手助けができるのならなんだってします。見世の人たちを説得するのだって手伝いますよ。ですけどそれは、オオクマさんがお珠さんときちんと向き合ってくれるならの話です」
「うん」
「俺、オオクマさんのことよく知らないし、いい人で警察官として優秀だとは思うけど、そのこととお珠さんを大事にしてくれるかどうかは別ですから」
「そうだね。でも僕、大事にしてくれなくたって構わないんだ」
「だめです。そういう恋愛は、だめです」
「そうなのかい?」
「そうです。傷ついても傷つけても構わないと、どちらかが思うような、そういうのは、よくないです」
「ミハナは達観してるのかな」
「そんなんじゃないですよ。誰だって、どんな時だって、人は大事に扱われるべきなんです。それを最初から放棄するのは覚悟ではなく諦めです。おすすめできません」
「立派だねぇ」
「立派かどうかは知りませんけど」
「長い人生で、後先考えずに、今だけでいいから一緒にいたいと望むのは、ダメな人の考えなのかな。その刹那を生きられれば、もう何も惜しくない。ただそれだけで、人生は生きるに値する」
「…………わかりません。でも、俺はお珠さんの友達だから、できるだけ、笑っていて欲しい」
「そうだね。それはわかるよ。僕は泣いた顔も綺麗だけど、笑顔が一番だからね」
そう言って笑う珠の進は本当に美しい。だからこそ、ミハナの胸は切なく締め付けられた。周りは誰もそれを珠の進には告げないけれど、オオクマは珠の進に気がないのではないかと思っている。あの日以来、オオクマは孔雀屋には来ていない。そもそもオオクマは買春しないし、孔雀屋は高級だし、珠の進は別格だ。あの朝、珠の進と一緒に朝食をとって、次の約束もなく帰ってしまった。珠の進は控えめに、でも毎日手紙を送っているようだけれど、返事をもらったとは聞かない。あまりにもそっけない。だから多分、脈がない。誰にだって好き嫌いはある。オオクマが珠の進という最高級の男を歯牙にもかけなかったとして、それは責められる話ではない。しかしだからこそ、そんな男のところへ行ったところでどうなるものでもないだろう。そもそもまず住んでいる場所を教えてくれないだろうし、場所を知って訪ねたところで家に上げてくれないだろうし、もしも出入りさせてくれたとしてもうまくあしらわれて、いいように使われて、情けのひとしずくさえもらえないかもしれないと想像してしまう。あるいは、特別好きではなくてもコトの珠の進だ。金もかけずに楽しめることは楽しんで、珠の進が縋れば縁を結ぶ義理はないと袖にされる。そんな扱いを受けるかのではないだろうかと心配は尽きない。それでもいいと、珠の進が言ったって、周りは納得できるものではないのだ。孔雀屋の看板などという役割を度外視しても、見世の者たちにとって珠の進は大事な仲間なのだから。
ミハナには、うまくいくといいですね、などとは言えない。オオクマは多分、珠の進を選ばないだろう。その結果を本人よりも周りがずっと恐れていて、そうなるよりも前に珠の進が諦めてくれれば、熱が冷めてくれれば、目を覚ましてくれればと願ってしまっている。そうすれば傷は浅くて済むかもしれないと。けれど、珠の進はかなわないと知っていて、でも、彼に手紙を書くことをやめられないし、彼を想って溢れる気持ちは抑えられない。傷つくことを本人が避けるつもりがないから、誰も止められない。
現実は、珠の進がオオクマに会うことは難しい。見世の許しがなければ珠の進が孔雀屋から一人で出ることもないし、オオクマはここへは来ない。彼は来ないのだ。それを知っているから、珠の進はより刹那的に考えてしまう。あの一晩だけに縋ってしまう。あの時四人で食事をして、ああ、いい人だ、多岐の友達だものねと感じただけでそのまま二度と会わなければ、もしかしたらいつか忘れられたかもしれない。でも、枕を交わした。ずっと男娼として生きてきた珠の進にとって、褥でのやり取りはあまりにも身近で当たり前で、にもかかわらず客ではない男に抱かれたのは初めてで、しかもそれが初恋の相手ともなれば、忘れられるはずがない。こころも身体も、全部を満たしてくれた人。好きだと、心底思う。会いたいと、願わずにはいられない。何の損得もなく、後先もどうでもいい。あの一晩が、幻ではなかったのだと思いたい。だから、もう一度。しかし珠の進は、珠の進だ。なりふり構わず気持ちのままに行動は出来なかった。見世の親父に頭を下げ、手紙の一文字一文字に揺れるこころを映し、曖昧になっていく感触を抱きしめる。珠の進の初恋は、とても静かで、ただ一人きりだった。
ミハナは、愚痴らず騒がず恨み言もなく、ただ微笑むばかりの美しい珠の進の横顔を眺めながら、このままでは絶対にダメだと強く思った。
◆
「お珠さん、とてもお気の毒です。周りはどなたも賛成してくれないし、お相手からはなしのつぶて」
「うん」
「どうしたらいいと思いますか?」
「どう、とは」
「きっかけが必要じゃないかと思うんです。どういう結果になるにせよ」
「あまり、人のそういった話に立ち入るべきではないんじゃないかな」
「それはそうですが、俺はお珠さんの友達なので、そういう割り切りは出来ません」
「まあ、珠のは俺にとっても君にとっても特別だし」
「はい!」
「クマも、知らないではないから」
「はい!!」
「俺にうまく立ち回れるとは思わんが、そうだな、そのうち折を見て話だけでも」
「お二人でお食事でもされたらどうですか?」
「え?ああ……そう、」
「今日とか」
「…………聞いてみるよ」
「はい!!!」
多岐とミハナはすでに同居を解消しているが、昨晩はミハナは多岐の家に泊まっていた。ミハナがいる時の習慣であたたかいお味噌汁の朝食が食卓に並ぶ。それを向かい合っていただきながら、ミハナは多岐を笑顔で焚きつけた。珠の進とオオクマ。二人ともをよく知るのは多岐しかいない。あなたが動かなければ誰にできるというのか。ニコニコとしているミハナに、多岐は押されて頷くしかない。もちろん多岐にとっても、珠の進の様子は気がかりなことだ。自分が何かをできるとは思わなくて見守るつもりだったけれど、どうやら自分に役割が与えられたらしい。
ミハナはどうにか多岐が頷いてくれたので、少し胸をなで下ろしてお椀を口元に押し当てた。失恋は珍しい話ではない。別れも、よくあることだ。だけど珠の進にとっては待ちに待った初恋で、オオクマはそんなことは知らないだろうし、放っておけばそのうち忘れるだろうなどと高をくくっているかもしれないが、そんな状況ではない。結論を、引導を、渡すなら早く渡してあげて欲しい。それはミハナのとても勝手な都合であるとはわかっている。それに、珠の進はオオクマが自分と添う気があるとは思っていないようだ。でも、だったらいいなと考えていることは伝わってくる。あたりまえだ。誰だって、そう願う。もともとあまり客を取らない珠の進ではあるが、極太の客をたまに取るからこそ孔雀屋での立場は維持されている。この恋のおかげでそれさえしなくなれば、ではなぜここにいる必要があるのだという話になる。金はあるだろう。でも、多分一人で生きていく力はない。オオクマと一緒にいるのでないのなら、珠の進は孔雀屋を出るべきではない。でも珠の進は、わずかな時間を過ごせるのなら、その可能性があるのならと、見世を飛び出そうとしている。オオクマの側ではなくとも、一歩でも近くにいたいと。だからミハナは、焦っていた。多岐にオオクマの心づもりを探ってこいなどと圧力をかける程度には、焦っていたのだ。
「あ、俺もう行かなきゃ」
「ああ。いいよ、俺が片付けておくから」
「ありがとうございます、すみません」
「こちらこそ。うまい味噌汁をありがとう」
ミハナの仕事に出かける時間だ。パタパタと身だしなみを調えて、荷物を手に玄関に向かうミハナを、多岐が見送りのために追う。そんなこころ優しい恋人を、ミハナが振り返る。
「手紙をくれますか?忙しくなければでいいです」
「ああ、必ず」
多岐も従来の様に短期間でコロコロと変わる契約の仕事に戻っていて、だから毎日は会えなくなっていた。仕事の合間に多岐がくれる短い手紙が、ミハナは嬉しい。多岐の約束に、ミハナは笑顔で頷いて、えへへと身体を近づける。
「俺、多岐の旦那からもらった手紙全部取ってるんです」
「俺もだよ」
「嘘だ」
「本当さ。見るかい?」
「ふふふ」
廊下に荷物を置いて、ミハナは両腕を多岐の首に回す。そして、唇を重ねる。ミハナのこういうことは本当に自然で、いやらしさがない。いつも多岐は感心する。ああ、俺にはできないなと思う。ミハナからこうしてくれることは本当に嬉しいので、多岐もミハナの腰を抱いて、何度も唇を吸う。口づけを日常的にかわすようになっても、ミハナはあまり変わらない。それが、多岐には正直ありがたかった。彼の変化を望む一方で、これより先に進みようがないからだ。期待している素振りさえ見せず、ミハナはこうして触れてくれる。ありがたいし、少し、悔しい。その悔しさの明確な理由がわからないまま、名残惜しくもミハナを腕から出して、見送った。
◆
「どういうつもりだ」
「それはさぁ、多岐、俺の台詞だろう」
「あぁ?」
「お前、圧が強ぇ。なんなんだ、お前といいミハナといい、俺にどうしろって言うんだ?」
「……」
どうしろ、と、言える立場ではない。多岐はやはりこの役目に自分は力不足だなと感じた。さっぱり見当がつかない。この男がどうすれば、珠の進は気が済むのだろう。
「珠のから届く手紙に返事を出せ」
「返事が欲しいような内容じゃないぞ」
「内容の話をしているんじゃない。手紙をもらったなら返事を書くべきだと言っている」
「俺にはあの男娼さんの風流なお手紙にお返事を書く教養はない」
多岐は手近にあるお猪口をあおって腕組みをした。多岐やミハナに送るような、愛嬌のある手紙を出せばいいのに珠の進の奴。それほどこの男は特別なのか。多岐は珠の進から風流な手紙など、もらったことはない。
「手紙をありがとう、くらいは書けるだろう」
「書けるが、それでいいのか」
「……わからん」
「珍しいんだろうよ」
「何が」
「俺が。お前らのように友人でも家族同然の長い付き合いでもなく、でもそういうやつらの顔なじみ。なおかつ、あの男娼さんのお客にはありえないような職業だ」
「警察官が?」
「薄給だからなぁ」
「珠のは、下積みがあっての今の立場だ。最初から最高の花代を取る男娼だったわけではない」
「そうかい。でもまあ、とにかく、今まで周りにいなかったようなのが現れたから面白いんだろう」
「面白いとか、そういうのではない」
「そうか?」
「珠のはお前が好きなんだ」
「へぇ。言われてねぇな」
そう返されれば、多岐は言葉が続かない。言ってないのか。だめじゃないか。言わないとわからないだろう。確か以前、俺は叱られた気がするぞ。そこまで考えてから、多岐は自分を省みる。多分、まだミハナに言ってない、ような、気が、しないでもないかもしれない。これはいかん。多岐はソワソワしたけれど、今はそれどころではないと我に返る。
「俺のことはいい」
「あ?」
「とにかく、逃げ回っていたってしょうがないだろう」
「お前の言葉を借りればあの男娼さんは俺が好きらしいが、そんないっときの感情に付き合って危ない橋は渡れんよ」
「危ない橋ってなんだ」
「孔雀屋の珠の進をどうこしたとあっちゃ、コトの街で生きていけないだろう」
「何をする気だ、貴様」
「どうこうしても、なんにもしなくても、少なくとも、コトで評判の用心棒から怒られるんだから困ったもんだ」
「俺は、……俺は、珠ののしたいようにすればいいと思う」
「いまだに信じられんのだが、本当にお前とあの男娼さんは恋仲であったことはないのか」
「ない」
「ふーん……寝たこともないのか」
「ない」
「ちょっとくらい」
「くどい。ない。俺にとって珠のはそういう相手になりえない」
「ほぉーん……」
「だから、俺のことはいいんだって」
「これ美味いな。おかわりする?」
「うん」
職業柄、オオクマの行く店は結構限られていて、なおかつ誰かと一緒に行く店はさらに少ない。従って、多岐とオオクマが酒を酌み交わしたり食事をする店はここと決まっている。今日も個室に通されて、安くてうまい酒と飯で満足している。
「誤解を恐れず言わせてもらえばな、多岐」
「うん?」
「ああいう職業の連中は、惚れっぽいんだ。それで、すぐに死ぬの生きるのあんたが頼りだの言いだす。本気であればあるほど、うまくあしらわなければ巻き添えくらって心中だ。こちらがその気になったって、もっといい客が現れればそっちへ靡くんだから、まともに相手をするだけ面倒になる。わかるか?」
「お前の話は、わかる」
「そうだろうな。お前あれだけ孔雀屋に出入りしていて、入れ食いか?」
「下品なことを言うな。そんなことをして、出入りなど許されるわけがないだろう」
「そりゃそうだ。でも言い寄られるだろう?」
「何があっても、孔雀屋の、あの見世の人間と懇ろになったりはしない」
「立派だねぇ」
「お前の話はな、オオクマ、一般的にはそうかもしれない」
「ああ」
「彼らは親身になってくれる人の優しさに飢えていることがある。それが見せかけであると、金で買われた一夜のものであると、わかっていてもそれを求めるのかもしれない」
「ああ」
「しかし、珠の進は違う。今までかつて、客と、客以上の関係を持ったこともないし、ひそかに想いを寄せるようなこともなかった」
「詳しいね」
「でも、お前を選んだんだ。珠のの気持ちに応えるつもりがないのなら、早くそのように申し渡してほしい。傷は浅いほうがいい」
「お前はさ、結構簡単に言ってくれるが、相手が相手だ。そう簡単じゃねぇだろうが」
「なんだ」
「じゃあもしも俺が、やったー!珠の進が俺のこと好きだってさー!付き合っちゃおー!ってなったとして、どうしろって言うんだ」
「どう、とは」
「身請けでもしろって?」
「珠のの年季は明けている」
「そういう問題じゃねぇだろ。年季が明けているとはいえ孔雀屋に住んでいる孔雀屋の現役の男娼を、そっから連れ出すんだから、ちゃんと囲いますとでも言わなきゃ見世だって手放さんだろうが」
「ほう」
「そして俺に、あんなのを囲う甲斐性はない」
「ほう」
「そんな覚悟もない」
「ほう」
「そもそも恋仲でもない」
「ほう」
「互いの手を握って目を見つめて、誰かが反対したって離さない、死んでも一緒さなんていう会話だって当然ない。ただ、一回寝ただけだ」
「ほう」
「初対面だったんだからお互いのことなど知らん。どういう人間かもわからん。満を持して抱いたわけでもない。成り行きだ。何がどうなってこんなことになったのか理解できんが、どうせそのうち何もなかったようになる」
「ほう」
「だから、あちらのほとぼりがなるべくはやく冷めるように放ってある。問題あるか?」
「ある。珠の進は、どれほど放っておかれてもこころ変わりしないから、この先何も終わらない」
古い付き合いで、飄々として、結構ふざけていて、不真面目な印象のあったオオクマだが、意外なほど誠実なのだなと思った。搾取し放題なのに面倒くさそうにそれを遠ざける。職務上の立場を利用するとか、自分に向けられる好意を逆手に取るとか、いくらでも方法はあるのに、それをしない。ただひたすら、厄介ごとはごめんだと渋い顔をして酒をあおっている。
「珠の進が、嫌いか」
「好きも嫌いもない」
「そうか」
「だから、あちらが俺にちょっかいを出してくる道理がわからん。そういうのには、近寄らんのが一番だ」
「でも、珠の進だぞ」
「そうだな。お前の前で憚られるが、まあ、コト随一という噂に違わず、というところだな」
「……」
「でも、そりゃあ、一晩遊ばせてもらうのはありがたくとも、丸ごと引き受ける気にはならんよ」
「……」
「孔雀屋の珠の進だぞ。お前なら、お前だったら、うまくいくんだろうがな」
「そういう仲にはならん」
「そうじゃなく、家族みたいなもんなんだろう。お前なら気負いなく一緒に生きていけるんじゃねぇか?」
「仮にそうだとしても、珠の進がそれを望まない」
「そうかい。ま、人は変わる」
「珠のは、変わらない」
「それは俺の知ったこっちゃねぇ。俺はな、普通の人間なんだ。警察官なんていうありきたりの職業で生計を立てて、今までの人生で、時々誰かと連れ添ったり離れたりした。今は確かに独り身で、でも孔雀屋の珠の進は手に余る」
「つまり、お前は珠の進を袖にするということだな」
「わざわざしないが、放っておく。あっちはあそこから出てこないし、俺はあそこに行かないから、何もなかったのと同じだ」
「そうだろうか」
「人のこころン中までは、知らんよ」
オオクマは運ばれてきた料理に箸をのばし、美味そうに食べる。それを眺めながら、多岐は、じゃあ珠の進はどうなるのだろうかと考えた。出し続ける手紙。届かない返信。会いに行こうにも居場所はわからず、尋ねて彷徨うこともできない。一緒に過ごした一晩を、忘れたいと思うかもしれない。彼は忘れただろうかと悲しむかもしれない。その悲しみが癒える日は来るのだろうか。
「……一度だけ、会ってやってくれないか」
「よせよ」
「もちろん本人の心づもりは確かめる。もし珠のが、一度だけでもいいから会いたいと望んだら」
「お前ならどうする?」
「……」
「どうにもならない相手に、たった一度、わざわざ情けをかけることがどれほど残酷か、想像すればわかるだろう」
「俺にとって珠の進は、弟のような存在なんだ」
「お?同じ話を聞いたな」
「本当に大事で、絶対にしあわせになって欲しいし、珠のがやりたいことがあるのなら全力で応援したい」
「ふうん」
「それに、俺は信じているんだ」
「俺をか?」
「珠の進をだ」
「そうかい」
多岐は座布団をはずして、自分の太ももに手を添えて深々と頭を下げた。頼む、と。オオクマは、さらりと流れた金の髪を胡乱気に見つめた。
「多岐よぉ」
「この通りだ。頼む。一度でいい」
珠の進がどんな内容の手紙をオオクマに書いているのかは知らない。会いたい、愛しい、そんなことは、書いていないかもしれない。自分はこういうことに疎くて、だからどうしたらいいのかはわからないのだけれど、もしも自分なら、好きな人にもう二度と会えないのは、辛い。例えその背だけでも、物陰からでも、最後に一度、この目で見つめたいと、思う。本当に、こんな感傷的な気持ちになるなんて信じられないけれど。人は変わるのかもしれない。
オオクマは折れた。多岐にここまでさせて、言わせて、俺には関係ないと突き放すことは難しい。
「ありがとう、クマ。恩に着る」
「ちゃんと、その大事な男娼さんの了解を取れよ。偶然を装うなんて真似は絶対にしねえからな」
「ああ」
「……手紙は、ちゃんと読んでる」
「ああ」
珠の進に何をしてあげられるかはわからないけれど、多岐は自分の心配をきちんと珠の進に話し、珠の進の希望を叶えられるだけ叶えてやろうと腹を決めた。そんな多岐に気圧されて、珠の進と会うことを了承してしまったオオクマは、その瞬間から後悔したがどうしようもない。気まぐれに懇ろになるには厄介すぎる相手だ。うまく片が付けばいいのだが。
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