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第14話

 多岐は珠の進と話をした。色々と心配していると。そして、望めばオオクマと一席設けられるがどうするかと聞いた。珠の進はじっくりと考えた。会いたくてたまらない人に、会える。あの日以来ずっとそれを願っていた。でも珠の進は即答できなかった。美しい顔で、わずかに微笑んだまま、しばらく考えて、ようやく、ひどく小さな声で会いたいと言った。クマさんに、もう一度会えるなら、会いたいと。多岐は頷いた。わかった、じゃあ、そうしようと。珠の進は変わらず笑っていたけれど、不安そうにその美しい目が揺れている。多岐は、何も言わずに珠の進の肩や背を撫でてやった。  コトの山手に大きな川が流れていて、そのあたりは古い旅館や料亭がぽつりぽつりとある。そんなひとつに、老舗料亭「さわ井」があり、多岐はそこの座敷を二人のために確保した。料理は美味く、店の中庭も部屋から見える借景も季節ごとに見事な顔を見せる、すべてにおいて最高の店だ。襖を開ければ隣の部屋に床がのべてあるような店ではない。珠の進をできれば遠ざけたいというオオクマの気持ちも、多岐は無視できなかったから、二人にゆっくりくつろいでもらって、短い時間でも楽しめればいいと思った。  当日、多岐は同行せず、珠の進は見世の者に付き添われて好きではない車に乗って、さわ井へ向かった。  秋は過ぎ、冬が訪れていた。どんよりと曇る空は重く、吹く風は凍えるほど冷たい。珠の進は男娼然とした装いではなく、一般的な着物で身支度をして、長い髪を背中へ流して軽く結んでもらっていた。それでも、常人ならざる美しさは隠しようがなく、本人も隠すつもりはない。そんな珠の進が先にさわ井に到着し、部屋に通され、静かにオオクマが来るのを待っていた。  オオクマは、約束の時間に大きく遅れて姿を現した。仕事が片付かず、遅れるともちろん連絡を入れて、珠の進は承知していたけれど、思っていたよりもさらに遅くなった。気まずい気持ちでつやつやの廊下を足音荒く部屋へ向かい、襖を開ければ、珠の進はそこにはいなかった。  珠の進は、その部屋から出られる中庭にいた。空からふわふわと初雪が落ちてきて、とても綺麗だったのでそれを間近で見たかったのだ。オオクマが障子を開けて縁側から目にした、番傘をさして雪舞い落ちる庭に佇む珠の進の姿は、この世のものとは思えないほど美しかった。声をかけるのが、一瞬ためらわれるほど。オオクマの気配にゆるりと振り返り、遅れてやってきたオオクマを見て、微笑んだ珠の進は無邪気にくるくると傘を回した。 「……すまん。ひどく、遅れた」 「いえ」  庭なんかに出て寒くないのか。部屋にいればよいのに。そういう言葉は無粋で無神経だと、オオクマにでもわかる。多分珠の進は自分が来ないのではないかと思ったのだろう。そんな想像をごまかすように無為な時間を潰すために、寒い庭で一人、雪を眺めていたのだ。仕事でやむを得なかったとはいえ、待たせてしまったことを後悔する。 「お酒は熱燗になさいますか」 「ああ……」  頃合いを見て部屋に入ってきた女将が丁寧に挨拶をしてくれて、顔なじみらしい珠の進も笑顔でこたえている。まだ落ち着かない気分のオオクマは、言葉少なに適当な返事をして、座布団の上で尻をもじもじさせながら、居心地が悪いなと思っていた。やがて料理が並べられ、仲居たちが下がり、二人きりになった。こまかい雪が池に吸い込まれる音が聞こえそうなほどの静寂が、部屋を満たしていく。 「……悪かったな、ずいぶん待たせて。あー……時間、大丈夫か?」 「はい。僕は大丈夫です。クマさん、お仕事お忙しそうですね。世の中、悪い人が多いのかな」 「暇でしょうがないって日が、あった覚えがねぇな」 「走って追いかけるんです?悪い人を捕まえるとき」 「俺は足が遅くてね。逃げられてしまうから、ほかのやり方だな」  ふふふと、珠の進がオオクマの正面で笑っている。この間より、少し遠い。話し方も、少し丁寧に戻っている。しばらく他愛もない会話をしながら食事を進めていたけれど、そうするうちにオオクマの居心地の悪さは解消されていて、落ち着かなさも忘れていた。珠の進の、人を会話で寛がせる術はあまりにも自然でそつがなく、息苦しさがない。それに気づいて、オオクマはこころの中で苦笑いしながら肩の力を抜いた。本当に、コト随一の看板は伊達ではない。オオクマはずっと緊張していたのだ。多岐に頼まれたとはいえ、それを了承したとはいえ、珠の進と顔を合わせるのは気が重かった。嬉しそうにはしゃがれたらどうしよう。なぜ手紙の返事をくれないのかと詰られたらどうしよう。さめざめと涙をこぼしながら慈悲を乞われたらどうしよう。そんな風にいろいろと想像しては、どれもこれも厄介だと思っていた。自分にできることは、せいぜい届く手紙に目を通すことくらいで、今日はただひたすら気まずい中で過ごすのだろうと覚悟してここへ来たのだ。オオクマの予想は大きく外れ、珠の進は穏やかで、あの日のことさえ何も言わない。  美しい美しいと持て囃され、実際どこからどう見ても美しいこの男は、儚げな印象も線の細さも感じない。非の打ち所のない美しさを嫌う者もいるだろうが、珠の進は、多分その美しさが一定ではなく、見る者によって変わるのだろう。だから誰が見ても美しいし、顔の造作だけではなく、振る舞いも仕草も、声も吐息さえ美しく、こうして人を和ませ楽しませることに掛けては敵う者もない。オオクマには、理解できない。なぜこんな男が自分に構うのだろうか。あの日以来、一日と明けずに珠の進からきれいな字の手紙が届く。多岐には風流な内容だなどとごまかしたけれど、実際は、日常のとりとめのないことが書かれているのがほとんどだった。花が咲いたとか、風が冷たいとか、自分のところの禿が風邪を引いたとか。そうかい、と相槌を打つことしかできなような、何でもない話ばかりだ。返事を書くなら自分も同じようなことを書くべきだろうが、そんなことはオオクマにはできなかった。珠の進に知らせたいような日常の出来事などない。 「お酒、もう一本いかがです?」 「ああ。君も飲むだろう?」 「はい」  珠の進は酒も強いようだ。ほんのりと頬を染めてはいるが、真っすぐにきちんと座り、微笑み、オオクマの話相手をしている。大いに盛り上がるというほどではないが、会話はほどほどに弾み、料理も酒もおいしいし、この面会はオオクマにとってとても楽しい時間になった。  抱かなければよかったな。  オオクマは心底そう思った。あの晩、ミハナが突然多岐を引きずるみたいにして帰っていき、孔雀屋の珠の進の部屋に二人になった。食事も済んで話もだいたい終わっていたし、当のミハナが帰ったとなって、オオクマはさて俺も帰ろうと、お猪口に残った美味い酒を干して、隣に座る珠の進の方を見た。ご馳走様、俺もそろそろお暇する。そう言ったと思う。それからどういうやりとりをしたのかあまり覚えていない。酒に酔っていたわけではない。預けた服はもう乾いただろうかと考えたり、まだ雨がひどいようなら車を呼んでもらおうかと考えたりしたような気がする。ただそれも多分極短い時間だけで、気づけば珠の進を抱いていた。行きずりで関係を持つようなことをしないオオクマだが、それでもまあ、過去に何度かは、一晩だけということもあったし、もっと若い頃は恋仲ではない年上に色々と教えてもらうこともあった。でも、このときのようなのは初めてだった。コトで一番の男娼を前に、前後不覚になるほど欲情したんだろうか。少なくとも間違いないのは、珠の進に誘われた覚えはないということだ。それから、嫌がる珠の進にオオクマが無理強いしたということでもない。誘ったのだろうか、自分が。それに珠の進がいいですよと応じてくれたのか。本当に、記憶が漠としていてよく思い出せない。  普通に考えれば、金も払っていないオオクマが珠の進と共寝など、できるはずがない。何かの弾みで遊ばせてもらえたとして、朝まで一緒にいるなんてもっとありえない。まあ、一晩中オオクマと交わりたいと色々な手練手管を披露してくれたのは珠の進だったが。珠の進のやることに煽られて、本当に一晩中頑張ってしまってへとへとになった。珠の進はなんだかずっと、楽しそうだった。オオクマにくっついて、笑っていた。とても不思議なひと夜だった。あのひと夜で、珠の進とオオクマは互いに"金銭のやり取りなく寝た男"になってしまったのだ。割り切って忘れようと、言える相手ならよかった。でもどうやら、珠の進は違うらしい。誰かと寝ることを、お茶を飲む程度にしか思わないような職業かもしれないが、これは大いにオオクマの偏見であるけれど、金も払わないのにそういう行為を許したのであれば、男娼であるからこそ、普通の心情ではないのだろう。自分は残念ながら、おかしな意味で珠の進の特別な存在になってしまったのだ。あの時抱かなければ、時々は気の合う友人として、多岐のような酒を酌み交わす間柄になれたかもしれないのに。  珠の進は、遅れてすまなそうに詫びたあと、料理と酒を楽しむオオクマを愛しく眺めていた。太くて低い声が好き。無精髭を生やして粗野な風貌なのに優しい話し方なのが好き。お箸の使い方が綺麗なところが好き。お酒に強いところも好き。卓を挟んで正面にいて、その体温は感じられないけれど、触れられないけれど、服の釦を外せば分厚い胸板があって、腕も太くて、抱かれれば心地いいことを知っている。あの晩、それを知ることができた。今日ここへ来るときに、玄関先まで見送ってくれた孔雀屋の親父は、少し心配そうだった。 「気を付けてな、珠の進。気の済むようにしておいで」 「はい、親父さん。いってきます」  初恋は実らないっていうけれど、自分の初恋はどうだろうかと、珠の進は長らく空想して過ごしてきた。できれば実るような恋がしたいと思っていた。でも、実らなくても、恋しい相手に巡り合えるのなら、ただそれだけでもきっと、今よりずっとしあわせだとも、思っていた。  ここへ来る道中の車の中で、珠の進はずっとオオクマと出会った日のことを思い出していた。あの雨の日に突然現れた大男は、ただその姿だけで珠の進の目を奪った。多岐の話に時々出てくる、クマと呼ばれている、古い友達。ミハナが巻き込まれた事件を捜査している警察官。禿にやさしくできる常識人。四人の食事の席での仕事の話は簡潔でわかりやすくて、珠の進がミハナ本人から聞いている程度の個人情報さえ一切漏らさない気遣いで事の顛末を説明してくれた。自分をいやらしい目で見ることもなく、多岐とよくふざけて、ミハナには親切で、気が付いたら、好きだった。珠の進が自覚するより先に、ミハナが気付いて二人にしてくれて、それが嬉しくて、ようやく自分が目の前の人に恋をしていると知った。うわ、初恋しちゃった。そう思ったら、どうしていいかわからなかった。オオクマは全く気を抜いた様子で酒を飲んでいて、それがどうにもかっこよく思えて、ドキドキした。初恋が実らないのはきっと、初めて恋に落ちてあたふたしているときに、相手を振り向かせる方法なんて知らないし思いつかないからじゃないだろうか。もしくは、身の丈に合わないような、素敵すぎる人を選んでしまうから。珠の進は、自分はその両方だから、実らなくても仕方がないなと納得した。でも、少しだけ。一瞬でもいい。傍にいたい。こちらを見て欲しい。どうか今だけ。そう思ってしまったら、身体が勝手に動いていた。振り向かせる方法は知らなくとも、その気にさせることは珠の進には容易い。抱かれて嬉しかった。客ではない、好きな人と枕を交わした。朝が来て、離れがたかったけれど、彼は呆気なく帰ってしまった。それきり会う方法はない。手紙を送るのは、自分のためだ。どれだけ気持ちを込めて送ったってオオクマは自分に振り向かない。金を使わず偶然ではあったけれど、妓楼でたまたま一晩遊んだのと変わらないのだ。相手が珠の進であっても、しょせんは春をひさぐ者相手のこと。後腐れなどなく、情けを掛ける義理もなく、思い出すことも二度とない。その証拠に、返事は来ない。だから、この初恋は実らない。さあ、諦めないとね。そう自分に言い聞かせるために手紙を書いていた。悲しみはなく、つらいけれど、たった一晩でも、珠の進には宝物のように大事な時間だった。恋を知った。とても素敵なことだと、痛いほどに身に染みた。 「ああ……止んでしまいましたね」  障子の向こうの中庭に、珠の進が目をやる。その美しい横顔と首筋は、まるで絵のようだった。長く濃いまつげが、珠の進のぱっちりとしていて涼し気な目元を飾り影を施している。雪は止んだ。植木や石灯篭がうっすらと白く化粧をしている。料理はすっかり平らげて、酒と肴が並ぶばかりの座卓越しの珠の進は遠いままだとオオクマは感じた。これでよかったのだ。オオクマが警戒していたような行動に、珠の進は及ばなかった。今日のこの時間が、彼にとってどういう慰めになるのかはわからない。そもそも、多岐が圧力をかけてきただけで、本当は珠の進は別に自分を好いてなどいないのかもしれない。もしくは、改めて会って見たらそんな気も失せたということもあり得る。ともかく、これでよかったのだ。義理は果たした。何かの偶然で、また会うことがあったとしても、もう寝ることはないだろう。オオクマはお猪口の中身を口に放り込んだ。 「ねぇ、クマさん」 「うん?」 「初恋って、実らないんですって」  雪は止んだのだ。これ以上長居をする理由はなくなった。そろそろ、お開きだ。オオクマも珠の進もそう思っていた。オオクマは事なきを得たことに安堵し、珠の進はこの時間に意味を持たせた。  オオクマは、この期に及んでおかしなことを言い出した珠の進を胡乱気に眺めた。何も、言うことはない。相槌さえ打たない。珠の進の初恋などに、付き合う必要はない。面倒なことになる。珠の進はそんなオオクマの様子さえ愛しく思える。 「僕、男娼でよかった」  男娼じゃなければ、きっとオオクマと寝ることはなかっただろう。だから、よかった。今まで結構辛いこともあったけれど、ああ、普通は物陰から見つめるだけで散らしてしまうしかない初恋の花を、摘んでもらえた。孔雀屋の人間だから、オオクマは抱いた。これがまったく堅気で色事に疎い者であれば、後々を考えて手を出さなかっただろうと想像できる。だから、よかったのだ、男娼で。コトで一番と言われる、孔雀屋の珠の進として生きてきてよかった。  珠の進は、あははと、声を上げて笑った。最初で最後の初恋の相手が、オオクマでよかったと思いながら。後悔はしていない。これからも、今までと変わらずコトで生きていく。またいつか、恋をするかもしれないと、密やかな祈りを胸に。 「本日は、お忙しいところをお付き合いいただき、ありがとうございました」  珠の進は晴れ晴れとした気分で、オオクマに頭を下げた。

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