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第17話
珠の進は、オオクマが家に戻ると知ると、やってくる。鍵を渡しているので、オオクマが帰宅する頃に見世の者に送ってもらって、玄関に座って待っている。オオクマの家は平屋の一軒家で、大きくはないが周囲に住んでいるのも同じ職業の者が多く、静かで安全だ。
多岐に散々話を聞きだされて、オオクマは最後まで惚れてない、情を移したわけじゃない、責任を感じている、うるせぇ馬鹿と繰り返して逃げ切った。グダグダだったのはわかっているが、構うものか。その晩の話を聞いているかどうかは定かではないが、それ以降もこうして、珠の進はオオクマの元へ訪ねてくる。
「おかえりなさい!」
「またそんなところに」
「本当は、お玄関出て待っていたいんだけど、我慢してるんだよ」
今は冬。オオクマは合理的に暮らす人間なので、外気温が家の中の温度に干渉せず常に一定になるようにしているけれど、玄関で待っているのはどうかと思う。しかし譲歩の結果であると言われれば、オオクマも頭ごなしに指図できない。部屋にいればいいじゃねぇかとブツブツ言う程度でいつも矛先を収める。珠の進は、ひんやりとした外の空気をまとうオオクマの腕をとって、ご飯を食べようと笑っている。
「先に風呂に入ってくる」
「はい」
珠の進は頷いて、オオクマの腕にくっついたまま風呂場へ足を向ける。いつものことなのでもう驚きはしないが、一応オオクマは言っておく。
「別に、洗えと言っているわけじゃない」
「一緒に入った方が節約になるよ」
「……」
この男の口から節約などという言葉が出るとは思わなかった。まあいい。珠の進がいれば、オオクマは座っているだけで何もかも面倒を見てもらえる。最初の内は流石に気が引けるし、自分は客ではなく、そんなことをする必要はないと止めた。しかし、珠の進はオオクマと一緒に風呂に入って、オオクマを洗ったりするのが好きらしい。まるでシャボン玉遊びを飽きずに喜ぶ子供のように、毎度オオクマの身体を楽しそうに洗っている。
「今日の献立はなんだ」
「魚だよ。僕、骨を全部取ってあげるね」
すずらんのこともよく可愛がっていたようだし、珠の進は誰かの面倒を見るのが好きなんだろう。宣言どおり、風呂を済ませて一緒に食事を始めたら、食卓の角を挟んで隣に座り、珠の進はとても器用に魚をほぐしてはオオクマの口に入れたり皿に置いたりしてくれる。自分の分をちゃんと食べろとオオクマが言うと、うん、おいしいねとニコニコしながら自分の口にも運ぶ。その様子はとても、誤魔化しようがないほどとても、かわいい。オオクマの頬も緩む。
「どこで買った?おいしいな」
「孔雀屋の板長が持たせてくれた」
「そうか。後でお礼の手紙を書こう」
「うん。ありがとう」
珠の進がオオクマのところへ通うようになってから、こうやって孔雀屋の恩恵に与ることが増えた。オオクマが買い物に出ることもあるが、珠の進はそれをしない。ひもじい思いなど、オオクマだって珠の進にさせるつもりはないが、見世の連中はもっと意気込んでいるらしく、お菓子だお弁当だと、とにかくいろいろな物を持たされてここへやってくる。珠の進は何度言ってもオオクマが帰ってくるまで食事をしない。多分お菓子くらいは食べているのだと思うが、予想より遅くなったり、帰れなくなったりすることもよくある仕事なので、オオクマは再々、食事くらいはしてくれと言うのだけれど、そういう時、珠の進は少し悲しそうな顔をする。だから最近はもう諦めた。珠の進はオオクマと一緒に食べたいのだろう。話を切り上げればほどけるように笑顔になり、楽しそうに食事の支度を始める。皿を並べ、箸を揃える。空腹など、大したことではないのだ。オオクマは、以前は面倒だからと職場に泊まることもあったのに、もうそれをしなくなった。当たり前だ。家に腹を空かせて自分を待つこんなかわいい人がいるのだから。
「それでね、もうすぐすずらんが、踊りのお稽古を本格的に始めるんだ」
「へえ。立派だな。大変なんだろう」
「そうだね。うまく踊れるといいね。あの子はどうかな、ああ見えてそそっかしくて賑やかだから」
「そうなのか」
「うん。名前の通り、たくさんの鈴が鳴っているのかと思うほど賑やかな時もあるよ」
「へえ……意外だ」
「ふふふ」
オオクマは、二度しか会ったことのない人形のような禿を思い出す。とてもかわいらしい顔で、礼儀正しくて、時として情熱的。そうか、そんなに賑やかなのか。
「珠の進という名の由来はあるのか?」
「珠のようにきれいな子」
「だろうな。ずいぶん特別扱いだ。孔雀屋の男娼は、みんな花の名なのに」
「別にわざわざ要らないって言ったんだ」
「え?」
「他の子はみんな、どこからか孔雀屋に来て、孔雀屋で働くために、孔雀屋に名をもらうんだけど、珠の進という名は孔雀屋の先代がくれたものだから」
「……え?」
「僕の記憶の始まりは、孔雀屋から。多分五歳とかそのくらいかな。それ以前の記憶はない。見世に出るための名を改めてもらわなくたって、僕は孔雀屋の珠の進なんだ、人生の最初っから。だから、珠の進以外の名はない」
「すまん。悪かった」
「クマさんが謝ることじゃないよ」
珠の進は笑った。その顔があどけなくて、本当にかわいらしくて、だからこそオオクマはとんでもないことを言わせてしまったと酷くこころを痛めた。
「……魚」
「うん。はい、あーん」
コトには建前上身元不明の人間は居ないはずだ。現在の制度が完成して正確に運用されてもう長い。珠の進の年齢であればその制度に登録されていて、当然簡単に身元が判明するようになっている。そうではないと言うのなら、闇は深い。もしくは、孔雀屋の先代が一計を案じたのかもしれない。不遇な子の過去を、孔雀屋の力で押し潰して捨てた。有り得なくはない。いずれにせよ、珠の進は孔雀屋に愛され、彼はそれに十分応えた。オオクマは無意識に、緩く握った拳の指で珠の進の滑らかな頬を撫でていた。不思議そうにオオクマを見る珠の進は、美しい。
「……その名が、好きか」
「うーん。考えたこともなかったなぁ。珠って字は好き。綺麗だもんね」
「そうだな」
「クマさんは、クマって名前好き?」
「俺の名前はクマじゃない」
「知ってるよ、オオクマさんでしょ」
「そう、大久間だ」
「うん、大熊さん」
「違う。今思い浮かべてる字じゃないぞ」
「えー?」
オオクマは箸を置いて珠の進のたおやかな手を取り、その手のひらに太い指で字を書く。くすぐったいよと珠の進は笑って、嬉しそうに頬を赤らめている。
「そう。大久間さんなんだ。下の名前もあるの?」
「郁」
「かおるさんかあ。郁さんって呼んでもいい?」
「ああ」
珠の進はオオクマに触れられた自分の手をキュッと握ってから、箸を持ち直して、米を口に入れる。よくもそんなに少しずつ飯が食えるものだと呆れる程ほんのちょっとだ。オオクマはすでに食事を終えた。珠の進のほぐした魚で、手酌で酒を飲んでいる。
「珠の進か」
「うん」
本名を教えてほしいと思ったけれど、それはないのだと言う。この美しい男は生まれてからずっと、いついかなる時も、珠の進であったのだと。オオクマは、少し考えこんでから、珠の進を見る。ゾッとするほどの人間離れした美貌なのに、随分あどけない表情で飯を食うものだ。
「コトで、珠の進という名を知らない大人はいない。顔も姿も噂も、俺も何度も見聞きしてきた」
「うん」
「だが、俺の中にあった、出来上がっていた珠の進の印象と君は、全然違う」
「えーと」
「なんだ」
「…………がっかりしたって、話?」
「違う」
珠の進は不安そうに箸を置き、オオクマを見上げる。わずかに眉を顰めた表情が、何とも言えず艶めかしい。オオクマはおちょこの中の酒をぱくりと口の中へ放り込むと、短く息を吐いた。
「ここにいて、楽しいか」
「うん、とっても。クマさんが、郁さんが、いさせてくれる間はずっといたい」
「そうか。……ここにいる間は珠の進じゃなくていいぞ」
「難しいよ。だって僕は珠の進しか知らないから。でももしそれができたら」
珠の進は食事を終えて手を合わせ、少しだけ俯いた。
僕が珠の進じゃなかったら、郁さんとずっと一緒にいられたかなぁ
そう言いたいのをぐっと堪える。自分は自分だ。いつも通り、にっこりと笑う。
「……僕は、天下の珠の進だからね。できることとできないことがあるよ」
人生とは難しいものだ。珠の進であったことでこの縁が生まれた。だから、珠の進でよかったと、つい先日心底そう思ったのだ。だけど、今はもしかしたら珠の進という人格がこの恋を邪魔するのかもしれないと悲しく思う。難しい。ただ、好きな人と一緒にいたいだけなのに、この生業では情けに縋るくらいしかその方法がない。ここにいてもいいと、オオクマが孔雀屋の親父に言ってくれたからここに来られるのだ。オオクマは優しいから、気の済むようにさせてくれる。こうして一緒に風呂に入って食事をして、同じ寝台で眠らせてくれる。珠の進は、もったいなくて眠ったりはしない。いつかもう来るなと言われる日が、鍵が開かなくなる日が来ると覚悟している。珠の進にとって、鍵など生まれて初めて持った。もしもここの扉が開かなくなっても、きっと墓場まで持って行くだろう。オオクマは、珠の進の方から諦めるのを待っているのだろうと思う。でも、それはどうしてもできなくて、こうしてここへ来る。一度だけ、迷惑をかけて申し訳ないというようなことを言ったら、オオクマはすごく怖い顔をして目を逸らした。迷惑だったら家に上げてないと、低い声で言われた。だから、迷惑だなどと考える必要はないと言ってくれて、珠の進は安心してここに来ている。オオクマの優しさを信じている。ちゃんとその時が来れば、来るなと言ってくれる。だから、安心していられる。今だけはそれに甘えていたい。珠の進でなくていいというのは多分、仕事のことは忘れていいということなのだろうけれど、それはもう、忘れるとかいう"部分"ではないのだ。
オオクマは両手の拳をギリギリと握りしめ、何かに耐えるように肩を震わせていたが、突然クソ!と大きな声で叫んだ。珠の進は、その美しい髪が逆立つほどびっくりした。
「か、郁さん?なに、僕?僕が何か」
「違う!俺だ!」
「郁さんが、何?大きな声出されると、お、驚いちゃうんだけど」
実際珠の進の心臓はバクバクと暴れている。びっくりした。完全に気を抜いていた。例えば接客中なら、酒を過ごして暴れることも大声を出すことも珍しくないから、そういうことに対して身構えて気構えることが習い性になっていた。でも多分それが疎かになっていた。オオクマは粗暴な印象の風体だけれど、振る舞いも声色も、全く乱暴ではないからだ。ああ、まだ、動悸がおさまらない。珠の進は自分の胸を押さえる。
「……すまん」
「あ、うん、ううん、僕も、ごめんなさい。あはは、変なこと言っちゃったから、ね、ごめんなさ」
「違う。そうじゃない。ああ、クソ、もう、知らん!」
オオクマが珠の進の腕を掴んで、この力がとても強くて珠の進は痛くてまたびっくりしたのだけれど、そのまま抱きしめられたのでもう何も考えられなくなった。心臓は、止まりそう。あたたかい。気持ちいい。ああ、嬉しい。
「お前に惚れてる」
「……え」
絶対に認めたくなかった。言いたくなかった。こんな風になりたくなかった。オオクマは、それでももう無理だと、腕に力を込める。ああ、あったけぇなこいつは。珠の進の首元に顔を埋めて、情けない顔をひたすらに隠す。
「知らんぞ、俺は何度も面倒はごめんだと、面倒なことになるぞと、多岐にも孔雀屋の親父にも言ったんだ。なのにお前は来るし、やっぱり惚れたじゃねぇか」
「郁さん」
「面倒な男なんだ俺は。惚れたら、面倒くさい男で、自分でわかってるし、そういうのはこりごりなんだよ」
「ちょっと、郁さん」
「今なら、まだ」
手を離せるかもしれない。自分の執着はひどいもので、今まで散々失敗してきた。面倒なことになっては、相手に逃げられた。離れていく相手を追い詰めたこともある。最初はいいのだ。お互いが好きで、大事で、だけどだんだん天秤が傾いていく。平たく言えば、とにかく大きくて重いのだ、オオクマの感情は。そういう性分に自分でも嫌気がさして、オオクマは感情が動かされそうになればその相手や物事から距離を取ることで平穏を保ってきた。珠の進の笑顔は、そういう自分を狂わせる。欲望に素直になれと振り回す。でも今ならまだできる。自信はないが、孔雀屋にいる珠の進に会う手段はないのだから。だからいっそ。
「帰るか」
「やだよ」
「めちゃくちゃにするぞ」
「望むところだよ」
「大事に、できんかもしれん」
「それはないよ」
郁さんは、優しいから。
珠の進はそっとオオクマの頬に触れて、綺麗な顔でほほ笑んだ。どこのどいつだ、この男が、飽きて来なくなってもしょうがないなどと言ったのは。そんな奴は死ねばいい。絶対に誰にも渡さない。声を大にして、コト中に言いふらしたい。
「ねぇ、郁さん、もう一度言ってよ」
「……惚れてる」
「誰に?」
「あぁ?お前だ馬鹿」
「僕に馬鹿なんて言う人いないよ」
「そうかよ」
「お前って言った」
「うるせぇよ」
「郁さん、口わるーい」
「はん」
恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。散々多岐には惚れてないと嘯き、孔雀屋の親父には物わかりのいい理解者のようなふりで、珠の進を寄越してもかまわないですよと言った。どの口がほざいたんだ。惚れているし、こっちへ来いと手ぐすね引いて待っていた。そんな自分のどす黒い部分を、誰にも知らせる気はなかったし認めたくなかったのに。恐るべし珠の進、なのかもしれない。この男の前では、建前など意味をなさず、捕まえたければ当然、死に物狂いで手を伸ばすしかない。手遅れになる前に。手が届いている間に。
珠の進は、綺麗ではない顔で、笑った。くしゃくしゃと目元を潤ませて、無理やりに。
「……嬉しい。死んじゃいそう」
「ふざけんなよ……」
死なれてたまるか。お前は俺のだ。逃がさないし放さない。言ったからには、認めたからには遠慮はしない。今さら遅い。後悔はいずれあの世でやってくれ。
「……えっと」
「……だめだ」
「わかってるよ。わかってるけど、郁さんの」
「見るな。ほっとけばおさまる」
「絶対無理でしょ。僕の近くにいるんだし」
「そうだ、お前が悪い。なんなんだお前、一緒に風呂に入ったのにお前だけいい匂いさせてるのはどういう了見だ」
「郁さんもいい匂いするよ。おんなじ匂い、嬉しい」
「ああくそ、かわいいな、お前」
「なんで親父さんに抱きませんとか言っちゃうの?」
「うるせぇ。大人には色々あるんだよ」
「ふぅん、大変だ」
珠の進をぎゅっと抱きしめるオオクマの股間は、すっかり臨戦態勢だ。オオクマに言わせれば当たり前だ。散々やせ我慢をして、ようやく認めたこの感情は、決してきれいごとではない。抱きつぶしたい。一晩中貪りたい。なまじ一度抱いている。繰り返し思い出されて、冷静ではいられない。しかし、ダメだ。
珠の進は不思議そうに、ちょっと不満げに、小さな口をキュッと閉じて、少しとがらせる。その様子を間近に見て、口吸いぐらいはいいだろうかと、オオクマがぐらぐら揺さぶられる。そしてかぶりを振る。絶対ダメだ。一瞬で我を忘れて最後までしてしまう未来が見える。そんなオオクマが、心底好きだと珠の進は思った。やせ我慢ばっかりで、どうにか真っ当であろうとしている。なんて融通の利かない人なんだろう。
「しょうがないなぁ」
珠の進が華やかに笑う。そして、一言呟く。たったそれだけで、オオクマの股間は沈黙した。さすがは天下の珠の進。相手をその気にさせるのもその気を殺ぐのも、お手の物だ。オオクマとしては大分悲しいが。
「今日は一緒に寝てくれるの?」
「……そうだな」
「うふふ。よかったぁ。大丈夫だよ、僕だって、黙って郁さんに襲われるようなタマじゃないからね」
「襲わねぇ」
今夜は眠れそうにない。珠の進のつやつやの髪を撫でて、指で梳いて、小さな顔を両手で包み、オオクマがその美しい目を覗き込む。
「お前が、大事だ。お前そのものが。なあ、わかるか」
「……わからない。でも、教えて欲しい」
「ああ」
自分って、この人が惚れてくれた自分って、誰だろう。よくわからない。珠の進は素直にそう言って、わからない自分を受け入れて欲しいと思った。オオクマは、優しく笑って頷いてくれた。
「初恋ってねぇ、実らないんだよ、郁さん」
「そうかい。じゃ、適当に失恋しとけ。俺にもう一回惚れれば、それはもう初恋でもないだろう。実ったっておかしかねぇ」
「そうだね」
「そもそもお前は、初恋だなんだって言いながら、惚れた腫れたって口にしねぇじゃねぇか」
「だって天下の珠の進だもん」
「あのなぁ」
「好きだよ、郁さん、すごい好き。だーいすき!」
「……そうかよ」
珠の進の無邪気な笑顔とかわいい告白は、オオクマの股間に直撃した。
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