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第19話
オオクマと珠の進が、ようやく素直に恋仲になった。
今までは便宜上、オオクマの言い分では、珠の進はもちろん孔雀屋の男娼であり、一時的な初恋ごっこを楽しむために時々オオクマの自宅を訪れていて、これはそのうち終わる茶番、そうなれば二人の縁は切れるということになっていた。しかしこうなった以上、珠の進は孔雀屋における諸々をきちんと決めたいと考えるし、オオクマも珠の進を男娼のままでは置いておきたくないという気持ちだ。そういうことで、身請けのことを考えた。年季が明けていても、見世に対する借財がないというだけで身代金は必要だ。珠の進ともなればそれはそれは高額だろうと予想できる。それに加えて慣習として、ありがたくも珠の進を身請けいたしましたということで、見世を上げての祝宴も開かなければいけないし、ご祝儀も要る。かかる金は天井が見えない。警察官という身分は金を貸してもらいやすいがたかが知れているし、正直必要な額をどこまでかき集められるのか予想もつかない。それにそもそも珠の進の客ではないから、身請けをしたいと申し出たところで見世がどう出るかも不明だ。それでもとにかく挨拶をしないことには話が始まらないと、珠の進がオオクマの家に泊まった翌日、連れ立って孔雀屋を訪れた。迎え入れた親父はにっこりと笑って二人を眺めまわした。
「これはこれはオオクマ様。いつも宅の珠の進が押しかけまして、大変お世話をおかけしております」
「いや、あの」
「本日は、あまりにお邪魔する珠の進を、こちらへお返しにいらっしゃったのでございましょうか」
「いや、その」
「本当に甘やかして育ててしまい、わがままでいけませんね。わざわざご足労をいただいて恐縮でございます」
「か、勘弁してください……」
「さ、珠の進。遊びはおしまいですよ」
「親父さん、あの、えっと」
「いつまでこんなことを続けるつもりだい?これで何かが変わるもんでもあるまいし」
二人は孔雀屋の親父の迫力に圧倒されてしどろもどろで、半泣きで目配せをしあい、今日のところは退散するかと考えた。なにせ、笑顔が怖い。しかしオオクマが奮起した。決まり悪そうに顎のあたりを掻き、腹をくくる。
「……彼に、惚れました。それで色々、考えています。どうか、許しをもらえませんか」
「おやおやおや」
「その、最初から、俺はきっとそうだったんですが、何分こう、そういうことに疎くて、苦手でしてね、なかなか自覚……はあったような気もしますが、その、認めたくないというか意地を張って、やせ我慢というんでしょうか、平たく言うとビビっちゃって」
「そのお話、長くなります?」
親父の完璧な笑顔が冴えわたる。この親父も若いころはいくらでも客がつくと言われたほどのかんばせで、今でもそこそこの美丈夫だ。それに重ねて長く孔雀屋を切りまわしてきただけのことはあり、貫目が違う。彼の笑顔は、オオクマに恐怖しか与えない。だからと言って、傍らの珠の進に助けを求めるなんてみっともないことは、どれだけやりたくても、できない。汗でびしょびしょの手を、グッと握りなおす。
「俺が、情けなくもビビったせいで、ご主人にも彼にも要らぬ面倒をかけたと後悔していますし、反省しています。申し訳ない。何卒、この男を、丸ごと俺に任せてはいただけませんでしょうか」
「それは、宅の珠の進を身請けしたいとのお申し出でしょうか?」
「……はい」
緊張しすぎて少し声が震えた。しかし根性で言い切った。そんなオオクマを、珠の進ははらはらと横から見つめた。孔雀屋の親父は相変わらず微動だにせず笑顔のままだ。無言の時間は永遠に続くかと思われた。知らず息を詰めていたオオクマは、息苦しさに死を覚悟した。それほど、長かった。やがて、親父がゆるりとさらに微笑んだ。オオクマは恐怖にほとんど心臓が停まっている。
「こないに早う本性現すなんて思てませんでしたわ。少々そちら様を、買いかぶってしもてたようで」
親父の冷え冷えとした声で、オオクマはとどめを刺されて真っ青だ。豹変したように古来からのコトの訛り丸出しで笑う親父は、このまま笑みを絶やさずオオクマを葬れる類の人間だ。コトの訛りで話すコトの人間は敵に回すとマジでヤバいというのがコトの定石。めっちゃくちゃ、めっちゃくちゃに怒ってる。ここのところの冷え込みは厳しいのに、オオクマの汗が止まらない。
「なんや長々とお考えをお聞かせいただいて、せやけど私みたいなもんにはあいにく理解の及ばんことでございますわ」
「は、その」
「身請けですか、そうですかそうですか、そらえらいこっちゃ。うちも軽ぅ見られたもんですねぇ」
「いや、なんというか」
「それで、なんですのん、どないなさるおつもりですのん」
「お、う」
「どない落とし前、つけはるんです?」
オオクマは頭を下げる他なかった。そんなオオクマの背を擦りながら、珠の進は親父に、もう許してやってくださいと一緒になって謝る。珠の進にしても、訛り丸出しの親父を見るのは子供のころにぴっしゃぴしゃに叱られた時以来なので驚くとともにそのヤバさを察している。全くもって付け入るスキがない。甘えが許される状況じゃない。それでも、頑張るしかない。
「親父さん、郁さんは」
「あらまあ、立派な名をお持ちやねぇ」
「あの、親父さん、郁さんはね、ちゃんと僕を大事にしてくれるし、親父さんと約束したからこの僕と一緒にいるのに本当に手を出さないんです」
「自分で言い出さはったんやで、当たり前でしょう」
「でも普通は無理です、相手は僕ですよ」
「ビビってちんちん縮んでしもてはるだけちゃうか」
「もう!親父さん!」
「ええか、珠の進、よぅ聞きや」
親父は組んでいた両手をきちんと膝に置いて、背筋をことさらに伸ばし、珠の進を見た。
「私はな、その男の根性が気に入らんねん。ハナから珠の進を好いていて、あろうことかどさくさに紛れて手ぇまでつけておいて、にも拘わらずお前が向き合おうとしたら逃げの一手や。手紙の一つもよう書かん。多岐くんの手助けでようやくここへ顔出しに来た思たら、惚れてはいませんけど何なりと協力しますやて。何をほざいてけつかんねん」
「それは……」
「そんなふうにな、いつも自分が一番大事で、自分を安全なところに置いてからコソコソ周り見回して大丈夫そうか窺って、どうにか小手先だけでちょこちょこうまいこと人と付きおうたろなんて、そういう性根は死ぬまで治らん。どのツラ下げてうちの敷居跨いだんや。挙句に身請けてど厚かましい」
「でも」
「こんなしょうもない男やめとき」
親父はもう笑っていなかった。厳しい言葉に、珠の進も口を噤む。オオクマはそんな小賢しい男ではない。ただ、自分自身の性分を恐れていただけだ。その性分のせいで珠の進をひどい目に遭わせかねないことを恐れた。だから、オオクマは誠実なのだ。好き勝手やろうと思えば、想いを寄せる珠の進を手玉に取って弄ぶことの方がずっと容易かったのにそれをしなかった。そういう諸々を、うまく説明したいのに、珠の進の喉から言葉が出ない。孔雀屋の親父が真剣だと感じるからだ。よほどの言葉でなければ響くはずもないとわかっている。
「俺の家の鍵を出せ」
じっと頭を下げて畳と自分の膝を見つめていたオオクマがおもむろに顔を上げ、珠の進に手を差し出した。オオクマがいまさら自分を捨てるなどとは思いもしないけれど、その言葉に珠の進は悲しくなった。しょぼしょぼと大事な鍵を懐から出してオオクマに渡す。そしてそれを、オオクマは孔雀屋の親父の前に置いた。ふーっと息を吐き、気合を入れなおす。
「お預かりください。彼も、置いて帰ります」
「そうですか」
「身ぃ引く気はありません。ただ、ご主人のおっしゃることもようわかります。お話を聞かせてもろて、ようわかりました」
「……」
「俺もない頭しぼって色々考えました。こんなピカピカした子を自分のねきに寄せるんは罪深いと、今でも思てます」
「……」
「諸々お見苦しいことやったんも、認めます。お恥ずかしいことです。諦めたかったんですが、それでも、この子に惚れてしまいました」
「……」
「でも、惚れたところでご主人に気に入らん言われたらそれまでです。二人で生きていくんは簡単ですけど、ご主人はこの子の親同然。親御さんの気に入らんもんと一緒におる親不孝を、この子にさせたない」
「……」
「きちんと真っ当に、この子を迎えたい。金の工面も気ぃ入れてやります」
「……」
「好いた子ぉには、いつも笑といてもらわな、一緒になる意味ありませんでしょう」
「……」
オオクマがコトの出身だとは、珠の進は知らなかった。そもそも出身地や家族構成などはよほど親しくなければ尋ねない。コトの出身者だとしても、ほとんどの人はこういう言葉を使わない。身についていないからだ。本当に古くから続く家や商売にかかわる人たちだけが、身内で話す方言。氏名さえ普段は名乗らないようなこの国で、自分の出自を詳らかにするに等しい行為は何のためなのか。でも、オオクマの言葉には自分への優しさばかりがあって、聞いている珠の進はこの場に不相応なほど嬉しかった。
「手紙でも、書きますわ。ご主人にも、この子にも。一緒におるんが、そら最高ですけど、会われへんでも死にません。気持ちが通じてたらね」
「……」
「えらい色々と勝手言いまして、お時間取らせました。今日のところは、これで失礼さしてもらいます」
「郁さん」
「俺は不甲斐ない男やけどな」
オオクマは真っすぐに正面の親父を見ていた視線を、ようやく隣の珠の進へ移した。そして、笑う。
「お前を、不幸にするようなやり方は嫌や。堪忍やで。お前も、諦めて俺のやり方につきおうてくれ」
「郁さん……」
「文才ないけどな、字ぃも汚いし。でもまあ、楽しみにしとき。毎日毎日、手紙書くわ」
「……はい」
「ご主人も、覚悟しといてください。長い話、しつこぉ書きますさかい」
「……」
「お返事は、気ぃ向いた時で結構ですわ、お忙しいですやろ」
オオクマは、そう言って孔雀屋の親父にも笑みを見せた。それはそれは、殊勝な言葉とは不釣り合いの不敵な笑みを。火が付いた。珠の進という男をそう簡単に手に入れられるはずがないのだと思い出した。自分の本性を曝したのは、同じく本性を見せて本音を言ってくれた親父への、真っ向からの宣戦布告だ。強敵に、勝ってみせよう。そして晴れて送り出してもらおう。この宝を、自分のところへ。
珠の進は突然の展開に大いに驚いて、頷くのが精いっぱいだ。知らないオオクマがいる。でも、自分をちゃんと好きでいてくれている。珠の進はさっと立ち上がると、孔雀屋の親父の隣に行き、オオクマと卓を挟んだそこへ座りなおした。
「毎日、待ってます、ここで」
珠の進は美しい顔で微笑んで頷いて見せる。これがしばらく見られないのかと、オオクマもその顔をじっと見つめて頷いた。孔雀屋の親父はさらに一段冷たい声を出す。
「珠の進」
「はい、親父さん」
「オオクマ様に、ご挨拶し」
「……はい」
珠の進は畳に手をついて深々と頭を下げる。オオクマはそれを受けて、孔雀屋を辞した。金策と、孔雀屋の親父対策。寝ている暇もなくなるだろう。しょうがない。どれほど時間が掛かろうが、やり切ってみせる。部屋を出る時に振り返りたかったけれど、偉そうに啖呵を切った手前、それもできずに、オオクマと珠の進は離れ離れとなった。
「……親父さんは、ご存じだったんですか」
「なにがや」
「郁さんが、本当のコトの人だって」
「蛇の道は蛇、ゆぅからな」
孔雀屋の親父はしらっとした顔で襖の向こうに声を掛け、自分の分と珠の進の分のお茶を所望した。氏を持たない者もいるこの国で、"大"という字のつく氏を持つ者はさらに限られる。オオクマがその名で偏見を持たれないのは、風体と相まって通り名のような印象が先行するからだろう。大将、大君。"大"にはそれなりの意味がある。
「お茶でも、あがりよし」
「はい」
珠の進は立ち上がって、親父の正面に座りなおす。そこにはまだ、オオクマの体温が少しだけ残っていた。
◆
「足りねぇな、全然」
一人部屋の中で、オオクマが呟く。金が足りない。多少の蓄えや資産はあるものの、その程度では半分も賄えないだろう。だろう、というのは、そもそも身請けの申し出を見世に断られているから、珠の進の身代金がどの程度なのか提示されていないからだ。それにオオクマの相続している資産の類は簡単に買い手のつくものではないから現金化が難しい。
コトの歴史上、伝説の様に語り継がれる男娼や女娼は何人かいる。彼らの身代金も、正直噂が噂を呼んでいるところがあるので実態は判然とはしないが、それを参考にするとしたら全く足りない。足りるはずがない。オオクマはしがない警察官だ。比較的優秀で、特別な仕事を任されることが多いとはいえ、所詮は公僕。財を為すような職業ではない。
「……家に帰るかぁ」
実家に戻って頭を下げれば、金くらい唸るほど出てくるだろう。珠の進を孔雀屋に戻してもうずいぶん経つ。会いたいし、彼に申し訳ない。手紙は毎日書いている。彼も返事をくれる。自分が寂しいと思うのと同じくらい彼も寂しがっているのだとすれば、早く事を進めなければと焦る。金があっても孔雀屋の親父を攻略できなければ身請けは難しいが、金がなければ全く話にならないのだ。家業は双子の妹たちが手伝っていて、自分はとうに家を出た身だ。金の無心などしたこともないし、そもそも普段実家には寄り付かない。家族と疎遠なわけではないけれど、どうも自分とは考え方や調子が合わないのだ。両親も健在で、折々の挨拶で顔を出せば、オオクマの理解できない話がコトの訛り言葉で延々と繰り返される。それを聞くのが嫌なのではない。長いのだ、話が。そして家族の誰も、自分以外の人の話を聞かないから、会話が成り立たない。生まれた時からそんな環境だから慣れたものだけれど、もし珠の進と一緒になったら、紹介した方がいいのだろうか。いくら珠の進とはいえ、うちの家族の相手をするのは骨が折れるだろうなと、オオクマは苦笑いした。とにかく考えている暇はない。立っている者は親でも使えというではないか。怪しいところからあちこち金を借りるより、実家から借りた方がずっといい。多分妹たちは利子を取るだろうが、交渉の余地はある。はず。手ごわいけど。取り立ても容赦ないだろうけど、しょうがない。
そんなこんなで、オオクマは翌日の仕事帰りに早速実家を訪ねた。ちょうど食事時だったから、ありがたく相伴させてもらう。相変わらず、家族はみんな好き勝手に話していて、この歳になるとそれが結構落ち着くものだと感じながら、オオクマは適当に相槌を打っていた。
「そういえば郁さん、今日は何しに帰ってきたん?」
「お金貸して欲しくてな」
「いや。珍し。なんぼ?」
「わからん。わからんけど、目ん玉飛び出るくらいのお金、今度頼んだ時にすっと貸してくれ」
「わけのわからん話やねぇ」
「せやな、ごめんやで」
「ええけど、今要るんちゃうの」
「今はまだ要らん。なんぼかかるかわからんし」
「何買うん」
「買うゆぅか、……孔雀屋の珠の進ていてるやろ、あの子身請けしたいねん」
黙って話を聞いていた父親が、ちょうど口に含んだところだった酒をブッと噴いた。話し相手だった母もギュンッと眉間に皺を寄せる。妹たちは案の定、手を叩いて笑いだす。
「嘘やん、お兄ちゃんそんなん考えてんの?あほちゃう」
「あほちゃうわ」
「相手にしてもらえるわけないやん」
「してもぉてるわ。お金と、見世の親父の許可があれば身請けできんねん」
「お兄ちゃん……そんなん真に受けて……かわいそう……」
「かわいそう言うな。騙されてない」
「お金も許可もないねんから、話にならへんのに……」
「だからここへ頼みに来たんや」
「すごい!ほんまもんの甲斐性無しやん!」
「甲斐性無し言うな」
「あんたらあんまりお兄ちゃんいじめなさんな。親子の縁は切れてもきょうだいの縁は切られへんのよ、なんぼかわいそうな甲斐性無しであっても」
「おかんまで何言うてんねん。ちゃんと本人とは話ついとるっちゅうねん」
「郁、気ぃは確かか」
「まあな。おとん、口拭けや」
「お前、久しぶりに帰ってきたか思たら、腕上げたなぁ」
「別に笑かしに来てんちゃう。お金を貸してくれって頼んでんねん」
「ほーん」
だから嫌だったのだ。家族の誰も、珠の進とオオクマが恋仲であるなどとは信じない。信じてくれなくてもいいから金の工面だけは手伝ってもらわなければ、金策は行き詰まる。父親は口を拭って、新しい酒を煽って息を吐く。
「孔雀屋さんのなぁ。何べんか歌と踊りと見せてもろたことあるわ」
「さすがやな」
「俺が呼んだんやないけどな。お呼ばれした宴席に、珠の進もおって」
「ふうん」
「それこそお前、目ん玉飛び出るくらいの綺麗さやったで」
「せやろ」
「ニコニコして愛想もええし」
「せやねん」
「歌も踊りも見事なもんやったわ」
「せやろな」
「やから、郁、妄想はやめとき。お前の手に負える相手やない」
「おー……」
これはダメだ。まったく話が通じない。実家の美味い飯を口にしながら、自分抜きで自分の話を、四人が口々に語るのを聞き流しながら、もういい、とにかく頼めば金はどうにでもなるとオオクマは悟って、孔雀屋の親父対策を考えることにした。さっさと食事を済ませると、長居は無用と、家業の実務者である妹二人に、お金は頼むでと念を押してから玄関へ向かう。オオクマを見送りについてきたのは母親だ。靴を履く背中に向かって、何かと母親らしい言葉を掛けてくる。
「まだまだ寒いし、風邪ひかんときや」
「うん、おかんもな」
「仕事も無理せんと」
「うん、おとんにもそれ言うといて」
「たまにはあんた、手紙くらい書いて」
「うん、今度な」
「その子、珠の進さんの、何がええの」
「………………かわいいとこ」
「ふーん。あほくさ」
「何その返し!?」
「もうちょっとおもろいこと言うかな思てんけど、あんまりしょうもないこと言うからお母さんびっくりしたわ」
「しょうもないて何!?興味ないなら聞かんといてくれる!?答えたこっちが恥ずいわ!」
「あんたそんなおもろないことばっかり言うからあかんのちゃう?」
「あかんて何よ!?」
「顔が好きやの頭がいいやの仕事が何やの言うてもな、やっぱりしょうもない人とはおられへんやん?辛気くさいし」
「いや、知らんやん?おかんの都合は知らんやん?そもそも今の質問でおもろい答えなんかあるか!?」
「はー、誰に似たんやろか」
「誰やろね!?」
「気ぃつけて帰りよ」
「おーきに、ごっそさん!ほなさいなら!」
「またおいでね」
母親とは特に話が合わない。全く合わない。本人に悪気はないらしいが、相手をしているととても疲れる。オオクマはぐったりして実家を辞した。腹はふくれ、金の算段はつき、しかし孔雀屋の親父に勝つ方法はまだわからない。もちろんせっせと手紙は送っているが、返事は貰っていない。長い戦いになるのは、避けたいのだけれど。
◆
オオクマと接触があって以降、孔雀屋の親父はまったくいつも通りだった。自分に届くのと同じように、もしくはそれ以上の頻度かもしれない、オオクマから手紙が親父にも届いているはずだけれど、何も言わない。もちろん、コトの訛りなどわずかも聞かない。さらさらと静かに、珠の進の一人の時間は過ぎてゆき、オオクマが今までよりも近いと感じる日もあれば、もう二度と会えないのかなぁと諦めが過る日もある。
ある日珠の進がいつものようにすずらんの踊りを見てあげていたら、親父に呼ばれて部屋を訪ねた。お茶を出してもらって、すずらんの話やそのほかの子たちの話を少しする。いつものことだ。そうしたら、親父が、オオクマのところへ戻れと言い出した。びっくりして大きく涼やかな目をぱちくりさせて小首をかしげる珠の進に、親父が笑う。
「あのむさくるしい警察官は、意外とまじめだ。本当に毎日長い手紙を寄越す。もう、文箱にも収まらないよ。迷惑千万、うんざりだ。戻りなさい」
「いや、あの、でも」
嬉しい。とても嬉しい許しではあるけれど、突然すぎて珠の進は動揺した。状況は何も変わっていない。なのになぜ?と。もちろん親父は、珠の進の動揺を理解している。
「あの男の根性が気に入らないと言ったけどね」
「はい」
「それは今でも変わらないけどね」
「はい」
「いつまでもお前を、ここに閉じ込めることが正しいとは思っていないよ。ずっと、ずっと、大事に育てた子だとしてもだ」
「はい。僕も、親父さんにとても大事にされていると、いつも感じています」
「うん。私はね、珠の進を預かりものだと思ってきた。ほかの子もそうだけど、お前は特にね。天から預かり、先代から託され、コトから任された子だと」
「はい」
「そんなお前がね、この世のあらゆるいいもので目を肥やし、知性を備え、教養のあるお前が、あんなむさくるしいのを選んだのは驚いたよ」
「あの、あの人はいい人です」
「いい人だろうね、お前が見込んだんだから。でももう少しすっきりした風情のある人でもよかったんじゃないのかい」
「クマみたいな郁さんがいいです。とっても優しいです」
「そうかい。ま、この私にあれだけ怯まず啖呵を切って、言葉通り毎日内容のある手紙を書いて寄越す。字は確かに綺麗じゃないね。でもまあ、達者な方だ。何より、お前を好いていて、お前も惚れている。長続きするかどうかはわからないけど、この先ああいうのは出てこないだろう。お前の眼鏡にかなう者はね」
「はい」
「今後のことは、お前にも考えがあるんだろう」
「……はい」
本当に、許してもらえるのか。珠の進はまだ信じられなくて、上の空だった。いったいオオクマはどんな手紙を親父に送っていたのだろうか。そして、自分の考えはきっと親父にはお見通しなのだと嬉しいような気分だった。
実際のところ、親父はあの日、すでにオオクマを認めていた。自分の許しがなければ一緒になれない二人。引き裂かれそう、でも、頑張ろうねと頷き合う若い恋人同士。しかしあいにく盛り上がる彼らよりも、孔雀屋の親父の方がよほど上手だ。仲を反対することへの罪悪感もなければ後ろめたさも皆無。あのクマみたいな風体の警察官が気に入らないことは間違いなく本気の本音。ただまあ、思っていたほど情けないこともないようだと、あの時思った。自分が本気で威圧して、あそこまできっちり受け止め返す胆力は、さすがは大久間家の人間といったところだろう。こういうことは、初手で強く牽制しながら脅かして、程よい反発があったところで引くのが吉。どれほどの悪路だろうと、人の恋路を邪魔立てなどするものではないと、親父はもちろん心得ている。厄介なことになるのが明白だからだ。腹のくくり方が甘かったオオクマも、親父につられて目が覚めたようだった。それでも、その場で申し出を受けてしまうのも癪であったし、どのような行動に出るのだろうかと興味もあった。オオクマは意外なほど真面目に長い手紙を毎日したためて送って寄こした。内容は、珠の進のことは精いっぱい大事にするということと、その時々に合った世間話だ。その世間話が、なかなか面白い。警察官という立場を踏まえてもなお余りある洞察力と分析力を覗かせる文章が、平易な言葉であっさりと連ねられている。ところどころに珠の進への心配が含まれていたりして、それがまた、あの風体からは想像もつかないほど繊細な気遣いに思えて、ただの大男ではないと改めて認めざるを得ない。間違いなく、珠の進にふさわしいだろう。なにより、珠の進本人が惚れているのだ。初恋という普通の人が幼稚な感情で消費してしまうような出来事を、珠の進はじっと長らく待ちのぞみ、ようやく知った。相手を見誤るとは思えない。いつまでも仲睦まじくというのは、二人の努力次第であるからそこにまで口を挟むつもりはない。始まりがこれだけ上出来であれば、反対する理由はないのだが、オオクマからの申し出は珠の進を身請けしたいとのことだった。彼らの交際を認めようと思えば当然そういうことになるだろう。しかし、孔雀屋の親父には、珠の進が誰かに身請けされるという話が腑に落ちなかった。それに、オオクマが必要な金を満額用意できるとは思えない。珠の進ほどの格でなくとも、人気のある男娼を身請けしようと思えば、掛かる費用は普通の警察官が真っ当に集められる額ではない。どうにかしようと思えば、不法に金を借りるか、悪事に手を染めるしかない。身の丈に合わない無茶な金策は、二人の未来を黒く塗りつぶす。聞くところによればオオクマは、警察関係の組合や銀行に借り入れを申請していたらしい。正攻法で、自分の収入に見合った額しか借りられないから返済に行き詰まることは起こりにくくとも、得られるのは目標額には程遠い。だからだろう、そちらはそちらとして、足りない分を実家に頼んだようだった。彼の実家は資産家だ。資産家というのも本当は違うが、とにかく金がある。珠の進の五人や六人、身請けして面倒を見る程度の金などその場で出てくるだろう。甘えだと言えばそれまでだけれど、おかしな借金を作るよりはよほどマシだ。いや、もしかしたら実家を頼る方がのちの厄介は大きいかもしれない。でも、オオクマはそれを受け入れたようだ。その判断を孔雀屋の親父は賢明だと納得し、珠の進を戻すことを決めた。
これ以上引き延ばしたところで何も生まない。彼から手紙が届かなくなるのは残念だし、この美しい子が去るのを見送るのも、とても寂しいけれど。
「珠の進」
「はい、親父さん」
「もしあのむさくるしいのの家の人と顔を合わせることがあれば」
「はい」
「向こうの調子に合わせない事だ。あの家の人はみんな、独特だから」
「親父さんは、郁さんのご実家の方と面識があるんですか?」
「お互い、コトで商売して長いからね」
「そうですか。じゃあ、郁さんのことも」
「あのむさくるしいのは若いうちに出奔したから、面識はなかったよ」
「出奔」
「気持ちはわかる」
「わかるんですか」
「あそこのおかみさん、すごく怖いからね」
「……」
「怖いって言ったって、いじわるされるとかじゃないよ。大丈夫だ」
「……」
「そのうちわかるかもしれないが、あの怖さがわかるほど近寄るべきじゃないし、むさくるしいのが近寄らせないと思うよ」
「……」
「なんとなく伝わるものがあったとしても、何もわからないという顔をしておきなさい」
珍しく、孔雀屋の親父の歯切れが悪い。珠の進はそれ以上聞かなかった。
コトで顔の広い孔雀屋の親父とはいえ、オオクマの挙動の詳細を把握するのは無理がある。なぜオオクマが実家に金を借りに行ったと知っているか。それは、出かけた先で"偶然"彼の母親と顔を合わせ、"ちょっとした世間話"をしたからだ。あれは絶対に、向こうが計画的に接触してきたと、親父は確信している。
「あら、孔雀屋のご主人様ではございませんか?お久しぶりでございます」
「これはこれは、大の奥様。ご無沙汰しております」
「宅の主人がいつもお世話になっております」
「大のご主人様におかれましては、常からご贔屓お引き立てを賜りまして、ありがたいことでございます」
「あの人ったら出不精なのに、孔雀屋さんにだけはいつも嬉しそうに出かけていきますのよ、なんでも、芸の格が違うとか」
「恐れ入ります。芸事の精進だけは、どうにか励むように言って聞かせております」
「皆さん、ご立派でいらっしゃって」
「身を寄せ合うようにして、恥をかきながらというところでございます」
「積み重ねが長くなればなるほど、ますます値打ちも上がって磨きもかかってお客さまがたにも喜ばれるんでしょうね」
「そのようであればなによりなのですが、これがなかなか」
「さすがですね。一生に一度は孔雀屋さんで一席設けたいと、あこがれの的ですものね」
「恐れ多いことでございます。これからも細く長く、コトの隅でやらせてもらえたら本望です」
「私も今度、主人について行こうかしら」
「ぜひお運びください。精いっぱいおもてなしさせていただきます」
にこにこと陽気に上品に、オオクマの母親は孔雀屋の親父とそのような会話をし、それではごめんくださいと機嫌よく別れた。とても怖かった。いつもよりも怖かった。そしていつもよりも、少し話が長かった。それで親父は察するのだ。ああ、あのむさくるしいのは、実家にこの度の事の次第を話し、金の工面を頼んだようだなと。でなければ、あの人が孔雀屋の宴席に顔を出そうかなどと、冗談でも口にするはずがない。孔雀屋は妓楼だけれど、共寝を伴わず酒宴だけを承ることもあるし、料亭などに男娼たちを派遣して華を添えることもある。歌も踊りも接客もできなければ孔雀屋では一人前とは言えない。そんな酒席は、性接待が皆無ではあっても、あのご婦人が来る場所ではない。恐ろしい。コトにおいては絶対に逆らってはいけない人物の一人だ。こんな風ななんでもないやり取りで彼女の意図を察したとしても、それを絶対に顔に出してはならず、粛々と受け止めるしかない。察せないようでは次はない。向こうはこちらをよく見ている。今回の真意は、うちの坊やがご面倒をおかけしているようで、どうぞ許してくださいね。何かあればそちらへ顔を出す主人に言伝てもらえれば結構です。もしなんでしたら、私が直接、その名高い珠の進さんとやらにお会いしましょうか。とまあ、そんなところだろう。ああ、恐ろしい。あんな恐ろしい人たちのいる実家に、珠の進のために金を貸してくれと頭を下げたのだからこれで手打ちだ。できる限り、関わり合いになりたくない。
親父は湯のみを手にして、ふうと息を吹きかける。
「むさくるしいのは、仕事を言い訳にお前の傍にいなくていざという時には役に立たないだろう。いいね、今まで以上に身辺に気をつけなさい」
「あの、……はい」
「ああ、これでようやく、私もお前を本当の息子のように思えるよ」
「……え?」
「私のまだ若い時分にこの見世に突然現れたお前のことを、今でも鮮明に覚えているよ。先代はお前をどうするか、本当に悩んでいてね」
「はい」
「うちで働かせるべきかどうか。働かせると言ったって色々あるしね。でも結局お前の美しさを磨くこととしたんだ。外側も内側も、今となってはお前はピカピカで、本当に立派で、伝説の男娼だなんていう枕詞が陳腐でかすんで見えるほど、本当に……」
「親父さん」
珠の進は、親父が泣くのではないかと思わず腰を浮かせ、懐紙を取り出そうとさえした。しかしもちろん、親父は泣いたりはしない。目を細めて、穏やかに、珠の進をしみじみ眺めて、独り言のように胸の内を語る。
「ずっと、お前が大事だったよ。でも私はこの見世の主人だ。うちが抱える男娼としてしかお前を見ないようにしてきた。お前にこの度のような転機が訪れて、正直ほっとしているよ。預かりものだった珠の進は、ようやく、私の息子だと誰にでも言える。私の大事な息子だとね」
「親父さん……」
「長い間、ありがとう、珠の進。本当によく頑張ったね。お前は私の誇りだ。自慢の息子だよ。誰よりもいい子で、お前がいてくれて、私はコトで一番しあわせ者だ」
「僕、ぼくも、」
「楽しくおやりよ、珠の進。あのむさくるしいのと一緒にね。立派じゃなくたっていいのさ。綺麗じゃなくなったっていい。人生は、楽しいのが一番だ」
「はい、必ず」
不安はない。あの人と一緒に、楽しくやっていける。孔雀屋の男娼でなくなっても、ここで過ごした日々がなくなるわけではないのだ。ああ、新しい人生が、始まる。親父は快活に笑い、大きく頷く。
「色んなことがある、これから、山のように。しっかり気張るんだよ。でも私がいつも、お前のこと応援してるから。何があっても味方さ。なんの心配も要らない」
「はい、はい」
「お前のこれからが、私にとっても楽しみだよ。さあ、じゃあ、新しい名をあげるよ。私にできるのはそのくらいだ」
◆
今からそちらへ参ります
珠の進からのそんな手紙が、ちょうど仕事を終えて帰宅し、風呂を済ませたオオクマに届いた。何事かと驚いている間に、玄関先に気配がして、軽やかな音ともに鍵が開く。慌てて走って行けば、ゆっくりと扉の向こうから美しい男が姿を現した。ああ、この男はこんなにも綺麗だったかな。
「お前、なんで」
「親父さんが、郁さんのところへ行ってもいいって」
「それは」
「僕が頼んだわけじゃないよ。ちゃんと大人しく待ってたけど、急にいいよって」
「……」
「今後のことは改めて連絡するって言ってた。そのうち手紙が来るんじゃないかな」
「……」
「郁さんの考えはわかるよ。お金のこととか、それなりに正規の手順を踏まないとって思ってるんでしょう」
「そうだ。お前の経歴に泥を塗るわけにはいかない」
「そんなの僕は気にしないけど」
「だめだ。お前はずっと立派にやってきたのに、最後はろくでもない男に誑かされてみじめな扱いだったと噂が」
「そんなことにはならない。大丈夫だよ」
「いいか、お前は」
「しつこーい。僕も親父さんも、そんなに馬鹿じゃない」
「……」
「えっと」
「……おかえり」
「ただいま!」
いつもオオクマの帰ってくる頃合いに来ていたから、オオクマに出迎えてもらったことはなかった。珠の進は嬉しそうに笑い、履物を脱いで、オオクマに抱きついた。久しぶりの再会にお互いを確かめ合うように抱きしめあう。
「郁さん、手紙をたくさんありがとうね。すごく嬉しかった」
「ああ」
「字が汚いなんて嘘。すごくきれいな字だった」
「そうか?」
「うん、全部額装して飾りたい」
「それはお前、やめておいてくれ」
「ふふふ」
「よっこらせ」
「わー!あははは」
腕に抱いた珠の進を放したくなくて、オオクマはそのまま抱え上げて居間へ移動した。長椅子に座り、その膝の上に珠の進を座らせる。オオクマがこんな風に自分を甘やかすのが新鮮で、ああ、そうか、恋が実ったからかなと珠の進はにこにこしている。実際はオオクマの方が珠の進に甘えているのだけれど。
「……悪かった。俺の段取りが悪いせいで、お前をずいぶん待たせて、結局まだ何もできてない」
「結構久しぶりだね」
「正直、会えて助かった。ギリギリだ」
「僕もだよ」
「帰ってきてくれたのに、おかしなことを言ってすまん」
「郁さんのいいところだよ、まじめで融通が利かないの」
「そうか」
「うん」
オオクマの無精髭を指先でサリサリと触りながら、珠の進は、何度も頷く。会いたかった。おかえりって言ってくれた。真っ先に自分の心配をしてくれた。嬉しい。大好き。珠の進はたまらず、もう一度オオクマの首に腕を巻き付けてぎゅっと抱きつく。なんでこんなに安心するのかな。好きなだけじゃ、きっとこうはならない。珠の進は目を閉じて、全身をオオクマに預けるようにくっついたまま、呟いた。
「郁さん、僕のこと好き?」
「ああ」
「ふふ、だと思った」
好きなんだ、この人は、自分のことが。今までとてもたくさんの好意を差し出されてきた珠の進だけれど、覚えのない満足感だ。何もしなくても、この人は自分を好きでいてくれる。それは孔雀屋の親父への信頼にも似た気持ちだ。ものすごくありがたくて、優しい。くっついたままコロコロと笑っている珠の進の背を撫でて、色々と問題はあるけれど、何一つ解決はしていないけど、とりあえず帰ってきてくれたとオオクマもほっと息を吐く。この手触りのいい着物を全部むしり取りたいと考えながら。
「あの、ね、郁さん」
「なんだ」
「……郁さんのお家って、ご実家って、なんだか凄いの?」
腕を緩めて、おずおずと身体を離し、珠の進が小首をかしげてオオクマに問う。あまり離れられないように珠の進の腰と背中に腕を回したまま、オオクマは事も無げに言った。
「いや、別に」
「……そう」
「ごく普通だとは言わんが、古くからなんとなく続いているだけだ。そういう家が今は少ないから、妙に周りから浮いた存在なんだろう」
「そう、なの?」
「あっさり付き合う分には、害はない」
「……そう。不仲とかじゃ、ないよね」
「家に帰ることはあまりないが、独り立ちしたらそんなもんだろう。ミハナだってもう長いこと実家に帰ってないとさ」
「うん」
「どれほど否定したってあそこが俺の実家であることは変わらんから、聞きたいことがあれば話すし、近々お前を連れて行こうとは思っている」
「え!」
「嫌か」
「……嫌じゃないけど」
「けど」
「……ちゃんと、お行儀よくできるかなって……」
「お行儀よくする必要はない。俺の隣にいてくれれば、居眠りしてたっていい」
「できないよ」
「家にはうるさいのばっかりいるから寝にくいかもしれん、それは我慢してくれ」
「声が大きいのかな?郁さん、いつも穏やかだし大きい声あんまり出さないのに」
「俺も家に帰ると声がでかくなるし騒がしくなる」
「そうなんだ」
「振り回されるんだ、理不尽に。特に母親が曲者でな。全く俺の話を聞かないからついムキになってしまう」
「……興味がわいてきた。寝たふりして、そんな郁さんを見たいな」
「おお、それはいい考えだ。寝たふりな、お前、いいこと言うな」
「そう?」
「ああ。弟はコトにいないがそのうち旅行がてら会いに行こう」
「うん。郁さんに似てる?」
「似ているとよく言われて育ったな」
「そっかー。じゃあ、コグマさんだね」
「そうかもな」
オオクマが目を細めて、かわいいことを言う珠の進を見つめる。珠の進も、オオクマを見つめ返して、少しはにかんで見せる。珠の進の両手が、オオクマの頬を包む。見つめ合って、言葉のない時間がほんの少し流れていく。先にじれたのは珠の進だ。
「……しないの?親父さん、何もかも好きにしていいって。それって、そういうことしてもいいってことだよ?」
「ああ、だろうな」
孔雀屋の親父の真意ははかりかねるが、孔雀屋から珠の進を出したのだ。仲を認めてくれたということだろう。そうであれば当然、そのようなことも解禁と解釈するのが当然だ。襲い掛かりたいのは山々ではあるのだが。
「これは俺の趣味なんだが」
「うん」
「二日目がうまいんだよなぁ……」
「ふつかめがうまい、とは」
この間見世で抱いたことはひとまず置いておいて、恋人としての初めての夜をじっくり過ごした後、寝て起きて、二日目。それを抱くのがいいのだ。だから、次の日が休みでなければいけない。あいにく明日もオオクマは仕事だ。
「仕事の休みを確認するから」
「うん。お仕事忙しいね」
「まあ、それはしょうがねぇ。物入りだしな、働くさ」
「がんばってね」
「任せとけ。それで、休みがわかったらお前を抱くことにする」
「うん」
珠の進は少し不安で不満だったけれど、オオクマが自分を優しく撫でてくれるから、大丈夫、この人は別に僕に飽きたわけじゃないと納得して頷いた。オオクマは珠の進の小さな顔を手のひらにすっぽりとおさめ、すりすりと耳のあたりを摩りながら、飯は食ったのかと聞く。
「うん、食べた」
「そうか。うまかったか」
「うん、うちの板長のご飯が、僕は一番好き」
「そうか。よかったな」
「うん、ありがとう」
「なあ」
「なぁに」
「……何かあったら俺に言えよ」
「何かって?」
「なんでもだ。孔雀屋の外には、お前が知らないこともあるだろう。お前を一人にすることもある。嫌なことや、怖いことがあっても、ちゃんと聞いて、見て、俺に話せ」
「…………」
「そうしたら、俺が全部消してやる」
「うん」
「いいこともだ。全部ちゃんとだ」
「うん」
一緒にいられるのは朝や晩の短い時間と、たまの非番の日だけ。ここにいるというのなら、孔雀屋に住んでいた時のように見張りがいるわけでもないし、気やすい仲間もいない。珠の進は、一人で生きていけるようにならないといけない。オオクマは彼を一人にさせる気などないが、それは精神的な部分が大きく、常に傍にいられるわけではない。多岐の言葉が少しだけ気がかりだったのだ。オオクマは、珠の進を多岐のようには扱えない。だから、強くなって欲しいし、そのために自分を頼って欲しいと思う。珠の進は、こくり、こくりと、何度も頷いて、オオクマの言葉を噛み締め覚悟を決める。新しいことを始めるのだ、そのくらい、当然だ。
「ふふふ、あのね、じゃあさっそくいいことがあったから教えてあげるよ」
「なんだ?」
「たまきだって」
「あ?」
「親父さんがくれた。僕の新しい名だよ」
「……」
「あれ?気に入らない?」
「いや、すごくいいから、びっくりした」
「あはは」
「でもなんで急に」
「これからは、珠の進じゃない時間があってもいいんじゃないかって」
「そうか」
「珠の進だよ、僕は、ずっと。でも、新しい生活を始めるのに、相棒がいてもいいんじゃないかって」
「相棒」
「そうだよ。一緒に、新しい僕を作るの」
「そうか」
「郁さんも一緒に」
「そうだな」
「変かな?ねぇ、どう思う?本当のことを言えば、まだ馴染まないんだ。名を変えることも抵抗がある。珠の進でいたことをなくしたくない」
「……俺はな、子供のころは郁って名じゃなかった」
「え。そうなの?」
「うちん家のこだわりらしくてな、生まれた時にはとりあえず、昔からの決まった名で呼ばれる。男も女もな。それでちゃんと育ったら、名が変わる。ちなみにうちは長寿でな。ちゃんと育たなかった子などいないらしいが、そうなるとますますこういう慣習を続ける羽目になる」
「へぇ……不思議な習慣だね」
「だから、よくあることだ。あまり深く考えなくていいんじゃねぇか?気分で使い分けたってかまわんだろう。お前はその名をどう思うんだ」
「ふふふ。実は結構好き。いいよね、響きもいいし」
「ああ。どんな字を書く?」
「ひらがなだって。珠って字が頭にはあるけど、僕に合うきって字が思いつかないから、仮名でいいんじゃないかって」
「そうか」
「ちょっと、郁さん、呼んでみて」
「……たまき」
「はい」
珠の進は嬉しそうに笑った。珠の進を捨てる気はなく、過去も大事に抱えて、たまきの時間を大切にして、オオクマの傍で生きていく。
「いい名だ。最高に」
「まあね」
珠の進はようやく安心した。ほっとした。自分の選んだ道とはいえ、あまりに目まぐるしい日々で、すべてのことに意味があるのだと、そのはずだからといつも考え込んでしまっていた。だけど、好きな人が深く考えなくていいと言ってくれた。気持ちが軽くなった。きっとこれから、いいときも悪いときも、この人が今のように支えてくれるんだ。よく、わかった。それってきっととても楽しいに違いない。
「ねえ、今日あった郁さんのいいこと教えてよ」
「お前が帰ってきた」
「すごい!それはよかったね」
「だろう?」
「うん。とってもおめでたい」
オオクマは機嫌よくにこにこと笑う珠の進があまりにもかわいくて、つややかな髪を撫で、目じりに唇を寄せた。わずかに触れるだけの口づけは、それでもオオクマの溢れる気持ちが十分伝わったらしい。珠の進は見る見るうちに真っ赤になってしまった。こういうことは、されたことがない。甘い口づけが、この世にはあるのだと聞いたことがある。でも口づけに酸いも甘いもなく、ただ性行為の一部でしかないというのが珠の進の持論だ。そういう口づけしか知らないし、ほかに用途が思いつかない。でも、今、思い知らされた。甘い口づけは、ある。
「お前」
「郁さんが変なことするから」
「変なことをしないようにしてるんだが」
「それが変だって言うんだよー」
珠の進がさらに顔を赤くする。首元まですっかり真っ赤だ。そして、勃起している。もう長いこと、こういうことは全部自分の意識でどうにでもなった。相手のも含めてだ。なのに、目元に唇で触れられただけで、勝手に勃ってしまった。恥ずかしくて死にそうで、珠の進はたおやかな手で自分の顔を覆う。その手に、オオクマがまた口づけをした。珠の進はくぐもった声でやめてよー!と悲鳴を上げる。
「なんなの、郁さん、たらしだね!」
「そうか?手をどけろよ」
「やだよ、僕は天下の珠の進だよ、こんな顔見せたくないよ」
「それは残念だなぁ」
オオクマは笑いをこらえながらあえて神妙に返事をし、珠の進の小さな頭を抱えるように抱き寄せて腕の中に収める。彼には彼なりの段取りがあるのだろう。まあ、次の閨では全部見るが。
「郁さん、やさしー……」
「お前、結構騙されやすいな」
「何言ってるの?僕の人を見る目は間違いないんだよ」
「そうか。落ち着いたか?」
「うん……」
「とりあえず、寝るか」
「うん。ねえ、僕、ここに住んでもいい?」
「あ?ほかにどこに住むんだ」
「一応、聞いただけ」
「見世から荷物、持ってくるか?」
「そうだね」
「ああ」
「ねえ、僕、布団がいいんだけど」
「そうか、畳敷くか」
「うん。寝相が悪くても落ちなくて安心だ」
「お前別に寝相悪くねぇだろ」
「今は多分、まだ緊張してるから。そのうち悪くなると思う」
「そうか」
想いの通じ合った恋人同士が何もせずに同じ布団に寝るのもなかなか酷な作業ではあったけれど、二人は照れたり笑ったりしながら一緒に眠った。
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