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第30話

灯真は、雫が消えてからしばらくは、不安定な精神状態が続き、 屋敷から飛び出ようとしたり、ひどい癇癪をおこして暴れたりを繰り返していた。 屋敷の中を雫の名を呼びながら徘徊していたと思えば、 行き先を知っているはずもないのに突然、「しずくのところに行く」と 呟きながら外にでてメイドたちをあわてさせたり、部屋の物を投げたり倒したりして 泣きわめくこともあった。 わざと自分を傷つける行為もみられたので、刃物や紐状のものはもちろん隠したが、 長瀬は灯真からいっときも目が離せなくなった。 食事はもちろん、風呂も寝室もともにした。 「安心しなさい。わたしは何もしないから。」 胎児のようにまるくなって背中をむける灯真に、隣に横たわって髪をなでながら、 長瀬は繰り返しそう言った。 灯真の父はまだときおり捜査員が訪れる自宅を鬱陶しがり、 忌明け前から長瀬に全権をまかせて外泊を続けていた。 どうやら妾宅にいるようだった。 思えば千景も少し気の毒だったな、と長瀬はため息まじりに思った。 ある朝、つい深く寝入ってしまった長瀬が目覚めると、ベッドに灯真の姿がなかった。 「しまった。」あわてて起き上がると、窓際の小さな机の前に踞っている彼が見えた。 ほっとしながら近寄ると、以前自分が描いた雫の絵を抱きかかえて、 首をがっくりと前に落としている。 「灯真?」肩を掴んで振り返らせようとして目を剥いた。 手と口元が赤く染まっている。がっちりと抱きしめているキャンバスを引きはがして、 握った拳を開かせてみると、絞りきったカドミウム・レッドの絵の具があった。 これは毒だと、自分が教えた!!長瀬は呻いた。 意識がないと思っていた灯真の口元がかすかに動いた。 「し・ず・・・・・。」そのまま昏倒した灯真を抱き上げて、長瀬は部屋を飛び出した。 発見と処置が早かったので、灯真のからだは深刻な事態は避けることができた。 何日も昏睡が続いて、ようやく目覚めた灯真を抱きしめて、長瀬は号泣した。 「お願いだから二度とこんなことはしないでくれ。  わたしを置いて行かないでくれ。灯真。」 「せんせい・・・・。」 「わたしが雫のかわりにならないことはわかっているよ。  だが灯真、わたしにとって君のかわりもいないんだよ。」 「・・・・・。」 「わたしがどれだけ君を愛しているか・・・。愛しているよ、灯真。」 灯真の目から涙がこぼれた。だが、表情は固く凍り付いたままだった。 もう疲れた。もうなにも考えたくない。そう思って絵の具を口にした。 先生の気持ちには気付いていた。大人で唯一、心ゆるせる人だった。 でも雫とは違う。雫のようには愛せない。 だけどもう疲れたよ。僕。 せんせいを傷つけるのは僕もかなしい。でも。だから。でも・・・ 考えが、おなじところをぐるぐるまわる。 ねえ。もう、どうしていいかわからない。 せんせいのいうとおりにします。だから・・・・・。 僕・・・。もう、楽になってもいい? それから灯真は、暴れる事も屋敷を抜け出すことも、死のうとすることも しなくなった。 だが今まで以上に外界に興味を失い、心に壁をたててそのなかにひっそりと 閉じこもってしまった。

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