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第29話

「おい、仕事だ。」 目の下に隈をつくって憔悴している雫を、千田はまだうす暗い外に連れ出した。 「長瀬とは医大で一緒でな。俺はずっと船医・・船乗りの医者な、をやってたんだ。  で、いろいろあって船を降りて・・・。今は百姓だ。」 海の匂いの風が吹く小高い丘に、千田の畑があった。 野菜に混じって花も植えられている。 「こいつがけっこういい金になる。」色とりどりに咲き乱れる花のなかで千田が言った。 千田はとてつもなく人使いが荒かった。 慣れない畑仕事にふらふらになったところでずっしりと重い包みを渡された。 中から出て来た握り飯の大きさに、「絶対むり。」と思った雫だったが、 気付けばぺろりと食べてしまっていた。 考えれば、灯真のもとを離れてから、ほとんどろくに食事をしていなかった。 空腹すら感じなかったのだ。 「喰えたな。」千田はにやりと笑うと、雫の頭を軽くぱし、とはたき、 「よし、じゃまたひと仕事だ。」と言って立ち上がった。 くたくたになるまで体を動かしたせいで、その日の夜は、夢も見ずに眠った。 翌日の朝も早くから畑にでた。 体中が痛くて、顔をしかめながら、それでも雫は懸命に働いた。 来る日も来る日も。 千田はあれから、何もしてこなかった。 ただ仕事の指示を出し、食事をとらせ、余計なことは一切聞かずに放っておいてくれた。 彼なりの優しさなのかもしれないと、雫は感じた。 一人のベッドで灯真を思い出して泣くことも、 千景を刺したときの事を夢に見て飛び起きることも、 まだ何度もあったが、新しい仕事を憶え、夢中で草取りをしていると、少し気が紛れた。 千田は海に出て魚をとることもあった。雫も小さな釣り船に乗せられて海に出た。 釣り糸を垂れる千田の横で潮風に髪をなぶられていると、 血で赤黒く汚れた自分の体が少しずつ青く染まっていくような思いがした。 そんな日々が過ぎた。 朝から雨が降る日。農作業を休んでふたり、家にいた。 千田は農機具の手入れを雫に教えながら、昼からウイスキーを煽っていた。 「思い出すか。殺したときのこと。」 突然きかれて、持っていた鍬を落としそうになった。 「思い出すだろ。俺もだ。こんな雨の日は特にな。」 「え・・・。」千田の言葉に目をみはる。 「いろいろあって船を降りたっていったろ。もう何年も経つのに、まだ夢に見る。」 「千田さん・・・。」 「たぶん一生だな。死ぬまで殺しちまったやつのことは、背負っていかないといけない。」 「・・・はい。」 「おまえ、ここに来たとき、罰がどうの、って言ってたけど、  ひとに裁かれるまでもなく、もう俺もお前も罰せられてるんだろうな。」 雫の目を覗き込む。 「自分のこころにな。」 思わず俯いた。そしてふと気がついて尋ねた。 「長瀬先生はそのこと、ご存知なんですか。」 「ああ。数年前に会ったとき話した。百姓仕事に癒されてるってことも。」 だから。先生は僕をここに? 先生は、僕を罰しようとしたんじゃなかったのか・・・・。 いつも優しくて、よくしてくれた先生があのとき見せた激しい怒り。 あれは灯真さんのためだけじゃなく、僕のこころのために怒ってくれたのかもしれない。 先生、ごめんなさい・・・。灯真たちと暮らした日々がまた胸に蘇る。 もう帰れない場所。 先生、そして灯真さん。今どうしていますか・・・・。 窓から見える雨にけぶる空の向こうに、そっと雫は問いかけた。 そんな雫をしばらく見ていた千田は、グラスを置くと雫の手から農機具を取り上げ、 そのままからだを床に押し倒した。 「千田さん・・・。」 ぴったりと体をつけてのしかかってきたが、そのままじっと動かない。 頬と頬が触れて、千田の無精髭がちくちくした。 そして同時にあたたかい体温と息使いも感じた。 灯真のシルクのような肌とは違う、浅黒く陽に灼けた肌。 だが人肌のあたたかい優しさは同じだった。そして心地よい重み。 千田の告白を聞いてしまったからか、この無骨な男の孤独が胸にしみた。 これまでひとりで、何度こんな雨の日を過ごしてきたのか。僕だったら。 僕ひとりだったら。耐えられただろうか。 雫の目尻から涙が流れた。千田が頬を離してそれを見た。 「また泣く。」 「違うんです。・・・あなたが・・・あたたかかったから。」 それを聞いて千田が唇を重ねてきた。優しいキスだった。 雫の腕がひかえめに背中にまわされた。 「じゃあもう、罰とか言わねえ?」 その問いに、雫は声を出さずにただ千田の目をみつめた。 にやり、と笑って体を起こすと、雫の体を軽々と抱き上げて千田は言った。 「今度は途中でやめないからな。」

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