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第32話
灯真の毎日はあいかわらず過ぎていた。
もはや、昼も夜も、春夏秋冬もなく、長瀬にうながされて床を離れ、着替え、
味のしない食べ物を咀嚼し、家庭教師の講義をゆめうつつに聞く。
風呂に入れられて、ベッドに入り、長瀬に髪をなでられながら浅い眠りにつく。
あんなに一生懸命覚えた絵の具の色も、もう存在自体が意味がないように
意識の奥底に捨て置かれた。
長瀬はまた、同世代の少年をそばに置くように勧めてみたが、
「いらない。」と一蹴された。
部屋に引きこもってますます透き通るようになっていく灯真の横顔を、
長瀬は痛ましい思いで見守ることしかできなかった。
そんなある日、メイドが換気のために開けた窓から、馥郁とした香りが届いた。
メイドが「ああ、いい香り。」と思わずうっとりとした声をあげた。
その言葉に、灯真の見えない瞳がほんの少し動いた。
人が、感動して思わずあげる声を、久しぶりに聞いた気がしたからだ。
そういえば、雫はよく、なにかを見つけては「ほら、灯真さん」と
僕に教えてくれたり、美味しい物を食べては、「おいしいよ、これ!」と
声をあげたりしてたっけ。
「花の香り?」
灯真の問いに、メイドは仰天して振り返った。いつも人形のように無表情で、
他人に自分から話しかけることなどない人なのに。
長瀬も少し驚きながら続けた。「なんの花かな。」
メイドはあわてたように答えた。
「申し訳ありません。わたくしも不勉強で。今度、庭師に訊いておきますね。」
翌日、灯真と長瀬のもとに、メイドが花を携えてきた。
「これを坊ちゃまに、と庭師が。」
長瀬が受け取って灯真に持たせる。「この香り。」口元がかすかに綻んだ。
「ロウバイ、だそうですよ。寒い中で、春を真っ先に知らせる香りだそうです。」
「綺麗な黄色い花だよ、灯真。」
長瀬に言われて指で探り当てる。ぷっくりとした丸いかたちが触れた。
そのことがあってからたびたびメイドが、よい香りのする花を灯真に届けるようになった。
いつも庭師が、「坊ちゃんに。」といって言付けるのだそうだ。
季節が巡るたびに、さまざまな香りが灯真の部屋を訪れた。
それは草花のこともあったし、花木のこともあった。
花だけではなく、不思議に気持ちの落ち着く匂いのするハーブも届けられた。
いずれもよく吟味されて、虫や病気のついていないもので、刺のあるものは
丁寧に取り除いてあった。
それにしても、この庭に、こんなに香りのいい花木ばかり揃っていただろうか。
長瀬は思い返してみたが、どうも心当たりがないように思った。
いつも花を届けてくれるメイドに聞いてみると、しばらく前に、年老いて辞めた
もののかわりに、新しい庭師が来たのだそうだ。
「そういえば、その人になってから、お庭がいい匂いになった気がします。」
「いつも花を持たせてくるのはその者かい。」
「はい。坊ちゃんのおなぐさめになるように、といつも言って。あんな風だから、
怖い人かと思ってましたけど。」
「あんな風?」灯真が聞きとがめた。
メイドはあっ、と小さく漏らし、「申し訳ありません。余計なことを。」と、詫びた。
「あんな風って?」長瀬が重ねて聞くと、言いにくそうに
「なんでも思いがけない事故にあったとかで、顔のほとんどがひどい火傷痕で。
・・・喉もつぶれたらしく、しわがれ声で、ひどくしゃべりにくそうなんです。」
長瀬は少し眉をひそめたが、灯真はまったく興味をそそられなかったらしく、
ただ手にした花に顔を埋めて、その香りを楽しみながら
「ふうん。」とだけ言った。
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