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第56話
学校が休みの日に、雫は美風を誘って庭に出た。
雫が灯真に付き従うようになってからは、別の庭師が手入れをしていたが、
灯真の部屋やリビングに飾る花を吟味するのは雫の仕事だった。
「ほんとに、いい香り。」美風が花に顔をつけてはしゃいでいる。
「すごいですね、もともと櫂さんが全部植えたんでしょう。」
「このあたりはね。僕が来たころはあっちに植え込みがあるだけだったから。」
「可愛いなあ、これ。あっ、こっちは実がなってる。」
女の子がひとり増えるだけで、屋敷の空気ががらりとかわるんだな。
雫は微笑ましい気持ちでその様子を眺めていた。
「いたっ!」
突然美風が悲鳴をあげた。右腕を押さえてうずくまる。
「どうした?」覗き込む雫の視界に、ちらりと葉影に隠れる昆虫の姿が見えた。
「毒虫だな。刺された?見せて。」
唇をへの字に曲げて腕を差し出す。
刺し傷を確認すると、雫は胸ポケットから小さな折りたたみナイフを取り出して、
美風の腕に切っ先をほんの少し、さっとあてた。
刺し傷から新しい血が流れる。
「あっ!」目を瞑って体を縮める美風に雫は
「ごめんね。」とすばやく声をかけると、マスクを顎まで下ろし、その傷口に唇をあてた。
流れる血とともにつよく毒を吸い出す。
一度口を離して顔を背け、ぷっ、と毒まじりの血を吐き出すと、もう一度唇をつけた。
とくん。
美風の胸が鳴った。
マスクの下の顔は、凄惨な火傷痕だった。
うすうす気付いてはいたが、こんな間近で、じっくり見るのははじめてだった。
それなのに、そのケロイドがまったく気にならなかった。
それ以上に、すぐ目の前にある、伏せた睫毛と、自分の肌に吸い付いている
唇にこころ奪われてしまっていた。
呆然と、口を半開きにして雫の顔にみとれていた美風は、
「気分悪くない?」とふいにこちらに向き直られて、あわてて俯いた。
「だいじょうぶ・・・・です。」
「あ・・・この顔。びっくりした?」
「あっ!違います!!そうじゃなくて!」
急いで顔をあげた、が恥ずかしくなってまた俯いてしまった。
雫は不思議そうな顔をしたが、
「先生に診てもらおう。」手をとったまま立ち上がって、美風も立たせる。
「ごめん。毒を出すためだけど、傷、つけちゃって。」
「あ・・・。平気です。このくらい。」まだ顔が見られない。
「痕は残らないと思うから。」
そしてぐずぐずしている美風の背中にそっと手をあてて顔を覗き込んだ。
「ほんとに大丈夫?顔がすごく赤いけど。」
「だだだだだだだだいじょうぶっ。」あわてて先に歩き出した。
「美風ちゃん?」
「平気です。こんな虫くらいでっ!」
「そう。」背後で雫は安心したように呟いた。
「灯真さんじゃな・・・・。」ぷつっと黙る。聞きとがめた。
「・・・・・・櫂さん・・・。」美風はふいっと振り返った。
「もしかして今、灯真さんじゃなくてよかった、って言いかけました?」
イタズラをみつけられた子供みたいな表情が見えた。
そしてその顔にまたしても胸がきゅ、と縮んだ。
いやだ。私いったいどうしちゃったの?
「ご、ごめん・・・あのひと、体弱くて。虫さされで3日寝込む人だったから。」
「べっ、別にいいですけど。おにいさんと違って私丈夫なんで。」
あわてて背を向けてそう言った。
長瀬は傷口を丁寧に診て、消毒のあと、毒消しの薬を塗ってくれた。
「すぐに毒出ししたから大丈夫だと思うけど、夜中に熱っぽくなったりしたら
わたしの部屋に知らせなさい。」
「はい。」
「痛かっただろう。かわいそうに。」優しく言われてつい、強がった。
「大丈夫です。子供のころからおてんばだったし。」
「頼もしいね。」微笑む長瀬に礼をいって部屋を辞そうとしたとき、背後で声がした。
「よかったよ。灯真じゃなくて。」
傍らの雫と、美風は思わず顔を見合わせた。
「はははははは。」
膨れっ面の美風の話に、灯真は声をあげて笑った。
めったにないことだったので、雫はおどろいて主の顔をみつめた。
「おにいさん!笑い事じゃないです!櫂さんだけならまだしも、
長瀬先生まで!酷すぎます!!」
「虫さされで寝込んだのは子供の頃だよ。」灯真が笑いながら言った。
「それにしても悪かったね。レディーに対して失礼千万だ。」
「そういうおにいさんも笑いすぎだし。」
「美風ちゃん、今ほっぺたが提灯みたいになってますよ。」
美風のあまりの膨れように思わず雫が実況してしまう。
「はははははははは。」
「もうっ!!櫂さんっ!おにいさんっ!!」
ひとしきり笑って、目尻の涙を拭うと、灯真はふっと顔を上げ、おだやかな声で
「美風、こっちへおいで。」と妹の名を呼んだ。
「は、はい。」怪訝そうな表情で近寄って来た彼女に、腕を伸ばす。
雫がすっとそばにきて、灯真の手を、美風の頬に導いた。
「おや、もう膨れていないんだね。」
息をつめて固くなる美風の顔を、白く細い指がなぞる。
輪郭を確かめ、額、まぶた、鼻梁、指先の腹で優しく繊細に、美風をたどる。
ふいに泣きそうになって、目だけ動かして雫を見た。
マスクで口元は見えなかったが、目で、雫が笑っているのがわかった。
美風もつられて口角をあげる。
その唇にそっと触れて、灯真も微笑んだ。
「口元が僕に似てる?」
「ええ、よく似てます。」
雫の言葉に頷いて、最後に髪をゆっくりと撫で、その手を美風の両肩に置いた。
「やっぱりきょうだいだね。」
すっと自分から離れてゆく手を、思わず美風は掴んだ。
「おにいさん、わたし。」こらえていた涙が頬にこぼれた。
「ん?」
「・・・・・ありがと。」
灯真の手を握りしめて、それだけ言うと美風は泣き出した。
わたしに触れてくれて。わたしを認めてくれて。ありがとう。
今日はじめて、あたらしい家族が出来た、そんな気がした。
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