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第55話

「もう、いつまでふくれてるの。」 灯真の部屋で二人になって、不機嫌な主をなだめる。 「別に。」 「灯真さん。子供じゃないんだから。」 「悪かったな。子供で。」 雫が伸ばして来た手を振り払ってふいと向こうをむいてしまう。 雫はその背後から、腰のあたりをいきなり抱きすくめた。 「!」 そのままベッドに腰掛ける。灯真は雫の膝に座らされるかっこうになった。 「なにするんだ、離せ!」 「子供だから。だっこ。」 「くっ!バカにして!」 腕をふりほどこうとするが、シートベルトのようにがっちりホールドされて身動きできない。 シャツ越しの背中に雫の唇が押し当てられるのを感じた。 「かわいそうな女の子に、やさしくしてあげるくらいの余裕はあるでしょう。」 「・・・離せよ。」 「いい子だから、僕の話を聞いて。灯真さん。」 子供扱いされて腹立たしい。 それなのに雫に抱きすくめられていると体から力が抜けてしまう。 「なにが、不安?」静かに尋ねられる。 「不安なんかない。気に入らないだけだ。」声が尖る。 「女の子だから?」 「・・・・・。」 「女の人がまだ怖い?」 「怖くなんかない。・・嫌いなんだ。」 「でも、女の子に産まれたのは、あの子の責任じゃないよ。」 「・・・・。」 「たった1年。仲良くしてあげよう。ね?」 背中に吐息がかかる。 「お前、あの子が気に入ったのか。」声に猜疑心と嫉妬が混じる。 言ってしまってから、ひどくみっともない気がして灯真は唇を噛んだ。 しばしの沈黙のあと、雫の唇がまた灯真の背に触れた。ぴく、と体が反応する。 「灯真さんのそういうところ、ほんとに子供。」 雫の、思いがけず冷めた声に、カッとなった。 「しかたないだろ・・・!」声が震えた。 「しかたないだろう。見えないんだよ!君たちは一目でどんな相手か  判断できるかもしれないけど、僕は少し声を聞いただけだ。」 「灯真さんいつも、声の出し方や話し方で、相手のことがだいたいわかるって。」 「他人なら冷静に聞ける。ビジネスの相手なら推し量りもできる。  ・・・でも、でもいきなり妹だなんて!」 自分でも驚くくらい大きな声が出た。 だが雫はひるまずに彼を抱く腕に力をこめた。 「やっぱり、動揺するよね。」 「そんなんじゃ・・・!」 「僕の目は、こういうときのためにあるんだよ。」 静かな雫の声が胸にしみた。 「灯真さんのかわりに、僕がちゃんと彼女を見たよ。」 そう、目を開けば勝手に情報が飛び込んでくるわけではない。 けれど、隣の雫に尋ねれば、見たいものは全部彼がかわりに見てくれる。 たしかに僕は、はじめから彼女を見ようともしていなかった。 大きくため息をひとつついて、灯真が口を開いた。 「どんな・・・どんな顔だった?」 「少し灯真さんに似てる。けど、派手さはないね。全体にこじんまりしてる。  あ、でも目はくりっとしてたよ。」 「髪は?」 「長く伸ばして・・後ろで束ねてた。柔らかそうな髪だった。」 「服は?」 「地味だったね。ファッションセンスは、たぶん僕とおなじくらいだと思う。」 ふ。はじめて灯真の口元がほころんだ。 「・・・とても不安そうな、子犬みたいな目をしてたよ。唇をへの字に曲げて。    おかあさん、まだ若いのに亡くなったんだね。」 幼くして母を失ったのは、灯真も同じだった。ようやく美風の境遇に、気持ちが寄り添った。 「明日・・・明日話してみるよ。」 「うん。ありがとう。」雫がまたきゅっと灯真を抱きしめた。        灯真の部屋で、緊張した面持ちの美風がかしこまっている。 「昨日は悪かったね。」 渋々といった風情で灯真が声をかけると、あわてたようにかぶりをふった。 そして、兄が盲目であることにはっと気付いて、小さく 「いいえ」と声に出した。 「あの、わたし、おと・・・父のことはあんまり知らなくて・・   っていうか、ほとんど会った事なくて。それで、こんな、お世話になるとか」 ああ、雫の言ったとおり。不安で所在なげな声。 「それはもういい。」 「え。」 「ただ僕の生活を乱さなければそれでいい。」 「は・・・い。いや、あの。」 「なに?」 「なにか・・・お役にたてることはありませんか・・・・。」 語尾にいくほど消え入りそうな小声になりながら、美風は言った。 「君が?」 「お願いします。なにか、させてください。そ、そうじとかせんた」 「うちはメイドがいるから、けっこうだ。」 「そうですか・・・。」 気を使っているのだろう。だが、周りでうろうろされたら、僕も困る。 女の子なんて、どう接していいかわからない。 雫はがっくりとうなだれる美風が気の毒になって助け舟を出した。 「灯真さん、新聞。読んでもらったら。」 経済の専門紙など、点字対応になっていないものを、雫が音読していたのだが、 喉がつぶれているため聞きとりづらいと、常々こぼしていたのだった。 余計な事を、という顔で黙り込んだ灯真に、美風は 「なまむぎなまごめなまたまご」いきなり声を張った。 「?」 「か、滑舌はいいほうだと思います。」食いついた。 「灯真さん。絶対僕が読むよりいいと思うよ。」 「・・・好きにしろ。」 灯真はそういうと頬杖をついてふいと顔をそらせた。 翌日から、登校前に灯真に新聞を読んで聞かせるのが美風の日課になった。 最初のうちは、専門用語でつっかえて不興を買ったが、本人が言ったとおり滑舌のよいアルト の朗読はとても聞きやすく、灯真の眉間のしわも次第に見えなくなっていった。 ずっと「あの。」とか「すいません」と声をかけていた美風が、ある日一大決心で 「お・・・おにいさん。」と呼びかけると、灯真は面映そうな顔をして振り向き、はじめから 焦点のあっていないまなざしをさらに外すように顎をあげると、「なに?」と応えた。 顔を真っ赤にして全身で喜びをあらわしている美風が可愛らしくて、雫はその様子を思わず 灯真に耳打ちしたほどだった。 もともと闊達な性格らしい美風は屋敷の使用人たちともすぐ打ち解けた。 「お願いだからお嬢様って呼ぶのだけはやめて。」 メイドに懇願しているところに居合わせて、灯真が理由を尋ねると、 「背中が痒くなる。」と真剣な声音で訴えた。 「ちょっと心配になるくらい飾り気がないね。」長瀬も笑う。 好きな事を聞けば、読書かな、と答えが返った。 「ここで声に出して文字を読むようになって、なんだかもっと読むのが  好きになったんです。・・・こういうお仕事もいいなあって。」 「しごと?」 「・・・・学校卒業したら、一人で生きてかないと。」 少し、背伸びした口調だった。 この屋敷で暮らすのは、高校卒業までの1年間という約束だったな。 灯真はなにも返さなかったが、傍らの雫は、そんな主の顔をじっと見ていた。  

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