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第58話

「おにいさん?・・・。」 美風が学校から戻って灯真の部屋の前を通りかかったとき、めずらしくドアがきっちり閉まっ ていなかった。なにかあったのかと、美風は小さな声で兄を呼びながら中を覗いた。 ベッドの縁に腰掛けたふたつの影が重なっていた。一瞬にして、見てはいけないものを見たこ とはわかったのに、美風の目はそのまま釘付けになってしまった。 灯真と櫂が、抱き合って唇を重ねていた。 二人でなにか囁きあいながらキスを交わしては笑っている姿は あきらかに恋人同士のそれで、美風は目をみはったままその場で硬直してしまった。 そんな彼女に、ふたりは全く気付いていないようだった。 灯真の指が櫂の上着を脱がして行く。 二人とも、シャツのボタンはすでに外されていて、肌が露出していた。 「ああ、待って。鍵が開いてる。」櫂の言葉に心臓が跳ねた。 急いで一歩横にずれてドアの影に隠れた。足音が近づいて来て、すくみあがる美風の鼻先で 「いけない。鍵どころかドアが開いてた。」と声がする。 櫂は廊下を確認することなくそのままぱたんとドアを閉じた。 かちゃり、と施錠する音が聞こえた。 美風は音もなく大きな深呼吸をして、ゆっくり3歩後ずさると、 くるりと踵を返して自分の部屋に駆け戻った。 おにいさんと。 櫂さんが。 おにいさんと。 櫂さんが。 抱き合って。キスしてた!! おにいさんと櫂さんが!! 同じ単語がぐるぐる頭を駆け巡って頭蓋骨をつきやぶりそうだった。 自分の部屋に駆け込むと、ばさっとベッドに倒れ込む。 これまでのふたりの姿を出来る限り思い出してみる。 「ああああああああ。そういうことかああ。」 思い当たる節ばかり。 「あたし・・・・・。」ばかみたい。胸が詰まった。 花壇での一件以来、無意識に櫂を眼で追っている自分に気付いていた。 おにいさんと仲良くしてると、櫂さんがすごく喜んでくれる。 おにいさんのことも嫌いじゃないけど、ちょっと気難しいところもあるし、 特殊な人だから、どう接していいかわからないところも多くて。 でも櫂さんが喜んでくれるから頑張ったのに。 櫂さんの、おにいさんを見るまなざし。さっきの、キス。 やばい、泣きそう。 美風は頭に布団をすっぽりかぶせた。 「おまえより、先生のほうが見立てがいいかな、やっぱり。」 「え?なんのこと?」 「ほら、今度のパーティ。美風も連れて行こうと思って。ドレスを。」 「ああ、いいね。藤色とか似合いそうだ。」 灯真の部屋で、ふたりの時間。 「おや、雫の口から色の名前が出るなんて。」 灯真がからかうと、雫は少し傷ついたように、「ちょっとくらいはわかるよ」 と言った。 「ねえ。」 灯真はふと、前から気にかかっていたことを尋ねてみることにした。 「ん?」 「前に、その黒尽くめは喪服なのかと聞いたら、それだけじゃないって、言ったね。」 「ああ・・・、そうだっけ。」 「ほかにも理由があるのか。」 雫はしばらく黙っていたが、灯真がさらに促すとようやく口を開いた。 「・・・・自分が影だってこと。忘れないように・・・かな。」 「影?」 「そう。」 「どういう意味だ?」 「名前を捨てて戻って来てから、僕は影なんだよ。」 「しずく。」 「僕は何ものでもない、ただの影なんだ。灯真さんの。」 「・・・・。」 「やっぱり、月日がたつと、つい忘れそうになるんだ。ついうっかり、    将来のことを考えたり、未来に夢をもったりしてしまいそうになる。」 「それの・・何がいけないんだ。自分は・・・もう死んだ人間だとでも?」 「生きてるよ。ちゃんと。でも櫂っていう、借り物の人生だけどね。    この偽りの人生に、将来とか未来なんかないんだ。  ただ、灯真さんによりそう、それだけ。」 「それは・・・。」思わず声が震えた。 「誤解しないでね。これは自分で選んだ。僕が望んだことだから。」 「しずく、でも・・。」 「僕は。灯真さんの影でいたいんだよ。」 雫の声にも言葉にも、嘘は見当たらない。きっと本心なのだろう。 あの、遠く離れて暮らした地で、自らの顔を焼く時にそう決めた。 けれど灯真はその言葉に打ちのめされた。 雫の人生なんて、今まで考えた事なかった。 今の二人が幸せならば、それでいいと思っていた。 雫の心を、少し遠く感じていた、その正体がわかった気がした。 自分から遠いのではなかった! そもそも希薄であやうい存在だったのだ! こころ踊る春も、彩りの秋も。 その日に身に纏う、色彩すら選ばない。 そんな自己否定を日々くりかえして。 影になろうと、影でいようとしていたのだ。 こんなに大切なひとの人生を奪った上に、自分の幸福が成り立っていたなんて。 このままでほんとうにいい?ほんとうに? 少年の頃のように、ふたりでいられれば、今さえ幸せならそれでいいなんて、 安易な考えは持てなかった。 この先、自分がひどく後悔することになるような、そんな予感が灯真にはあった。

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