1 / 18

第1話

 暗くて、寒いところに亜弓(あゆみ)は立っていた。  周りを見回しても何も見えず、動こうとして手探りに腕を伸ばす。すると、限りなく広い闇が広がっているかと思われたすぐそこに壁の感触があり、そこがさして広くない部屋の中だとわかる。  その部屋を、亜弓は知っているような気がした。  ふと、自分のすぐ近くからすすり泣く声が聞こえた。振り返ると、足元に小さな子どもが蹲っていた。声を噛み殺して泣いている。 「どうしたの…?」  声をかけ、肩に触れて屈みこむと、その子どもが顔を上げる。  涙に濡れたその虚ろな瞳と出会った瞬間、亜弓の心臓が大きく脈打った。 『――!!』  その刹那、すすり泣きが辺りを引き裂くような悲鳴に変わり、子どもの体が弾けるように吹き飛んだ。向こう側の壁に叩きつけられた体は音を立てて床に崩れ、その床には血溜りができてゆく。  腕が、脚が、闇から現れては子どもを殴り、蹴りつける。 『……、……――』  子どもが力なく抵抗と謝罪の言葉を連ねるのを、亜弓は呆然と見つめていた。  ごめんなさいと、何度も繰り返す。それが亜弓を混乱させる。  何が悪いのか、どうしてその子が謝らなければならないのか、亜弓にはどうしてもわからない。 『……――』  怯えた声は謝り続け、俄かに切迫すると、再び金切り声を上げた。  細い悲鳴が亜弓の頭にわんわんと響き、やがて視界が明瞭になる。 「やめろ!!」  目の前で行われていることがはっきりすると、亜弓は無意識にそう叫んでいた。  子どもを殴打していた腕は大人の体につながり、その体は子どもの体の上で、不自然に前後に揺れている。  子どもの口は血を溢れさせ、覆い被さる男の膝元にも、新しい血溜りができ始めている。 「やめろ、やめろ! 頼むからやめてくれ!!」  亜弓は必死で、縋るように男の背に飛びかかった。しかしその手は男の体をすり抜け、子どもから引き剥がすことはかなわない。 「頼むから……!!」  悲痛な声が、誰にも届かないまま空回る。    助けなければ。    助けなければ。あれは――  紫色に腫れ上がった瞼の間から、声もなく、子どもがこちらを見上げている。  タスケテ、と、そのくちびるが小さく震えている。    あれは、自分だ。  けれど、助けられない。声も腕も、届かない。止められない。  うまく開かない子どもの瞳が、助けを求めているのに。こんなに近くにいるのに。 『どうして誰も助けてくれないの……?』  やがてその瞳が閉じられる。外界の全てと自分を切り離すように。 「待って、諦めるな! やめろ、お願いだからやめてくれ…!!」  どんなに、叫んでも。  誰も、あの子を助けられなかったんだ。  目を覚まして、まだ目の前が暗くて、悪夢が続いているのかと思った。  けれどそこは中村(なかむら)のマンションの広い寝室で、隣の体温が確かに、さっきのはただの夢に過ぎないのだと教えてくれる。  亜弓は体を起こし、時計を見ようと目元をこすって初めて、自分が泣いていたことに気づいた。 (四時か……)  暗いのも当然だと、亜弓は隣の中村を起こさないよう、そっとベッドを降りた。  洗面所で顔を洗い、その水の冷たさに季節を感じる。  西山(にしやま)栄治(えいじ)が死んで既に二ヶ月余りが経ち、十一月になっていた。  薬局の中で働いていてもそこで犯されたことを思い出すことはほとんどなくなってきているのに、無意識が忘れることを許さないのか、今でも度々悪夢は亜弓の枕元に訪れては眠りを妨げる。  当初ほど頻繁に魘されることはなくなってきているし、夜中に絶叫して中村に揺り起こされるということも最近はないが、やはり程度がどうであれ、精神的ダメージはかなり大きい。  鏡の前で深呼吸して、上がってしまっていた動悸を静めていると、声とともに洗面所のドアが開いた。 「亜弓?」 「あ…中村さん。起こしちゃいましたか」  眠たそうな中村は、持ってきたガウンを亜弓の肩に着せ掛けてやった。 「また、夢見ちゃった?」 「…はい」 「そういう時は、一人でベッド出て行かないで。僕を起こしてくれていいんだからね」 「ありがとうございます、でももう大丈夫ですから」  無理の見える笑顔を浮かべた亜弓に、中村は少し悲しく微笑みかけた。  きっと亜弓は、仕事で疲れている中村の睡眠を、自分のことなんかで妨げてはいけないと思っているのだろう。  そんな遠慮は無用だと、何度教えても理解しようとしない亜弓に、そういう考えを植え付けようとするのはもうやめた。遠慮する亜弓をそのまま受け入れ、亜弓の必要とするものを適切に与えられるようにする努力を、中村は始めている。  亜弓の肩を抱いてベッドに戻ると、中村は亜弓を背中から抱き、前に回した手で鳩尾の辺りをゆっくりと撫でてやる。そうされるのが、亜弓は好きだった。不思議な懐かしさとともに、ようやく安堵が訪れる。  ずっと息もつけずにいたかのような長い吐息の後、それが規則正しい寝息に変わるまで、中村は亜弓の体を撫で続けていた。

ともだちにシェアしよう!