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第2話
バスを降りて病院へ向かいながら、亜弓は上着のポケットに入れていた両手を、口元でこすり合わせた。吐いた息が白く凍って消えてゆく。
「おはようございます」
どうしても丸まってしまう背中を明るい声とともに叩かれて、亜弓は振り返った。
「あ、石田 。おはよ」
「今朝は冷え込みますねー。放射冷却かな」
「そうだな。日中はそこそこ気温も上がるみたいだけど。もうこれからは寒くなる一方だな」
「寒くなると、マイカー通勤の人が羨ましいですよね。柴崎 さん、一臣 に乗せてもらったりしはらへんのですか?」
「…毎朝一緒に通勤して同居してるのがばれてもまずいだろ。大病院の跡取が男となんて」
「そっかなー。そっかー。使えへん奴やわ」
石田が呆れたようにため息をつくのに、亜弓は苦笑する。
中村と一緒に住むようになってかなり経つが、引き払うことになっていた亜弓の部屋は、実はそのままになっていた。
もう完全に中村の部屋に移り住んでいるし、家賃の無駄ではあるのだが、現実問題としてはなかなか引き払ってしまえるものではない。職場にも転居を報告しなければならないし、そうなると職場にも、もちろん病院の院長である中村の父親にも知れてしまう。そして亜弓の養父母にも説明しなければならない。何かとややこしいのだ。
月に数度、郵便受けの中を見に行ったりしなければならない面倒はあるが、それは自分の問題であり、将来ある中村に迷惑をかけるよりはよほどいいと、亜弓は思っている。
「そういえば石田んとこ、秀明 も一緒に住んでるんだよな。あいつ自分の部屋はどうしたの?」
「え」
訊くと、石田は急に頬を染めて少し俯く。
「あいつはもともと、宿無しみたいなもんやから。俺も家族には友達と同居してるて言うてあるし、今度もう少し広いところに引っ越してルームシェアみたいにしようかと思ってるんですけど」
「そうか。ちゃんと一緒に住めるんだな。いいなー、仲良さそうで」
「柴崎さんとこかて、仲はいいでしょー」
「いや、俺のところは…」
先を濁したところで、二人は職員昇降口に雪村の姿を見つけた。
それまでの会話はお口にチャックで、石田が声をかける。
「おはよう、雪村さん」
「あー、石田さん、柴崎さん。おはようございます」
振り返った薬局最年少薬剤師の中村ファン雪村 麻子 は、いつも明るい顔をなぜか曇らせて、気落ちした様子で靴を履き替えていた。
「どしたの雪村さん。なんか元気ないね」
「そうなんですよぅ。聞いてくださいー」
いつもの調子でかわいい後輩ぶりを発揮して口を尖らせる。
また何かしようもない愚痴を聞かされるのかと苦笑して、石田と亜弓は顔を見合わせたのだが、
「中村先生がお見合いされるらしいんですぅ」
しかしその言葉に、二人の顔色が変わった。
「――見合い?」
耳を疑うように、石田が問い返す。
「中村先生が?」
まさかそんなはずはないと、雪村から否定の言葉が返るのを待つ。
「本当ですってばぁ」
けれど強く肯定され、さすがの石田も絶句した。亜弓は声もなく硬直している。
「別に私、本気で中村先生と結婚したいとか、そういう意味で好きだったわけじゃないんです。先生カッコいいし、女性に優しいし、仕事できるし、憧れてたってだけなんですけどぉ。でもなんかショックですぅ。お見合いっていっても形だけで、もう話決まってるらしいですよ、なんか政略結婚ぽいの。医療機器メーカーの社長令嬢なんですってぇ。こんな大きい病院の後継ぎともなると、スケール大きいですよねぇ。あ、じゃあ私、先行きますねー」
少し語尾を伸ばす癖のある口調で言いたいだけ言って、雪村は先に薬局へ向かった。
動揺したのは石田だった。
「……今の話、知ってはりましたか」
「いいや。初耳だ」
静かに目を伏せた亜弓に、石田がくちびるを噛む。
「あんのバカ…ッ!」
「待って石田」
逸ってあてもないのに駆け出そうとした石田の肩を、亜弓が掴んで止めた。
石田と一緒に変えた顔色は、もういつもの亜弓のものに戻っている。
「中村さんには、俺がちゃんと聞くから。何があっても中村さんを責めないでくれ、中村さんはそういう家の人なんだ。それに」
その冷静さが、石田には異様に映って。
「俺は中村さんが結婚するなら、この関係もそれまでのことだって、最初から決めてたから」
理解できない亜弓の毅然さに、石田は呆然と立ち尽くした。
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