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第3話

 中村のマンションに帰宅して、亜弓は一人で食事を取り、風呂にも入った。中村から携帯に、今夜は遅くなるから先に寝てくれとメールが入ったからだ。  しかし思ったより早く、二十三時過ぎに玄関が開く音がして、亜弓は迎えに出た。 「お帰りなさい。もっと遅いかと思った」 「うん、治療計画のミーティングがすんなり終わってね。お風呂入れる?」 「沸いてます。食事は?」 「食べてきた。あー、疲れたー」  外した眼鏡を亜弓に渡して、中村はバスルームへ歩いていった。  しばらくすると風呂から上がった中村が寝室に入ってくる。ベッドに入っていた亜弓の手元から読んでいた本を奪って中村がゆるく覆い被さってこようとするのを、亜弓はきっぱりと遮った。 「中村さん」 「何?」 「結婚、するんですか」  あまりにも直截的な言葉に、中村も眉を寄せて動きを止めた。 「……誰から聞いたの」 「雪村さんから。もう話は決まった見合いをするって。…本当なんですね」  気まずそうに視線を逸らせた中村の態度に確信する。 「どうして教えてくれなかったんですか」  問い詰める亜弓に、髪をかきあげて中村はため息をつく。 「言えばきみは余計な心配するだろう。未だに良くない夢を見てるきみに、不要なストレスを与えたくないんだよ」 「…余計な心配?」 「そうだよ」  中村は急に視線を正面から合わせ、亜弓の両肩を掴んだ。 「何も心配することはない。結婚しても、何も変わらない」 「え……?」  ずっと冷静を保っていた亜弓の瞳が、俄かに揺らいだ。 「亜弓はずっとここにいていいんだ。ここのマンションはうちの持ち物で、この部屋は僕名義の資産だから、きみにあげる。僕はどこか近くに一戸建てでも建てることになるだろうからね。きみはここで、ずっと僕と暮らすんだ。僕らのつき合いは何も変わらないよ」 「でも、結婚…するんでしょう? 奥さんは…」 「するよ。嫁には子どもを産んでもらう。僕には後継ぎが必要だからね。でもそれは単なる生殖作業だ。浮気なんかじゃない、わかってくれるだろう?」  再び中村の手が動き、亜弓のパジャマのボタンを外し始める。  その手を制し、亜弓はかぶりを振った。 「ダメ…ダメです、この部屋はいただけません」 「亜弓、頼むから聞き分けて」 「違う、そんなの、聞き分けるとかそういうことじゃ」 「亜弓」  強い声が遮り、亜弓の手を掴んでベッドへ押さえ込んだ。 「仕方ないんだ、僕らが一緒にいるにはそうするしかないんだよ」  首筋にくちびるを落とされて、亜弓はきつく目を閉じた。 (仕方ない…? 仕方ないって何だ。結婚しても俺とのつき合いが続くってどういうことだ)  混乱して抗う亜弓を、力で中村は封じる。 (愛人――俺、中村さんの愛人になるのか? マンションを与えられて、奥さんから旦那を奪って、のうのうと幸せに生きていくのか?) 「亜弓、愛してるんだ」 (中村さんが愛してるのは俺……じゃあ中村さんの家庭は? 奥さんも子どもも、中村さんには愛されないのか? ――違う、そんなのは絶対間違ってる) 「……ッ!!」  性急な愛撫に、亜弓はくちびるを噛んでシーツを握り締めた。 (言わなきゃ、中村さんに言わなきゃ――)    “別れる”って。 (別れる――?)  亜弓の目の前が、真っ白になった。  そうして気づく。石田に言ったようには、自分の中に覚悟がなかったことに。  別れるということが、どういうことなのかわからない。  それを口に出してしまったら、どうなるのかがわからない。  何かが、喉を塞いだ。    望むのは、中村さんの幸せ?    それとも、自分の幸せ?  その夜、中村は強引なセックスを亜弓に強いてしまった。  亜弓が一言も声を発さなかったのは羞恥のせいだと思っていたが、そうではないのだということを中村が知ったのは、その翌朝のことだった。

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