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第4話
「失声?」
夜中の部屋に、秀明の反問の声が高く響いた。
「亜弓が?」
「うん…完全失声やって」
秀明の帰宅に合わせて一旦起きた石田が、沈痛な面持ちで息をつく。
今朝、亜弓は中村に伴われて薬局へやってきた。昨日の今日でなぜ一緒にご出勤なのかと不審に思ったが、事情を説明する中村のやや後ろで、亜弓は人形のように黙っていた。
局長と橋本 とが話し合って、とりあえず亜弓には正規の休日である土曜を含めて四日間の休養を与え、様子を見ようということになった。
声が出ないだけで耳は聞こえるし、業務に支障はないと亜弓は主張の身振りを見せていたが、失声はストレスが原因であることも考えられるため、この忙しい職場は良くないだろうと局長が判断した。
「なんだか…昔の柴崎さんを見てるみたい」
帰ってゆく亜弓の後姿を見送りながら、橋本が呟く。
もともと感情表現が豊富ではない亜弓だが、最近はいろいろな表情を見せるようになっていた。けれど今日の亜弓の表情の乏しさは、内面と外界とを遮断しているようにさえ見える。
橋本と、同じ感想を石田は持った。
「それで、亜弓は?」
「明日、心療内科に行くって。うちの病院の精神科に行って患者さんの心証悪くしたらあかんからって、外の病院紹介してもらったんやって。一臣の大学の先輩らしい」
「心療内科とか精神科とかってことは、やっぱりその、中村さんの結婚がストレスになってるってことだよな…」
「そらそうやろ。見合いのこと知った翌日にやからな。原因はそれなんやろうけど、でも……」
逆接したきり、石田がふと黙り込む。
「…でも、昨日そのことを初めて聞いたときには、気丈に話してたんだよな」
先を汲んだ秀明に、石田は肩を落として息をついた。
「それやねん。つき合うとる相手が結婚するなんて、単純に考えると裏切りやろ。けど柴崎さんは、覚悟してたみたいに、そういう家の人やからって」
何があっても中村を責めるなと、亜弓は言った。亜弓は中村の結婚話に当人の意思が関わっていないことを理解していて、つまり中村の気持ちが自分に向いていることもわかっていて、けれど家柄だから仕方ないと割り切っている。そして、自分は中村が結婚するならそれまでのことだと最初から決めていた、とまで言った。
「なんでああまで、全部割り切れるんか俺には理解できひんけど、ほんなら何がそこまでショックやったんやろ。だいたい一臣と話したところで、一臣には政略結婚くらいで柴崎さんと別れる気なんかないやろうし」
「割り切れてるわけないじゃん」
部屋着に着替えた秀明が、投げやりにベッドへ倒れこむ。サイドボードから取った煙草の箱を、寝煙草はあかん、と石田が取り上げた。
「淳 は、亜弓が本気で中村さんと別れて平気だと思う?」
煙草を取り返すのは諦めて、秀明は布団に潜り込む。
「……正直、柴崎さんは一臣なしじゃ生きていかれへん気がする」
「実際その通りだろ」
わかってんじゃん、と視線を寄越して秀明は頭の後ろで指を組む。
「ビョーキだよ」
「おい」
ばっさりと切った秀明のあまりの言い様に、思わず石田の語気も荒くなる。けれど秀明も負けてはおらず、真っ向から石田の瞳を捉えた。
「じゃあ淳は、あの二人のつき合いが健全だとでも思ってんの?」
「健全って、お前の言う健全の意味がわからんわ」
「なら言葉を変えるよ、正常だと思う? あれが正常なら正常が泣くよ」
「だからって病気ってなんやねん。言葉選ばないい加減怒んで」
「お前が熱くなるな」
宥めるように、秀明は石田の腕を引いて隣に横たえた。
抱き寄せれば、その体は素直に秀明に寄り添う。
「怒らずに聞いてほしいんだけど」
「…うん?」
「俺。淳は、俺と別れても一人でやっていけると思う」
ぴくりと、腕の中の体が身じろぐ。
「それは俺にしても同じことだと思う。例えば俺たちのどっちかが死んだとして、残った方が後を追うなんてことはないと思うんだ。失って、しばらくは悲しくてどうしようもないだろうけど、いつか立ち直って、泣かずに思い出せるようになる。実際世の中の大半の人はそうやって生きてる」
言いながら、もしも石田を失ったらと想像すれば胃の焼ける心地もするが、一方でそれでも、自分が生きていけなくなる事態も起こり得ないことがわかる。
石田も同じことを考え、一人で生きる自分の姿が容易に想像できた。
それは二人の間の情が薄いとかそういうことではなく、ある意味二人が、それぞれが一人の人間として確かに存在できているということ。
それに比すれば亜弓は、今、一人では立っていない。中村という支えを失えば、立てなくなる。
同様に中村も亜弓を支えながら、その存在に支えられている。
二人で二本の脚を共有するようなその姿は、唯一無二の伴侶を得て最も幸福な、互いを必要とし合う美しい姿であると同時に。
きっと最も脆く、恐ろしく危ういバランス。
「お互いなしじゃ生きていけないなんて」
求めすぎることを否定しながら、どうしても石田を抱く手に力がこもる。
「そんな無理な支え合い、間違ってるだろ」
「……」
頷きに乗せて肯定してしまえば、今こうして二人でいることの意味までも疑われてしまいそうで、しかしだからこそ、不可抗力の必要性に迫られてではなく互いの意志で共に在るのだと、確かな自信を探して石田の指が縋る。
不安を察して、秀明は石田の額に口づけた。
「好きだよ、淳」
目元を染めて、石田が秀明を見上げる。
「俺たちはそれぞれ一人でも生きていける。なのにわざわざ一緒にいるってことが価値だろ」
欲しい言葉と共に微笑みかけられて、石田は笑い返すことができた。
「そうや。お前があんまりしょーもないことばっかりしよったら、容赦なく捨てたんねん」
「いやん、あっちゃん冷たいっ」
捨てないで~、と泣き縋る振りをする秀明との笑いに救われて、石田は誘いの電気を消した。
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