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第5話

 与えられた休日の二日目、亜弓は沢口(さわぐち)心療内科を訪れていた。 「院長の沢口です。中村くんのご友人…だそうで。僕は中村くんの留学先の先輩にあたります。当時から中村くんとは親しくしていたんですが」  清潔な部屋に通されて、亜弓はぼんやりと辺りを見回した。 「だいたいの症状と、…中村くんとの関係については、中村くん本人から聞いています。秘密は必ず守られますから、安心して、思うところを話してください」  言いながら沢口は亜弓の斜め横に座り、前の机にノートパソコンを置いた。 「話せといっても失声なさっているとのことですから、そちらは筆談にしましょう。紙に書くよりタイプした方が早いと伺ったので、パソコンでかまいませんか? もちろんセッションが終わったらデータは消去します」  申し出に、亜弓は頷いた。 「では柴崎さん、そちらから何か話しておきたいことはありますか」  話を振られ、いきなりのことに亜弓は少々戸惑った。初対面の医師に話しておきたいことはと聞かれても、薬に対するアレルギーはないとか、おそらく問われていることとは違う内容しか浮かばない。  悩んだ挙句、亜弓は首を振った。 「そうですか。いえ、気になさらないでくださいね。自発的な来院でない場合は大抵そうですから。ではこちらからお尋ねしますが、よろしいですか」  亜弓はまた頷く。沢口は手元のメモを繰った。 「失礼ですが、予め中村くんから、重要と思われる事象についていくつか伺っています。その中村くんとは現在恋人関係にあり、同棲中であるということに間違いはないですね」  唐突に核心を突かれ、亜弓は俄かに狼狽した。 『守秘は徹底されていますか? 彼の社会的立場に影響はないですか?』  逸りに任せてすごい勢いでタイプする亜弓に、沢口は安心させるように微笑みかけた。 「もちろんですよ。中村くんもそれなりに僕を信頼して話してくれてますからね。おつき合いが始まって、もうすぐ一年になるとか?」 『そのくらいになると思います』  亜弓は落ち着きを取り戻し、細い指を動かし始めた。 「…その中村くんが、今度お見合いをすることになったそうですね」 『次の土曜です』 「その話をした翌日に失声なさったんですね。やはりショックでしたか? それが失声の原因になっていると、ご自身では思われますか?」 『思いません』  きっぱりしすぎた否定の答えが即座に返り、沢口は眉を上げた。 「ショックではなかった、ということですか?」  亜弓は小さく首を横に振る。 『全くショックでなかったわけではありません。でも彼は大病院の一人息子なので覚悟はしていました。失声は私自身の問題です』 「覚悟、ですか。しかし結果として、あなたは恋人に捨てられたという形にはなりませんか」 『いいえ』 「いいえ? それはどういうことでしょう」  訊かれ、亜弓は返答に窮した。中村の誤りを他人に晒すのが忍びなかったのだ。 『彼は、結婚しても私とのつき合いは変えないと言いました』 「ほう! 政略結婚の嫁よりあなたを取るというわけですね。愛されてるじゃないですか」  囃すような沢口に、亜弓は力なく首を振る。 『彼は間違っています』 「…何が間違ってると思うんですか?」 『結婚するなら私との関係は絶つべきです』 「中村くんが愛しているのはあなたなのに?」 『だから、そこが間違っているんです。私などではなく、彼は自分の妻と子どもを愛するべきだ』  一気に打って、亜弓は少し止まり、付け加えた。 『家庭を』  その単語に、沢口は目を眇める。  家庭――それはおそらく亜弓が中村に与えることのできない唯一のものであり、そして亜弓自身が苦しめられてきたもの。 「柴崎さん」  おそらくそれが要だと、当たりをつけて沢口は切り込んだ。 「“悪夢”は、どのくらいの頻度で見られますか」  それに、亜弓は表情を変えないまま止まった。  話は中村から聞いているとは言っていたが、まさかそこまで伝わっているとは思わなかった。しかもこの場面でその話を持ち出すのだから、おそらく幼時体験から先の自殺企図まで、全て筒抜けなのだろう。  知られているのなら隠すこともないと、諦めて亜弓は息をついた。 『今は週に一度か二度です』 「以前はもっと頻繁だった?」 『周期のようなものがあって、毎日という時期もありました』 「その夢が今回のことに関係しているとは思われますか」 『思いません』  またも拒絶のような否定の言葉を受け、沢口は頭を掻いた。  ここにいる聡明な青年は、おそらく自分がどうして失声したのかを理解している。それでいて、その原因を自分の外の何にも被せようとは考えていない。全ては自分自身の問題だからと、その内側に責任を抱え込もうとしている。  けれど、その痩身にはそれを受容できるだけのスペースがなかった。それは彼の懐が狭いというわけではなく、人間誰しも全責任を自分自身で負い切れるはずなどないというだけのことだ。  負い切れないものが泣いて、彼は声を失った。それでも何かを誰かのせいにしないために。  何か一つを誰か自分以外のせいにすることを、彼は恐れている。実際はそのこと自体を恐れているのではない、その責任が中村に帰着することこそが恐ろしいのだ。  この美しい青年は、ここへ来てたった一度を除いて、その表情を崩そうともしない。そのたった一度とは、自分と中村との関係を沢口が知っていると聞き、それが世間に露見して中村の社会的立場が崩れることを危惧した、その一瞬だけ。  それ以外の、彼自身の感情が関わるような話題になると、彼はまるで声を失っていることすら瑣末事のように、他人事でさえあるかのように、淡々と語る。  中村を守ること、それだけが、彼自身のアイデンティティであるかのように。 「あなたにとって、自分を守ることとは」  沢口は膝頭の上で手を組み、亜弓の顔を覗き込んだ。 「中村くんを守ること以上の重みを持たないんですね」  亜弓は伏目がちだった瞼を上げ、沢口の視線を捉える。  意志の強い瞳ではっきりと頷いた、そのことが亜弓の全てだった。

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