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第6話

 家に帰って、病院でのことを亜弓は中村に報告した。  どんなことを話したとか、次回は来週木曜の午後だとか、メモに書いて伝える亜弓の頭を中村は優しく撫でた。 「カウンセリングの内容までは僕も聞けないから、沢口先輩にいろいろ話を聞いてもらっておいで。誰かに話すだけで楽になることってあるし、僕には言えないことだってあるだろうし」  そう言って理解を示した中村の言葉に、亜弓の視線が遠くなる。 「明日が金曜か。土曜まで、あと二日休みだね。ゆっくり休んで、そんなすぐに治ろうなんて焦るんじゃないよ」  亜弓は少し目を伏せて頷いた。 「じゃあ、僕は明日は、明後日の打ち合わせがあるから実家に戻るから。何かあったらすぐにメールするんだよ。見合いの最中でも駆けつけるからね」  そう言って笑う中村のシャツの襟元に、亜弓は手をかけた。 「…ん、亜弓?」  シャツのボタンを開け、プラチナの鎖越しに肌を吸った亜弓の腰を抱く。 「どしたの、したいの?」  肩口で頷いた亜弓の手を、中村は引いた。  けれど中村はこの時、珍しい亜弓からの誘いの意味に、気づくことができなかった。  白い何もない空間で、亜弓は少年と向き合っていた。  少年は長袖長ズボンに、素足。小さい頃亜弓は、体中の痣や傷跡を隠すため、夏でも長袖で過ごしていた。 『助けて』  少年は開口一発、そんなことを言う。亜弓は眉を顰めた。 「ごめん」  謝って、亜弓は頭を垂れた。 「俺には助けられない」 『どうして』 「自分より大切な人がいるんだ」  少年はわからない顔で眉を寄せる。 『存在しない、そんな人間』 「本当だよ」 『自分を大切にできない奴が他人を大切にできるわけないじゃないか』  子どもの姿をしたもう一人の自分の言葉に、亜弓は何も返せなくなる。  答えられない亜弓の袖を、少年が引く。 『その大切な人の前から、なんで消えようとしてるの』 「やめてくれ……」 『なんで結婚するなって、行かないでくれって言えないの』 「俺のことなんかどうでもいいんだよ!」  亜弓は力任せにその手を振り払った。助けを求めて差し伸べられた手を。 『それは、僕のこともどうでもいいってこと?』 「そうだよ」  傷ついた目を見開く少年にさらに言いつのって、亜弓は同時に負った自分の傷になど見向きもしない。 「だって俺にはできないんだ、結婚も出産も。彼に必要なものを何も与えられないのに、行くななんて俺に言う権利ない」  そう言う亜弓の言葉も、建前などではない。中村には、家庭を持って、それを大切にして幸せになって欲しいと思う。それを阻害する要因に自分がなり得るなら、彼の前から消えるべきだとも思う。それは本心だ。  けれど、目の前で泣く少年の言うことも、一方では揺るぎない本心で。 『僕はあの人と一緒にいたい……』  そしてその本心が自分の中に存在していることも、亜弓は理解している。  わかっていてなお、二つの本音のうちの一方を優先することを、亜弓は選んだのだ。  中村が幸せそうだと、自分も幸せだと感じた。いつの間にか、彼の幸せが自分の幸せになっていた。  けれど亜弓は、自分自身の幸福を求める術を知らない。それを知る機会は、幼い頃に奪われた。  だから、中村には自分がいなければこその幸いが確かにあるはずだと、亜弓は信じた。  たとえ自分の中の少年が寂しさに泣いたとしても。 「彼を幸せにしよう。それが俺の幸せなんだ」  亜弓は少年の手を引いた。 「そのために、俺は中村さんとは違う道を行く」  自分で選んだその道を、進み難い重い脚を亜弓は知っていた。  けれど、閉じた目を、開けば。  ――そこは、晴れの良き日で。  ベッドを降りて服を着替えた亜弓は、黄色い表紙の電話帳を繰り、受話器を上げた。

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