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第18話
静岡の柴崎の家を後にして、病院へ戻る中村親子と別れ、亜弓は一人、兵庫にいた。
中村は一緒に行くと言って聞かなかったが、必ず今日中に帰るからと、亜弓は一人で姫路行きの新幹線に乗った。
訪れたのは、亜弓の実の両親の菩提寺。もう夕闇の迫る墓地で、『西山家之墓』と彫られた墓石を前に亜弓は佇む。
そこには、亜弓が十歳の時に事故死した亜弓の母・美智子 と、昨年病死した父・栄治が眠っている。その墓に、途中で買ってきた花と、ここへ案内してくれた寺の住職がくれた線香を供えた。
「…父さん、母さん。俺、結婚するよ」
しゃがみこんで手を合わせ、雪の積もった墓石の名を見上げる。
「突然こんな報告してごめんね。でも、相手はかわいい女の子じゃないんだ。俺の職場の病院で働いてる、外科の先生でね。中村さんっていう、男の人。そのお父さんが病院の院長なんだけど、その人の息子になるんだ。法的には中村さんとは兄弟になるんだけど、その養子縁組で、俺たち結婚するんだよ」
冬の入日は早く、見る間に亜弓の影は闇に溶けてゆく。
「…母さんは、何て言うかな。男と結婚させるために生んだわけじゃないって怒るかな、それとも祝福してくれるかな。母さんがこんな時に何て言いそうか、俺には想像がつかないよ。正直なところ、母さんのこと、あんまり覚えてないんだ」
その母が幼い頃によく着せた、可愛らしいピンクのワンピースはよく覚えているのだけど。
「母さんが死んでから、父さん、なんかおかしくなっちゃったんだ。俺のこと、母さんの名前呼びながら犯すんだよ。あの時はすごく怖くて、いやで、ただ辛かったんだけど。今になって考えると、父さんは母さんをすごく好きで、なのに母さんが死んじゃって、もうどうにもならなかったんだろうね。だからって俺が犯されたことを忘れられるかって言ったらそうでもないんだけど。でも、前よりちょっと許せるよ」
許す、と言えた自分に微笑んで、亜弓は目を閉じた。
「父さんは知ってるよね、中村さん。最後に父さんと会ったとき、もうあれは最悪だったけど、もう済んだことだし死人を恨み続けても仕方ないから許すことにするけどさ。あれから、ホント色々あってね。中村さんは女の人と結婚しそうだったし。それでも中村さん、俺のこと選んでくれたよ。俺のために、自分の両親説得して、柴崎の両親もお父さんと一緒に説得してくれたんだ。柴崎の両親も、俺が気づけなかっただけで、すごく俺のこと愛してくれてた。俺って幸せ者だね」
寒さに、ず、と鼻をすする。頬には、いつの間にか涙が伝っていた。
「…母さんがずっと生きてたらよかったのかな。そしたら父さんも俺を虐待なんかしなかっただろうし、俺は柴崎の家に引き取られずにずっと西山亜弓で、家族三人仲良く暮らしてたのかな。そうだったら幸せだったろうね。…だけどね、母さん…別に母さんが死んでよかったっていうんじゃないんだ、でも俺、母さんが生きてたらって想像する幸せに負けないくらい、今すごく幸せなんだ」
その幸福に、気づけてよかった。
「――幸せなんだ」
涙を拭って、再度噛み締めるように呟く。
そうして冷え切った体を伸ばし、立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ帰る。今日中に帰るって約束したし、明日も仕事なんだ。もう、あんまり来られないかもしれないけど。俺、幸せになるから」
だから心配はするなと、亜弓は背を向けた。
『幸せになるから』なんて言葉を言えるようになった自分に、少し驚きながら。
長旅を終え、ようやく中村のマンションに帰ってきたときには、もう二十三時を過ぎていた。
まだ部屋の電気がついていたので一度インターホンを鳴らしてから鍵を開けると、玄関で中村が怖い顔をして仁王立ちになっていた。
「あ、中村さんただいま…」
「遅いっ!!」
腕組みをした中村に怒られて、亜弓は肩を縮めた。
「何時になるか連絡ぐらいしなさい! 携帯も電源切ってるし!」
「ご、ごめんなさい」
「もう、心配かける子はお仕置きだよ! シッペだシッペ!」
「えぇ~! なんでそんな小学生臭い罰ゲーム…」
「問答無用、手ぇ出して!」
渋る亜弓の左手首を掴んで、中村は右手の人差し指と中指にハ~と息を吐きかけている。
「本気でやる気ですか、手加減、手加減!」
「ダメ。ほら目ぇ瞑って、手は握らない、開いて!」
「うぅ~」
なんでこんな目に、と思いながら、亜弓は言われるままに握った手を開き、顔を背けて目をきつく瞑った。
「せぇーの!」
勢いのいい掛け声と共にその手が振り下ろされる、その緊張に体を硬くした。
――と、覚悟したような衝撃は訪れず。
薬指に、ぐに、という感触。
「……え?」
不審に思って、おそるおそる亜弓は目を開ける。するとなぜか中村は亜弓の左手を隠すように両手で握って、満面の笑みを浮かべている。
「痛いことなんて、するわけないでしょ」
笑った中村が、その両手を開く。
現れた自分の左手の薬指に。
銀色の指輪。
「……」
亜弓はそれを見つめたまま、しばし固まった。
「こ…れ…」
「ははは。注文してたの、今日取りに行ったんだ。結婚指輪にございます」
呆然とする亜弓の前で、照れた中村はズボンのポケットを探る。
「あと、それからこれも」
中村が亜弓の後ろ首に手を回す。その亜弓の胸に光ったのは、二ヶ月前中村につき返した、プラチナのペンダント。
「やっぱりこれもつけててほしいので。あと、普段仕事してる時なんかは、指輪をこれのチェーンに通しておけばいいんじゃないかと思って」
言いながら中村は、自分の左手を亜弓の前にかざす。もちろんその薬指には、亜弓とお揃いのシンプルなリング。
その左手がそのまま亜弓の頬に触れ、中村はくちびるを寄せた。
軽く、触れ合わせるだけのキス。
額をくっつけたまま、中村は亜弓を見つめる。
「これから、ずっと一緒に。二人で生きていこう」
――ずっと一緒に、なんて。たぶん以前の亜弓なら、そんなのは不可能だと知っていて、はなから信じたりはできなかった。
けれど中村のこの言葉は、ただの理想でも、社交辞令でもない。実現できるものなのだと、今は疑いなく信じることができる。
中村がここまでに繋がる道を、そして二人の未来に続く道を、きちんと示してくれたから。それは、二人がこれまでに築き上げたもの。それだけは、疑わなくていい。
「…中村さん」
「うん?」
小さく呼んだ亜弓に、中村は微笑んで応える。
「好きです」
「…うん」
その頷きだけで、亜弓には十分だった。
二人に続く『ずっと』がいつまでなのかは分からないけれど。
この先に二人で切り拓いてゆく道を、繋いだ手を離さず、共に歩いて行きたいと願った。
与え、与えられる幸いを求めて。
<END>
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