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第17話
「けっ…こん!?」
決して若くはない養父母が、声を揃えて素っ頓狂な声を上げた。
養父が院長と中村の姿をまじまじと見比べる。どちらも男だ。そして亜弓も男だ。
混乱した挙句、呆然と院長を指差した。
「…って、院長先生と?」
「「違います!」」
そこは間違えられてなるものかと、中村親子も声を揃えて否定する。
「ああ、じゃあその息子さんと?」
「はい…」
あまりに愕然とした顔を目の前にして、亜弓は肩を縮める。
「結婚なんて…あなた正気なの!? 男同士で、そんな、けっ、結婚だなんて、」
「母さん、血圧が上がるから、少し落ち着いて」
養父に宥められて、養母は震える手で湯飲みに口をつけた。
その背をさすりながら、養父は困ったように亜弓に視線を向ける。
「…お前、本気なのか」
その目を直視できず、俯いて亜弓はくちびるを噛み締めた。
好々爺然とした養父は昔から、何があっても激昂することのない人だった。それは一見ただ優しい人のようでもあるが、その養父を亜弓はとても恐れていた。いや、恐怖ではなく、畏怖の念を抱いていたのだ。
多くは語らない。叱咤もしない。けれどその目に見つめられては、何もかも見透かされているような気がして。
「本気…です」
「お前は男が好きで、男とつき合ってたのか」
「中村さんとだけです。以前は女性とつき合っていましたが…ちゃんと愛せていたかどうかわかりません」
「彼…でなければならないのか? 他の…女性とか」
「お義父さん」
やんわりと中村との関係を否定されて、亜弓は俯けていた顔を上げた。
彼でなければならない理由。それは自分でも定かには分かっていない。けれどどんな言い方であれ誰からであれ、中村を否定されることはつまり今の自分を否定されることであり、それは亜弓にとって耐えがたかった。
「僕はここへ引き取られる前、父から虐待を受けていました」
「…亜弓さん?」
それは柴崎の家に入ってから一度として話題にしたことのないことで、敢えて触れないようにしてきていた養母は眉を寄せて困惑する。
「お義父さんもお義母さんも、僕は父から殴られたり蹴られたりしていただけだと思ってただろうけど」
しかし二十年、そこへ触れまいとする緊張した空気は、少なからず亜弓を苦しめてもいた。
「本当は、性的な虐待も、父から僕への強姦もあったんです」
触れない養父母の内にある気遣いを、確かに亜弓は感じていた。だから、亜弓は口が裂けてもそれを養父母に明かすことはできなかったのだ。
柴崎の姓を受けて初めてそれを口にした亜弓に、養父母も、そして中村親子も息を飲み、その悲壮な姿に眉を寄せた。
「僕はそんな自分が嫌いだった。自分を忌むべき存在だと思ってたし、そんな自分は誰からも愛されないと思ってた。それを明かしてしまえば、お義父さんたちからも」
酷い疑いなのは分かっている。たとえそれを明かしても、この養父母は自分を見放したりはしないだろう。けれど亜弓にとっては長い間、語ることそのものが根源的な恐怖だった。
「でも中村さんから愛されて、彼を愛して、きっとそんなことはない、人の情って案外そんなに薄いものじゃないんじゃないかって、少しずつ信じられるようになった」
そうして信じられる気持ちが、頑なに閉ざしていた亜弓の口を、ここまで解き解すことができたのだ。養父母の前で、自分の素直な気持ちを語れるほどに。
「中村さんは、全部を知ってて僕を丸ごと愛してくれた。僕自身でさえ好きになれなかった自分まで。その人と、これからも一緒にいたい。一生。だから」
亜弓は後ろへ退き、畳に手をついた。
「お願いします。中村さんの家へ、養子に行くことを許してください」
深々と頭を下げた亜弓を見、そしてそれを見つめる養父母を見、中村も亜弓と並んで再び頭を下げた。
「…あなた…」
泣きそうな顔で、養母が養父の袖を引く。
養父は頭を下げた二人の背中をじっと見据えた。そして院長と目を合わせ、険しい表情で小さく息をつく。
「――亜弓は」
養父が嗄れた声を聞かせるのに、思いがけず亜弓は、養父母の上に降りかかる老いの存在に気づかされた。
「昔から手のかからない子でね。我が儘は一切言わない、何がしたいとも言い出さない、辛いとも悲しいとも言わない、人当たりは良くてよく笑うけれど、この子の気持ちがどこにあるのか探ろうとして我々はいつも難儀しました。高校生になって進路を決める時も、私が昔薬剤師だったからというだけの理由で今の道を決めましてね。親としては自分と同じ道を子どもが選んでくれるというのは嬉しいことではありますが、この子ときたら、お前本当にそれでいいのかって訊いても、ただ首を傾げるだけでねぇ」
かつての亜弓の姿に、養父はやりきれなく苦笑する。
「……ああ、でもいつの間にか克服してたんだな、お前。ちゃんと、自分の希望を言えるようになったんじゃないか、なぁ」
「お義父さん…」
よく聞けば自分への情しかない声を今までどう聞き違えていたのだろうかと、信じられないような心地で亜弓は頭を上げた。
そこには、子どもへの愛情に相好を崩した、老爺の顔。
「私たちは、亜弓にいろんなことを叶えてもらった。子どもを持てなかった私たちが、息子と呼べる存在を得られて、薬剤師になって立派に自立してくれた。その亜弓の初めての願いを、私たちが拒む理由はないと私は思います。母さんはどうかな?」
話を振られて、養母はそっと目元を拭った。
「そうですね…私たちは亜弓さんがいてくれて幸せだったんだもの。今度は亜弓さんが幸せにならなくちゃね」
「お義母さん…」
声を震わせて呼んだ亜弓の手を、隣の中村が強く握る。
「養子に迎えさせていただいても、亜弓さんを育ててくださったご両親があなた方であることに変わりはありません。これからもずっと、亜弓さんの親として、どうか僕たちを支えてやってください」
「…一臣くん、でしたな。亜弓を愛してやってくれてありがとう。これからも、亜弓のことをよろしく頼みます」
「はい、精一杯幸せにします」
中村は誓いの頭を下げた。
「院長先生。見ての通り私たちは老い先もそう長くはありません。でも親というのは子がいくつになっても心配なものです、どうぞ息子をよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
養父母と中村親子が頭を下げ合い、その手を握り合うのを見て。
亜弓は、ここで過去の呪縛の全てが終わり、ここから全てが始まるのだと思った。
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