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1章 コミュニケーション装備はゼロ
夏の終わりの夜は蒸し暑い。
コンクリートからゆらゆらと熱い風が沸き上がっているように葵は感じた。
薄手のTシャツが肌に張り付く感触が気持ち悪く、眉根が近くなる。
葵はこんな夜に外出したことを後悔しながら、あてもなくふらふら歩く。
そろそろ履きなれていないサンダルで歩くのも疲れてきた。
何も考えたくない夜、電車に乗って知らない駅で降りてみる、なんていう衝動ないだろうか。
良い歳の大人になってもその衝動はたまに沸き起こり、葵は今日実践してしまった。
「帰りたい……」
あんなに居たくなかったあの部屋に、葵は早く帰りたくなっていた。
自分の衝動に激しい後悔を感じ、駅に足を向けようと思ったとき、一つの看板に目が留まる。
小ぢんまりとしたバーのようだ。
重たそうな木の扉は、葵をもてなそうとしているのか、入ってくるなと閉ざしているのか。
暑さで頭が回らない葵は、何も考えずそのドアノブを握り引いた。
想像よりも軽く開いた扉の向こう側には、想像よりも奥に広く薄暗い空間が広がっていた。
不思議なBARだ。
奥には小さいステージとその目の前に広がるフロア。
フロアには観客席のように、立ち飲みができる高さのテーブルがいくつか並んでいる。
もしかしたら、決まった日に演奏会などが行われているのかもしれない。
ちらりと横を見るとカウンター席もあるようだ。
体格のいいマスターと、まだ若そうなバーテンダーが数名の客と談笑している。
今日は考え事をしたい。
いや、考えたくないからこんなところまで来たんだけど。
矛盾した考えのもと、葵はカウンター席の一番端っこに腰をおろした。
「いらっしゃい、お客さん初めて見る顔だな」
「あんまり強くないので、おすすめのカクテルをお願いします」
「任せな~」
腕まくりをしたマスターの腕は鍛えられており、シェイカーが映える。
ぼーっとその様子を見ているとマスターがにやりと笑う。
思わず葵が目を逸らして数秒、節だったマスターの手が目の前に降りてきた。
「ほい、特に名前もないおすすめカクテル」
「それは……ありがとうございます?」
一口飲むと甘さの中に爽やかさを感じる柑橘系。
暑い中歩いていた葵に心地よく染み渡った。
「おいし……」
「それはよかった。こんな暑い日にどうしたんだ?」
確かに今の葵の姿は仕事帰りには見えないだろう。
実際Tシャツにジャージ生地のスラックスにサンダル。
汗だくの男が一人入ってきたら浮くに決まっている。
「いえ、少し考え事をしていて……」
「こんなに暑いと、いらねぇことまで考えちまうよなぁ」
「そうですよね」
はは、と乾いた笑いをマスターに向けて、また一口カクテルを煽る。
淡いオレンジ色は葵の重たい心を少しずつ溶かしていった。
「仕事が少し、伸び悩んでいまして」
「それはキツイなぁ」
「今まで通りではいけないことを突きつけられているようで、少し、考えすぎてしまって」
自嘲気味に話す葵に、マスターはグラスを磨きながら耳を傾ける。
目線は合わない会話が、葵にはちょうどよかった。
「そしたら、今まで通りも上手くいかなくなってしまいますよね」
「俺がお客さんくらいのときもあったな、そういうとき」
「誰しも通る道、ってやつですかね」
「そうそう、やっと来たかーくらいに思っとけばいいんだよ」
クククといたずらに笑うマスターにつられて葵も口角を上げる。
仕事上、年上の男性と面と向かって話す機会も少ないため新鮮な気持ちで会話を楽しめる。
やっぱり、バーのマスターを職にしているような人は話術が違うな。
そんなに会話が得意じゃない俺から会話引き出してくれるなんて。
「新しいこと始めるのって、歳を重ねるごとに怖くなるの、なんなんでしょうね」
「そりゃあ、知らなくていいこと知っちまったからだな。いろーんないらないこと考えちまうから、足踏みする。お客さん、大人になったんだな~」
「よくも悪くも慎重になるのが大人のめんどくさいところか……」
あー……とため息をついて頭を抱える葵。
そんな様子をみてまたマスターは肩を揺らす。
その笑いも嫌味がなく、葵はまたカクテルとちびり、と飲み進めた。
良い店を見つけたかもしれない。
数少ない俺の憩いの場所を見つけられた……と口元を緩ませる葵。
「まだまだ若いんだから、なんでもやれるさ。俺がこの店始めたのだって28のときだったよ」
「うわ、今の俺とそう変わらないじゃないですか……」
「ほらな?20代までは何やったって新しいことばっかなんだ。考えずになんでもやってみればいいんだよ」
店内のジャズとマスターのバリトンが心地いい。
大きく息を吐いてカクテルをちびちび飲み進める葵の姿をみて
「まだまだ若くていいねぇ」
と他人事のようにマスターはまた笑った。
やりたいこととやるべきこと。
その判断を重ねていくことが大人なんだと、葵は改めて感じた。
そして、その行為に苦手意識があることも自覚し、また溜息をつく。
「できれば今のままでいたい……のに、そのためには新しいことを始めないといけない……。どういうことなんでしょう?」
「それだけ、何かを維持するってことは難しいってことだな。そういうのは突然変わっちまうから気をつけな?」
「肝に銘じます。仕事的に……自己プロデュース的なことをしていかなきゃいけなくて。それが苦手すぎて詰まって」
「はーそりゃ大変なこった。自分のことなんて一番分かんねぇよなぁ」
そんなこと言っているマスターは、自己プロデュース成功例だと思うが。
整えられたあごひげに、不潔感のない手入れされた髪を後ろで結んでいる。
適当に伸ばしっぱなしの葵とは違って、自分の見せ方を分かっているように見えた。
これが、「自分を見られる職業」かどうかの違いか。
ちらりと横を見ると、気づけば客は葵だけのようだった。
暑い中歩いて疲れていたのだろう、カクテル一杯でも酔いが心地よく回っている。
最期にもう一杯だけ、ソフトドリンクでも飲んで帰ろうかな。
「すみません、最後にオレンジジュースいただけますか」
「あー、悪い。実はさっきので終わっちまったんだ。急いで持ってきてもらってるんだが……」
「いえ、ないなら別の物でも……」
他のソフトドリンクを葵が思い出しているうちに、カウンターの奥から微かに人の声がした。
「お、噂をすると酒屋が来たな。おーい、すぐ使うから持ってきてくれ!」
「いや、そんなに急がなくても……」
「はいはい、ほーんとマスターは人使い荒いんですから!」
奥から酒類を運んできたのは新卒だろうか、20代中ばに見える若い酒屋だった。
ひょこっと顔をだした酒屋は、短く切りそろえた茶髪を揺らして葵に話しかける。
「いらっしゃいませ!持ってくるの遅くなってすみません!」
「いえ、そんなこと……」
「急ぎで悪かったな。お客さん、オレンジジュースでいいか?」
「ありがとうございます。せっかくなのでそれで」
なんだか居心地が悪くて、少し残っていたカクテルをグッと飲み干す。
グラスを置いて視線を上げると、酒屋にじっと見つめられていた。
なんだ、俺なにかしたか?
こんな陰キャがオシャレなバーに来ちゃいけないのか?
葵は思わずジトリと睨む。長い前髪に、お世辞にも目つきがいいとは言えないため印象は最悪だろう。
「はい、おまたせしました」
「なんだかすみません」
マスターからオレンジジュースを受け取った瞬間、酒屋は眩しい笑顔でまた話しかけてきた。
「あの、もしかしてゲーム実況とかしてる上名さんですか?」
「ぐっ!!!」
葵は見事に気管へオレンジジュースを流し込むことに成功した。
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