6 / 6

柴犬も懐けば食を運ぶ3

何もない暗闇の中、足が何かに埋まって動けない。 これは夢だ、と葵は確信した。 しかし夢というものは覚めようと思うほど深みにはまっていくこともある。 今回はそのパターンだろう、と感覚的に分かった葵はおとなしくその場に立ち尽くした。 「上名さん」 「だからその名前で呼ぶなって」 涼が近くから話しかけてくる。 実際、涼の姿を確認することはできないが、声で判断できた。 夢で声が聞こえるなんて、と自己嫌悪した。 「葵さんかぁ、いい名前ですね」 「どうも」 「でもやっぱり俺、上名さんがよかったなぁ」 心臓が止まる。 止まったわけではないのだが、確かに数秒心臓がつかまれる感覚がした。 「葵さんってなんだかつまらないし」 「配信者だからもっと面白いかと思ったのに」 「特に秀でたものもないですよね」 「ゲームばっかの奴はだめだわ」 涼の声と懐かしい声が交互に聞こえてくる。 葵の周りをぐるぐる回るように、2人の声が頭に響く。 耳をふさぎたくても、ここから逃げたくても、体は少しも動かない。 ただ瞬きだけが許される世界で、葵は立ち尽くすしかできない。 「なぁ、お前やっぱり」 新しい声に顔を上げる。 そこには、懐かしい背中があった。 「俺のこと、そういう目で見てるってこと?」 もう、ずっと忘れることができない顔がいた。 嫌だ、やめろ、そんな目で俺を見ないでくれ。 だって、俺たちずっと隣にいたじゃないか。 それなのに、なんで、そんな……。 はくはくと口を動かすだけで、葵の声帯は一つも仕事をしない。 いつも真実に嘘を溶かす言葉も、今は響きを持たなかった。 「嘘ついたのは、お前だろ?」 目が、覚めた。 見慣れた天井でも、まだ夢か現かどちら側にいるのかわからず葵はしばらく放心した。 もうしばらく見ていなかった夢だ。 部屋は冷房に管理されて涼しいはずなのに、寝汗で張り付いた前髪が気持ち悪い。 葵は大きく息を吸い込んで体を起こした。 「今何時……」 時計は葵が記憶していた時間から3時間ほど経っていた。 眠る前の自分の状況を思い出していく。 今日も配達を頼んでいて、それが届いて……。 「配信!!」 葵は飛び起きてPCデスクにかじりつく。 しかし、いくらマウスを動かしてもキーボードを叩いても、画面は暗いままだ。 いつ配信を切ったかもわからない、意識を失う前に何を話したかも分からない。 いやな鼓動が頭まで響く。 震える手でスマホを開き、SNSを覗こうと…… 「あ、もう起きて大丈夫ですか?」 「うわぁ!!!?え、なんでお前が……」 「え!?俺が来たことも覚えてないんですか?」 「何これ、どういう……」 もう自分の身に何が起こっているのか分からない。 配信を切り忘れていると思って1回。 急に涼が表れて1回。 夢とは違ったベクトルで心臓が止まりそうになった葵はパニック状態で、瞬きを繰り返すしかできなくなっていた。 そんな葵を見て笑う涼は、これまでの流れを葵に説明した。 葵はまた生きた心地がしなかった。 「あ、あの……この度は多大なるご迷惑を……」 「ちょっと頭上げてください!!土下座しないで!!」 「ヤバすぎるだろだって。俺だったら放って帰る」 「そんなことしないでしょ。それより、勝手にキッチン借りちゃいましたけど大丈夫でしたか?」 「なんでよりによってこんな日に……。ていうかリスナーどんな反応してるんだろう、エゴサこわ……」 「聞いてないなこりゃ」 頭を抱えてぶつぶつと自分を責めている葵を見て、涼は小さく笑う。 もう自分の声は届いてないだろう。 涼は静かに部屋を出てキッチンに向かう。 思ったよりも早く起きてくれてよかった、美味しい状態で食べてもらえる。 使い慣れないIHの電源を入れて鍋を温めなおす。 「……なんかいい匂いするんだけど」 「あ、戻ってきました?勝手にキッチン借りてすみません。カレー吹き飛ばしちゃったので」 「それは全然。碌にキッチン使ってないしいいんだけど……」 「葵さんの家、なんも食材なくて笑っちゃいました」 「男の一人暮らしはこんなもん……」 「なさすぎ」 一瞬ムッとする葵だが、心当たりしかないので口をつぐむ。 そんな葵を気にする様子もなく、涼は俯く葵の顔を覗き込んだ。 「ね、葵さん。お椀とかってどこにあります?」 「うっ、そ、そこの棚の上」 「お借りしますね~」 いつも自分が使っている食器を涼が持っている。 目の前の光景がまだ夢の中みたいで、ぼーっとその様子を見つめた。 ふわりと舞う湯気を纏った涼は、手慣れた様子で白い麺と出汁が注ぎ分けていく。 「具材もなにもないですけど、許してくださいね」 「……文句言える立場じゃないだろ、俺」 「ははは!どうぞ、柴犬特製あったかい素麺です」 丸い目を細めて差し出してくるお椀を、葵は両手で受け取る。 人の手料理を食べるなんていつぶりだろうか。 なんだかむず痒くなり、葵はぼそりとお礼をつぶやくと、そそくさとリビングに戻った。 「おいしいですか?麺伸びちゃったかも」 「……旨い」 「よかった。いつ起きるか考えずに作り始めちゃったんでナイスタイミングでしたよ~」 温かい料理をゆっくり食べたのはいつぶりだろうか。 久しぶりに引っ張り出したローテーブルで背中を丸めて湯気を吹く。 少し柔らかくなった素麺をすすり、出汁と一緒に飲み込んだ。 胃にじんわりと広がる安心感に、葵は思わず大きく息をこぼした。 「それで、冷蔵庫に残ってた弁当はいつのですか?」 「うぐっ、いや、それは……」 「夏バテで食欲落ちてるのはわかりますけど、今夏ですよ」 「はい」 「危ないから、一回箸付けたものはあんまり保存しないでください」 「はい……」 何も言えない。 いたたまれず、また一口出汁を口に含む。 あぐらをかいて頬杖をする涼は、そんな葵を心配そうに見つめた。 そんなに大きくないテーブルは、向かい合っても腕の長さほどの距離しかない。 「リスナーは、健康な葵さんを待ってますからね」 「……そこは上名じゃないんだな」 「えー、そこの境界線難しいんですってば」 「変な奴」 思わず緩んだ口元を隠すように食事を再開する。 涼しい部屋で熱いものを食べるのは気持ちよくて、それでにやけただけだ。 顔が熱くなるのを感じて、葵は冷房のリモコンを操作した。 強まる風を感じて少し落ち着く。 「ねぇ、やっぱり今忙しいんですか?」 「そうだな。配信してないときは基本寝るか練習するかだし」 「配信者って感じの生活してますね」 「うるせぇ配信者だよ」 「じゃあ、良ければ俺が飯届けましょうか?」 「……うん?」 話のつながりが分からない。 多分、涼の頭の中ではつながっているであろう会話に置いて行かれる。 都合のいい解釈をしないように、何度も言葉を反芻するが違う意味が思いつかなかった。 「どゆこと?」 「だーかーら。葵さん専用の出前、開きましょうかってこと」 「い、いやいやいや流石に悪い」 「俺から言ってるんだし、よくないですか?」 「仕事もあるだろ」 ここで流されないように、意地でも抗ってやろうと気を引き締める。 しかし、けろっとしている涼はメリットをするする渡してきた。 「俺、結構料理好きなんです。でも誰かに食べてもらえる機会ってなくて……。葵さんに食べて貰えるなら、料理する甲斐あるんですけどねぇ」 「そ、それは……」 ずるいだろ! その言葉は汗をかいたグラスの水とともに流し込んだ。 しかし、そんな葵の様子を察したのか、涼はグラスを持っていない葵の手をとる。 「任せてください、葵さんの健康は守ります」 「……よろしくお願いします」 満足そうな涼の顔を正面から見られない。 冷房の調子が悪いのか、首から上がじわりと熱くなっていく。 抗えないことに薄々気づきながらも、葵はこんな目の前の餌を無視できなかった。

ともだちにシェアしよう!