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3.時吉志信が運命を信じてもいいかもしれないと思った日
目が覚めて胸に暖かさと重みがあって、志信はそれが何か理解できなかった。志信の発達した大胸筋を枕に由貴が健やかに寝息を立てている。理解した瞬間、起き上がってしまって由貴が志信の胸から落ちた。
「あいたっ……志信さん、起きた? 体、きつくない?」
「へいき、だとおもいます……なんで、いるんですか?」
一夜の遊びは終わったのだから本来の相手のところに由貴は帰るものだとばかり志信は思っていた。それが寝て目覚めても同じベッドにいる。カーテンの外は明るくなっていて、夜は明けていた。
「初めて抱いたひとを置いて帰るなんて最低な男じゃないよ、僕も。それに今日は仕事を見せてもらう約束だったし」
「しごと……」
散々喘いだせいで声が枯れていて、喋ると咳が出る。起きた由貴はスラックスとシャツを着てキッチンに向かっていた。志信も仕事着の作務衣を着て由貴に続く。
冷蔵庫を開けられて、私生活を覗き見られているようで志信はちょっと恥ずかしいような不思議な気持ちになった。
「志信さんって、料理するひとなんだ。ちゃんと食材が揃ってる」
「ここ、山奥だから自分で作らないと何もないんです」
冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出して飲むと、冷たさと潤いで喉がかなりマシになった。結婚する相手の元に帰らなくていいのかとか聞くのは、この場面では野暮なのだろう。
昨日出会った運命の相手は、他に結婚するひとがいて、それなのに志信を運命だと言って抱いた。志信の方も由貴に本命の相手がいると分かっていながら抱かれたかったのだから、二人は共犯者ということになる。
結婚相手がいながら志信を抱いた悪い男は美しい笑顔で志信の家の冷蔵庫の中身を見ている。
「うわっ! 作り置きも冷凍庫にいっぱいある。日付と品名まで書いて、僕よりよっぽどマメだ」
「ユキさんも自炊する方なんですか?」
「するよ。美味しいもの食べたかったら、自分で作るのが一番安くて手軽だし」
「良い旦那さんになりそうですね」
自分で言ってしまってから、志信はしまったと思った。志信は浮気相手なのだし、結婚する由貴にとってはそういうことは言われたくないだろう。
ほんの少しだけ、由貴が自分の夫になってくれればいいのにという気持ちが漏れてしまった。
「そうでしょ? 僕、良い旦那さんになると思うでしょ?」
志信の気持ちも知らずに由貴は嬉しそうに言って来る。浮気をする男とはこんなものなのだろうか。胸が痛んで涙が出そうで、志信はぐっと奥歯を噛み締めた。
「このミネストローネ、使ってもいい?」
「どうぞ」
冷凍庫からミネストローネの入った袋を取り出して、由貴が鍋に出す。鍋で煮詰めたミネストローネに冷凍ご飯を入れて、たっぷりのチーズを混ぜ込む由貴の手際の良さは、確かに日ごろから自炊している証拠だった。
とろとろに溶けたチーズが糸を引くミネストローネご飯を由貴は志信の出した二つの深皿に取り分けた。
「ミネストローネとチーズのドリア風にしてみたけど、どうかな?」
「すごく美味しそうです」
「冷めないうちに食べよう」
木匙で掬って食べると熱々のご飯にミネストローネがしみ込んで、チーズが絡んで美味しい。はふはふとしながら食べる志信に、正面の椅子に座って食べていた由貴が笑う。
「志信さん、食べさせ甲斐がある。可愛い」
「俺の方が年上なのに、可愛いはないですよ」
「志信さん、幾つ? 僕、26だけど」
「35です……」
35歳で初めてで、しかも9つも年下の由貴の浮気相手になってしまった。
「35歳か。僕、年上のひとがタイプだったみたい」
「そんなこと、言わないでください」
期待したくはない。
息をするように相手を口説く由貴の口車に乗っていればいい気持ちでいられるのだろうが、由貴の帰った後の孤独が深くなる。
今のうちに引き返さなければいけない。
自制する志信の気持ちなど知らないように、由貴は上機嫌で志信の仕事風景を見ていった。
天目釉を塗った器を焼いた窯がちょうど冷えたところだったので、焼き上がった器を取り出して一つ一つ確かめていく。黒に近い深い青や緑に金属の光沢が出て、星空のようになった器を手に取って、由貴は真剣にそれを見ていた。
「写真でも見たけど、こんなに美しいものだったんだ……」
「それと同じものを注文されるということで良いですね?」
「お願いします。これはすごい……僕たちの結婚式のときにも引き出物にしたいな」
僕たちの結婚式。
聞きなれない言葉を聞いた気がして、志信は由貴の顔を凝視していた。由貴が照れたように笑う。
「気が早いかな? まだ、プロポーズもしてないのに」
「え? ユキさんは結婚されるのでは?」
「うん? 志信さんと結婚したいと思ってるけど」
何か大きなすれ違いがあるような気がして、志信は必死に考えた。
由貴も志信の父親と同じように四人まで妻が持てるのだろうか。それならば志信は何番目なのだろう。
「俺は、ユキさんの何番目の妻になるんですか?」
「へ? ここは日本だよ? 妻は一人だけ」
「でも、ユキさん、結婚式の引き出物に俺の作品を使うって」
混乱して座り込んでしまいそうな志信を由貴が支える。休憩室に連れて行ってもらって座ると、昨夜の名残か腰の痛みがあった。気が張っていたので志信は自分が無理をしていたことに気付かなかったのだろう。
「志信さん、名刺、読んでなかったの?」
「名刺?」
「ウエディングプランナーなんだけど、僕!」
結婚式の引き出物に志信の作品を使いたい。
運命の相手が目の前に現れて由貴にばかり目を取られていたので、志信は名刺をきちんと確認するのを怠っていた。由貴はウエディングプランナーとして、お客が結婚式の引き出物に志信の作品を使いたいという要望を叶えるために依頼をしに来たのだった。
理由が分かってしまうと、志信は脱力する。
昨日、悲劇のヒロインのようになってしまっていた自分がひたすらに恥ずかしい。
「それじゃあ、ユキさんには婚約者も結婚相手も恋人もいないってことですか?」
「そうだよ。しかも、ああいうことしたのは、昨日が初めてだし」
「ふぁー!?」
大きな声が出てしまうのも仕方がないことだった。昨夜の由貴は物凄く慣れている気がした。それが、実は初めてだったなんて言われても信じられるはずがない。
「昨日まで童貞だった年下男は志信さんの相手に相応しくない? 僕は志信さんに運命を感じたんだけど!」
力強く主張する由貴に志信は顔が熱くなるのを感じた。
好きになってはいけない相手だと分かっていながら、身を任せてしまうくらいに志信は由貴に惹かれていた。それが障害がなくなるのだったら、何の問題もない。
「俺、いい年してるけど、大丈夫ですか?」
「卑怯な手を使ってでも落としたかった相手だから、大丈夫も何も……愛してます」
はっきりと言われて志信は涙が出そうになった。
「俺も、愛してます」
答えると由貴に抱き締められる。
「僕たちの結婚式の引き出物、志信さんの作品で決まりだね」
「結婚……気が早くないですか? 昨日知り合ったばかりですよ?」
「僕の運命だから、手放したくない。早く僕のものにしたい」
運命なんて信じていなかったはずなのに、運命はこんなにも真っすぐに志信の元に飛び込んで来た。
愛し愛される唯一無二の相手になれるかどうかはまだ分からない。
でも今はお互いにお互いが一番だと思っている。
「まずはお付き合いから」
申し出た志信に由貴は抱き付いてキスをした。
由貴を信じてもいいかもしれない。
まだ出会ったばかりで、お互いに恋愛初心者で分からないことばかりだけれど、付き合ううちに見えてくるものがあるかもしれない。
志信はこの運命を信じてみることにした。
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