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時吉志信と月島由貴の生活
結婚式場に就職してから、客のカップルの前に出るときには必ず左手の薬指に指輪をしなければいけないのが由貴に課せられた定めだった。
勘違い新郎にストーカーされる原因となったお茶を運んだ日にも左手の薬指に指輪を付けていたのだが、相手は隣りに自分の結婚する恋人がいても構わずに由貴に縋ってくるような相手だった。左手の薬指の指輪程度では牽制できない。
あの事件以来客のカップルの前に出る仕事はなく、他の店との繋ぎをする営業職にも完全に慣れて満足して来た由貴は、左手の薬指に見せかけだけの指輪を付けることもなくなった。
「志信さん、あの指輪、どう?」
「え? ど、どうでしょう?」
「つけてみない?」
指輪なんていらない。運命なんて糞食らえだ。
そう思っていた由貴を変えた恋人、志信と由貴は宝飾店に来ていた。男性同士のカップルも珍しくなく、二人はショーケースの前に通される。
「そちら、七宝で色の付けられた非常に希少なリングとなっております」
上品なスーツ姿の店員が案内してくれる。
サンプルを出してもらって由貴は志信の指にそれをはめた。一回りぐるりと七宝で輝く青から紫のグラデーションのラインが入っている指輪はとても美しく、志信の指にぴったりだった。
「すごくいい。志信さんの目の色にも合うし」
「ユキさんはこれが気に入ったんですか?」
「志信さんは?」
「ユキさんがこれがいいなら……」
一緒に暮らし始めて分かったことだが、志信は自己主張の激しい方ではない。どちらかと言えば由貴の意向に合わせてくれる。無理をさせているのではないかと心配にもなるのだが、穏やかに微笑まれると由貴は志信に受け入れられているようで嬉しくてそれ以上追及はできなくなってしまう。
「これにしよう」
「はい……嬉しいです」
目を伏せると睫毛の影が志信の褐色の頬に落ちる。作品の美しさに惚れて、本人の美しさに更に惚れて、付き合ううちに人柄に惚れて、もう由貴は志信なしの人生は考えられなくなっていた。
優しくて穏やかで由貴を立ててくれる志信。良妻だと由貴はこの上なく満足していた。
そんな志信だが、譲ってくれないこともある。
初めて出会ってから二か月、ほとんど毎日のように抱き合っているのだが、始めの頃に志信は意を決したように由貴に|避妊具《ゴム》の箱を突き付けた。ローションは仕事帰りに由貴が買ってきていたから、抱き合うには何の問題もないはずだった。
「ゴム、着けてくださいね」
「なくても良くない?」
「赤ちゃんできたらどうするんですか!」
結婚もしていないのに子どもができることを志信は心配しているようだった。由貴は志信と結婚するつもりでいるから、子どもができたところで嬉しいだけなのだが。
「僕は赤ちゃんできたら嬉しいけど、志信さんはそうじゃないの?」
「そういう問題じゃなくて……結婚もしてないのに、だめです」
初めてから生でしかしたことがないため由貴は避妊具を付けるのにも手間取るし、達するたびに避妊具を取り換えなければいけないのにも不満だった。志信の胎に白濁を注いで孕ませてしまいたい。
毎晩、抱き合おうとするたびに避妊具の箱を持ち出すのだけは志信は譲らなかった。
「もう結婚しようよ」
「今、俺がものすごく忙しい理由を、ユキさんが一番知っているでしょう?」
そうだった。
由貴の持って来た引き出物の五十個のぐい飲みをつくるために、志信は物凄く忙しかった。こんなことなら仕事を持って来なかった方が良かったと思ってしまうが、依頼主の客は注文が取れたことを非常に喜んでいるし、志信にとっても大きな収入となる仕事だから今更断るわけにもいかない。
自分で墓穴を掘ってしまったことを後悔しながら、避妊具を渋々付けて志信を抱く由貴だった。
「俺みたいなのは、抱く対象にならないんだと思ってました」
事後に下着だけで新しいシーツの上に寝そべって、志信の胸に頭を乗せて鼓動を聞いていると由貴はとても落ち着く。抱き合った怠さもあって眠りかけている由貴の髪を指で梳いて、志信が色っぽくため息を吐く。
「みたいなのって、志信さんは物凄く美しいひとだよ」
「そんなこと、ユキさんしか言いませんよ」
誰もこの美しさに気付いていなかったのだとすれば、由貴はいるのかわからない神に感謝したい気分になる。性格も穏やかで落ち着いているし、豊かな胸も細い腰も丸く形のいいお尻も最高にエッチだし、褐色の肌は美しい上に手触りがいいし、顔立ちも物凄く整っている。こんな奇跡のような相手が山奥に隠れてひっそりと生きて来たなんて、由貴には信じられなかった。
「僕にとってはこの世で一番美しいひとだよ」
眠気と怠さに身を任せつつ、へにょっと笑って由貴が言えば、志信は由貴を抱き締めてくれた。
豊かな胸で眠る夜は、眠りが深くてすっきりと目覚められる。神経質で、ストーカー事件のあった後は特に夜はよく眠れなかった由貴が安心して眠れる場所、それが志信の胸だった。
「志信さん、結婚しよう?」
同棲を初めて三か月目、指輪が出来上がったタイミングで由貴は志信に何回目か分からないプロポーズをした。仕事がひと段落して落ち着いていた志信は指輪を受け取って、小さく頷いてくれた。
人生の春。
まさに由貴は浮かれ切っていた。
だから、油断していたのかもしれない。
仕事が終わると提示で上がって、細い山道を登って志信の工房と家のある場所まで車を走らせる。この時間なら志信は晩御飯を用意して待っていてくれるだろう。
料理もお互いに作るのは苦でないので、休みの日は由貴が作るし、朝ご飯は当番制にしているが志信を抱きつぶしてしまうことも多いので由貴が大抵作っていた。朝ご飯の残りや前日の夕食の残りを詰めてお弁当にして持って行っているので、お昼も同じものを食べていることになる。
結婚してもこんな風に毎日を過ごせたら。
妄想しながら駐車場に車を停めた由貴は、異様な気配に気付いた。車のドアが外からこじ開けられる。今から降りるつもりだったので鍵を開けていたドアはあっさり開いて、由貴は車の中に押し込められた。
「なっ……お前……」
「これは何? 君は俺の運命なのに!」
左手首を強く掴まれて薬指の指輪を引き抜かれそうになって、由貴はシートに倒された状態でもがいた。由貴よりも体格のいい男は、件のストーカー紛いのことをした元新郎だった。
「つけてきたのか!?」
「君は俺のものにならないといけないんだよ! 俺の運命なんだから!」
大きな手が由貴のワイシャツにかかる。ボタンを引き千切るようにして脱がされる由貴が抵抗しても、狂ったようになって目の据わっている男を跳ねのけることができない。
「ユキさん!?」
「志信さん、来たらダメ!」
危ない!
ぎらぎらと異様に目を光らせた男が志信の声に振り向く。その手に登山用のナイフが握られているのを、由貴は見てしまった。
「貴様が俺の運命を奪ったのか!」
振り上げられたナイフに由貴は起き上がって男を止めようとした。
その瞬間、何が起きたのか由貴には分からなかった。
志信の拳が思い切り男の顔面を殴り、男が鼻血を吹き出しながら吹っ飛ばされる。
「ユキさん、警察に連絡して」
「は、はい!?」
素早く倒れた男の手からナイフを奪って投げ捨て、地面にうつぶせにさせて後ろ手に拘束した志信の手際の良さに、由貴は驚いたまま警察に連絡していた。
やって来た警察に事情聴取されて、男は連行されて行った。
解放された安心感に由貴が志信に抱き付くと、志信は眉を下げている。
「俺のこと、乱暴で怖いと思いませんでしたか……?」
由貴を助けてくれた物凄くかっこいい姿に惚れ直しはしても、怖いと思うはずがない。
「かっこよかった。惚れ直した」
「良かった」
こんなに強い男が由貴には組み敷かれて抵抗もせずに抱きつぶされる。それは愛情がなければ成立しないものだった。
「志信さん、抱きたい」
抱き付いたまま耳元で囁くと、志信は小さく頷く。
「晩ご飯の後で」
二人の甘い生活は続いて行く。
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