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第286話 船上ディナーに連れられて
「李子」
「はい」
土曜日のよく晴れ渡った日の昼過ぎ。シアトルに来てから2ヶ月が経った頃、そのお誘いがあった。
「今日はディナーを予約してあるから一緒に行ってくれない?」
目元を緩ませて相良さんが提案してくれる。僕はもちろん。
「え……っもちろんです」
と答えて服を着替える。カジュアルな格好をしようとクローゼットを眺めていたら、背後からとんとんと肩をたたかれる。
「今日はスーツで行こう」
「え?」
「今日のドレスコードは正装だからね」
状況の飲み込めない僕は曖昧に頷いてから白いワイシャツと黒い就活用のスーツに着替える。隣では相良さんがワイシャツに袖を通しているところだった。凛々しく鍛え上げられた胸筋に目がいく。もうむにっと掴めそうなくらい盛り上がっていた。いけない、いけない。そんなとこ見ちゃダメだ。僕は頭を振って準備を進める。ネクタイをどの柄にしようか姿見の前で悩んで立ち尽くしていると、後ろからしゅるりと青いネクタイを巻かれた。相良さんの手だ。骨が張っていて長くしなやかな指先がシルクのネクタイを流れるような手つきで巻く。
「はい。できた」
「もう……ネクタイくらい自分で結べます」
少しむくれた僕を見て相良さんは微笑むだけ。相良さんは黒いスーツに青いネクタイを巻いた。
あ。僕とおそろいだ。
最後にシルバーのネクタイピンを付けているのを見て僕も付けてみる。適切な位置がわからずもたもたしていると相良さんがふわっと笑って僕のネクタイピンをとめてくれる。
「はい。これで準備はできたね」
「はい。でもスーツでどんなお店に……?」
「それはついてからのお楽しみ。さあ行こう」
背中を柔く押されてエレベーターに乗り込み、地下駐車場へと連れられる。黒光する車の助手席に座り、運転席に座った相良さんは黒く透けたサングラスをかけている。シアトルの日差しは強いから運転中にはサングラスが欠かせないのだという。海沿いに車を走らせて30分ほどしてようやく行き先が見えてきた。
「わ。綺麗」
夕日の沈みゆく水平線を眺めながら景色に見とれていると、相良さんが静かに声をかけてきた。
「ほら。あそこ。本日のディナーは船の上で楽しめるよ」
「えっ! 船の上? すごい……景色が良さそうです」
子どもみたいにはしゃいでしまう僕を他所に相良さんはふふ、と微笑んだまま車を船のある港前の駐車場に寄せる。外へ出ると潮の匂いが鼻にツンっときた。海風がそよそよと凪いでいる。船の周りには客と思われる正装の人々が集まりだしていた。
「さあ。Prince 。お手をどうぞ」
「え?」
急にかしこまって左手を自身の胸に添えた相良さんが恭しく僕の手の甲に接吻する。
「今宵の主役は李子だよ」
腰を抱き寄せられ船までエスコートされる。男2人が近い距離にいても僕らを白い目で見てくる人はいない。むしろ家族連れの12歳くらいのブロンドの髪の女の子が
「So cute !」
と僕らを見て呟くのが聞こえてきて心が温まった。
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