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哀しい魔物と救いのぬくもり
傷だらけの柱にかけられた古時計の秒針の音だけが、狭い四畳半の和室にカチコチと響いている。立てつけの悪い窓から入って来るすきま風が、シミの目立つ茶ばんだカーテンをたまに揺らす以外動くものはない。
とても静かだ。
ベッドに横たわっている患者のかたわらに立ち、正人は脈を取っている。もうほとんど振れず不規則なそれは、彼の生命の泉がだんだんと枯れていきつつも、まだかろうじて保たれていることを示していた。
出来得る限りの治療を受け終えたその患者が大学病院を退院したのは半年前、以来自宅療養する彼を往診で正人が診ていた。彼の快復のためにできることは、もう何もなかった。ただ定期的に訪問し、体調を見ながら痛みを抑える投薬をする。
患者のためにそれしかしてやれないのは悔しくもあったが、残り少ない彼の人生最後の望みを叶えるのはきっと意義のあることだろうと正人には思えた。
――家で死にたい。
患者は、大学病院の主治医にそう訴えたというのだ。
75歳になる彼に家族はなく、つき合いのある親戚もいない。たったひとりで何十年もの間暮らしていたこの家に、かつては笑い声が響いたときもあったのだろうか。
ほとんど自分のことを語らない無口な人ではあったが、生きてきた年数の分だけ積み重ねてきた様々な想いが、ささくれた畳や朽ちかけた土壁に染みついている。
暮らしぶりを見る限り慎ましやかで、これといった趣味もなく贅沢もしてこなかったであろう彼の最後の望みにこめられた想いを受け止め、こうして送り出せるのは、医師として誇れる務めに違いない。
もうピクリとも動かない患者に向けていた視線を上げる。
ベッドの反対側に膝をつき、患者の手を取っているのは青だ。枯れ枝のようになった黄ばんだ手を、青は両手でしっかりと握ってやっている。その澄み渡った深い瞳は、そらさず患者の顔に向けられている。
在宅療養の患者を訪問するたびに、青は自ら手を上げ助手として正人についてきた。中にはかなり重篤な病状の人もおり、目の前の彼もそんな患者の一人だった。
医療従事者でない者にとっては、見るからに『死』に近いところにいる人と接するのは精神的にきついものがあるに違いない。ましてや青は普通の人間よりも、深く相手を思いやる共感度の高い心を持っている。
親しく言葉を交わしていた人間が死にゆくのを見て、動揺し落ちこんでしまうのではないかという正人の予想は、しかし裏切られた。
青は往診に同行しても泣いたり怯えたりすることはなく、常にクリニックにいるときと同じように患者に接していた。てきぱきと世話をやき、笑顔で話しかけ、少しでも患者が居心地よくいられるようにとがんばっていた。
――正人、ぼくはとても嬉しいんだよ。
無理していないかと聞いたとき、ふわっと笑って青はそう言った。
――最近はね、正人とぼくが来るのが楽しみって言ってくださる方もいるんだよ。旅立ちのお手伝いは、誰にでもできることじゃないと思うんだ。ぼくは、とても大切なお仕事のお手伝いをさせてもらっているよ。
本当にありがとうね、と微笑む彼の小さな頭を、正人は思わず伸ばした手で撫でてやらずにはいられなかった。
だが今目の前に横たわっている患者は、自分たちの来訪を喜び気さくに迎えてくれるようなタイプではなかった。気難しく天邪鬼で、あそこが痛いここが痛いと正人に文句を言っては青に八つ当たりをするような老人だった。
けれど青はどんな皮肉や意地悪を言われても笑って受け流し、とりとめのない話をしながら患者の着替えを手伝ったり、体を拭いてやったりしていた。
――おうちの前の塀に白い猫ちゃんがいました。
――今、公園の金木犀がとてもいい香りです。
やわらかい微笑みとともにかけられるそんな言葉を、仏頂面で聞き流していた彼も少しずつ弱り、ついには悪態をつく元気もなくなった。
けれど、青が変わらずかけていた温かい言葉は、その心にちゃんと届いていたのかもしれない。一時間前青が感じた虫の知らせで駆けつけたとき、彼にはまだわずかに意識があり、青に向かって弱々しく手を差し伸べたのだから。
今はもう、手を握られていることもわからなくなっているだろう。脈は次第に弱く、遅くなってきている。彼の命の泉は、いよいよつきようとしている。
青はとても静かな瞳で彼を見下ろしている。その目には悲しみも別れのつらさもなく、唇は噛み締められるどころか少し微笑んでいるようにすら見える。その旅立ちを、ただあるがままに受け入れているといったような表情だ。
青本人の強い希望でこれまでも何度も患者が旅立つ場面に立ち合わせたが、彼はいつも同じだった。両手で患者の手をしっかりと握り、静かな目で見守る。救い主を抱く聖母のような、慈しみにあふれた眼差しで。
最期の脈が振れて止まり、主のいなくなった部屋をシンとした静けさが満たした。正人はすみやかに瞳孔と呼吸を確認し、時計を見る。
「22時27分。ご臨終です」
告げる家族はいなかったが、見送りの大切な儀式として正人は言った。
「中西さん、お疲れさまでした。ありがとうございました」
もう苦しまなくてもよくなった患者に向かって、青がそう言って丁寧に頭を下げた。その手をまだ、包み込むように握ったままで。
駆けつけてくれた市役所の担当者に後のことを任せ帰途についたときには、もうとうに日付は変わっていた。夜の闇に静まり返った町の中、植木やフェンスが色とりどりのイルミネーションに彩られている家を見かけ、もうそんな時期になっていたのかと正人は驚く。クリスマスシーズンはクリニックにとっては繁忙期で、毎日があっという間に過ぎていく。
そんな多忙な中にあっても、少なくともここ数年は聖夜を誰かと祝ったことなどなかっただろう彼を、看取れてよかった。
本格的に在宅医療を開始してから一年経つが、彼のような身寄りのない高齢者の死に立ち合うことも増えてきている。そのたびに、自分にできることはあまりにも少ないとふがいなく感じ、唇を噛むばかりだ。
コートの袖を引かれハッと隣に目を向けると、青がにこっと笑いかけてから空を見上げた。
「ねぇ正人、中西さんはどのへんにいるかな。あの赤くて小さな星かな?」
青が指差す先には、チカチカと瞬く赤っぽい星が見えた。
吐く息が真っ白になる寒い夜だ。凍りつきそうな大気は澄んで、今夜も星がよく見える。
「ああ、そうかもしれないな」
自分のマフラーを取り細い首に巻いてやりながら、恋人の横顔を改めて見た。瞳はやや寂しげに見えるが、口もとは穏やかに微笑んでいる。
「中西さんは、もうつらくないんだね。足も痛くなくなって、きっと元気に歩いているね」
「そうだな。最期も、おまえに手を握られて安心して逝けただろう。いつもの中西さんよりも安らかな顔をされてたよ」
青はわずかに目を細め、小さく頷く。
患者の手を握っていたときの彼の、森の奥に人知れず水を湛えている深い湖のような静謐な瞳を思い出した。誰に対しても思いやり深く優しい青が、その死に胸を痛めていないわけがない。
「青……おまえ、大丈夫か?」
思わず気遣っていた。いくら彼自身が望むからとはいえ、つらい場面に毎回立ち合わせ悲しみを共有させることを、続けていていいのだろうか。
正人は医師だ。患者の死に立ち合うのは当然だが、青は違う。
「ぼくは大丈夫だよ、正人」
ふわりと優しく微笑む青に、さらに心配が募る。彼はどんなに悲しくとも、心が痛くとも『もうつらいからやめたい』とは言わないだろうから。
「けどな、知っている患者さんが亡くなるのはきついだろう。ある程度慣れてる俺でもこたえるのに、おまえはまだ……」
言いかけてハッと気付いた。人間の青といる時間が長くなるごとに、つい忘れがちになってしまう。正人と出会う前、孤独だった彼がたくさんの仲間を見送ってきたことを。
それこそ最後の一人になるまで、青は愛する仲間達を一人一人看取ってきたのだろう。今日のようにしっかり手を握り、静かな瞳で見守りながら。
患者のかたわらに膝をついていた彼の姿が、魔物の姿と重なって正人の脳裏によみがえり、引き絞られるように胸が痛んだ。
「ああ……悪かった、青。おまえは、大勢の家族を弔ってきたんだった」
額に手をあてうなだれる正人の肩を、温かい手が気にしないでと撫でてくれる。
「正人、大丈夫だよ」
青は繰り返し、もう一度ゆるりと空を見上げた。
「見送った仲間も患者さんも今はみんなあそこにいて、こうして見上げればいつでも会えるから。ぼくはそれを知っているから、悲しくはないんだよ」
悲しくなかったはずはない。近しい者の死を穏やかに受け入れそういった心持ちになれるまで、彼はどれだけの涙を流し、深い悲しみを耐えて来たのだろう。肩を抱いて慰めてやる者もなく、たったひとりで。
「それとね、正人。ぼくがどうして患者さんをお送りするとき手を握ってあげるか、わかる?」
今はもうその悲しみを超越した瞳を上げ、青は正人に聞いてくる。
「患者さんが安心するからだろう?」
「うん、それもあるけれど……正人、ぼくは思うんだ。生まれてから亡くなるまでに、誰かに手を握ってもらったことのない人はいないんじゃないかって。それでね、手を握ってもらったときは、きっとその人は笑顔だったんじゃないかなって」
こう、ぎゅっと、と言って、青は自分の左手を右手で握ってふふっと笑う。
「だから患者さんの意識がなくても、どこかで感じて思い出してくれるといいなって思うんだ。手を握ってもらったときの嬉しい気持ちをね。そうしたら嬉しいまま、笑って旅立っていけるでしょう?」
これまで青に手を握られて息を引き取った患者達の顔が、浮かんでは消えて行く。笑ってはいなかったかもしれないが、皆とても穏やかな表情をしていた。
「なのでぼくは、なるべくたくさんの患者さんの手を握って見送ってあげたいんだよ。嬉しいことを思い出しながら、安心して旅立ってほしいから」
だからこれからも一緒に往診に行かせてね、と微笑む恋人の手をやにわに取り、正人は思わず握っていた。
「正人?」
きょとんとされるが構わず、さらに力をこめる。
相手のことだけを考えるその優しさで、青はこれからもたくさんの人の手を握り、そのぬくもりで魂を包んで空へと送り出すのだろう。おそらく、何十年後かに正人が旅立つときも、同じようにしてくれるはずだ。青は、今この世に生きている人間の誰よりも長く生きられるのだから。
けれどそれなら、青の手は誰が握ってやるのだろう。青が旅立つときに、誰かがちゃんと手を握って彼を笑顔にしてやってくれるだろうか。
本当ならその役は、正人がするべきだ。けれど、正人にはできない。青の旅立ちを見守れるほど、正人は長くは生きられないだろうから。
だからせめて……。
「おまえも、思い出してくれよ」
しっかりと手を握り直しながら、正人は言った。
「いつかずっと先、おまえが空に行くときに、俺の手の感触を思い出してくれ。一生忘れないように、今こうして握っててやるから」
必ず思い出せるように、絶対に忘れられないように、少しでも長い時間ぬくもりを分けてやっていたい。その日が来て彼の手を握る者が誰もいなくなったとしても、その感触が常にこの小さな手のひらにあるように。
負けないくらいの強さで、青がきゅっと手を握り返してきた。とても嬉しそうな笑顔が正人に向けられる。
「ありがとうね、正人。ねぇ、ぼくはとても恵まれているね」
夜空の星のように瞳をキラキラさせて、悲しい思いをいっぱいしてきた恋人は声を弾ませる。
「だってね、ぼくはしょっちゅうこうして正人に手を握ってもらっているから、いつでも嬉しい気持ちでいられるんだよ。いつだって笑顔だし、いつ旅立ってもいいくらい、とても安らかなんだ」
不安のさざなみが立っていた心が静かに凪いでいく。
まだずっと先のことだろうけれど、自分達にとって旅立ちはきっと悲しいものではない。そのときがいつ来たとしても、今のこのぬくもりを思い出し笑顔になれるのだから。
それは何ものにも代えがたい、尊い救いだ。
恵まれているのは自分の方だと言ったら、青はきっと言い返すだろう。その十倍も百倍も、ぼくの方が恵まれているよ、と。だからあえて口にせず、ただ想いをこめて指をからめた。
「おまえの手は、いつ握ってもあったかいな」
「うん、ぼくの手は冷たくならないんだよ。きっと正人の手を温められるように、そういう体にしてもらえたんだね」
照れたようにうふふと笑う人に心まで温められて、正人の口もとも安らかに微笑む。
空では二人を見守る星がキラキラと瞬いている。
☆ END ☆
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