春、むんずと腕を掴まれた。 　慶斗が木造アパートの部屋の前で怒った顔をして待っていた。 「……最近、バイト先に来なくなったな」 「う、うん。忙しくなってさ」 「連絡もしたんだぞ」 「ごめん、最近メール見てなくてさ」 　既読無視だ。 　向こうから借りていた本を返すと連絡がきたのはわかっていた。 「……これ、返す」 「うん、ありがとう」 　部屋に通すのことなく忘れていた本を受け取って、扉を閉めようとした。じゃあ……と玄関口で別れの挨拶を口にしたときだった。 「すきだ」 　そんな言葉が彼の口から漏れたような気がした。 「へ？」 「好きだ」 「……あっ」 　するりと前髪をかき上げられた。 　糸を引いたまっすぐな目とぽつぽつとしたそばかすがさらけ出される。 「——……かわいい」 　不意に柔らかな感触が唇に触れた。 「ん」 「好きだ」 　全身をつつむように、力強く抱きしめられた。 「……えっ。あ、あの」 「つき合って欲しい」 　分厚い胸板に顔を押しつけられる。もごもごと息するのもやっとで、俺はうれしくて、パニックで答えることができなかった。 　 　夏、おつき合いが始まった。 　一目惚れでスタートした交際は玉砕を迎えることなく順調だ。デートは水族館や動物園など健全なところが多い。たまに図書館で勉強もした。ケンカもせず、仲睦まじいカップル。順風満帆。 　そう思っていた。 　夏が深まった蒸し暑い夜だ。慶斗は司法試験を無事合格し、俺は教育実習を終えた。お祝いとしてごてごてに部屋を飾りつけて二人でカレーを作った。食べ終わったあと、慶斗は行儀よく正座していた。俺はお揃いの皿を重ねて口笛なんて吹いて片づけていた。 　ローテーブルを拭いてもらおうと駆け寄ったときだ。 　すっと顔を上げて、慶斗が口を開いた。 　番になりたい。 　そう言われた。急なこと過ぎて眼を丸くした。 　びっくりした。とにかく驚いた。 　オメガと伝えていないのにと言うと、そんなの一目見てわかっていたと声を尖らす。 　続けて、まだ早いんじゃないか？　と訊ねた。まだ卒業もしていない。他の奴に取られたくない。そう返された。 『一生、大事にする』 　大好きな人の真剣な眼差し。あまい響き。長い躯体を折り曲げて土下座された。俺は小さく頷いた。それからお互いの両親のところへ挨拶を済ませ、両家からあっさりと承諾をもらった。 　恋に多感なお年ごろ。 　まだ学生同士だ。 　でも、それでもいいと思った。 『ヒートになったら、すぐに駆けつける』 　息がつまるほど抱きしめられた。俺も、覚悟を決めた。