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第11話

保護棟はコンクリート造りの建物の中に、小部屋が三、四室並んでいるだけの質素な空間だった。天井からつり下がる裸電球が、殺風景な建物を冷たく照らし出している。 「中へ」 〝笑い犬〟が、小部屋の一つを指差した。入れ、という意味らしい。 私は従うふりをしながらも、目の端で周囲を素早く確認した。 「心配せずとも、〝王様〟はすぐ近くにいますよ──さぁ」 〝笑い犬〟が後ろから、ドンと私の肩を押した。背後でガチャンとドアが閉まる。私は振り返り、ドアを拳で叩いた。 「〝笑い犬〟! 〝王様〟はっ!? 〝王様〟はどこにいるんだっ!?」 はめ殺しの小さな覗き窓が開き、〝笑い犬〟の薄ら笑いが覗いた。 「昔とは、まるで正反対ですね。貴方が〝人形〟で、私がただの患者だった時とは。たった二ヶ月前なのに、遠い昔のようだ」 当時を思い出しているのか、〝笑い犬〟の声は懐かしさに満ちていた。 「その頃、貴方は〝先生〟の助手として類まれな手腕を発揮する一方で、変らず〝先生〟の研究対象だった。貴方は覚えていないかもしれないけど、最初の実験が失敗したあとも、〝先生〟は貴方への実験を細々と続けていたんです。僕は偶然にも、その一部始終を目撃してしまった。確かその時は『痛み』に関する実験だったかな。どんな痛みを感じれば、貴方の心が動くか、〝先生〟は診察室で色々と試していた。貴方のその腕の傷も、その時に出来たものです」 「え……これは自分でつけたものじゃ……」 自らの腕を見た。そこには深いものから浅いものまで、様々な傷痕が残っていた。 「えぇ。でも中には、〝先生〟がつけたものもあります。手当もきちんとされていたので、痕にはなっていないと思いますが」 〝笑い犬〟の恍惚としたため息が響く。 「あの時の貴方の顔は、苦痛で歪んでいた。それを見た瞬間、私は気づいたんです。自分はずっと、貴方のそんな顔が見たかったと。綺麗で何にも動じないあなたの顔が、歪み、痛みに耐える様を見たくて見たくてしょうがなかったのだと」 〝笑い犬〟の声は、徐々に引き攣り、高くなっていく。 「その時から、ずっと夢みてきた。自分の手で、貴方を汚し、苦痛でその顔を歪ませることを。あと少しだ。あと少しで、その願いが叶う。〝先生〟は約束してくれたんだ。明日、〝王様〟が電気治療にかけられている間は、貴方を好きにしていいと」 そう言って、〝笑い犬〟の顔が窓から消えた。神経に刺さる甲高い笑い声だけが響く。 「朝になったら迎えに来ます。楽しみにしていて下さい。それまでは、どうぞ〝王様〟と積もる話でも。まぁ、出来ればの話ですけど」 「出来ればって──」 後ろで微かな物音がした。 小部屋の中に照明は一つもなく、覗き窓からもれる光で、かろうじてものの形がわかるくらいだ。 私は目を凝らした。闇に慣れてきた目に、かろうじて人影のようなものがうつる。 それは奥の壁に凭れかかり、四肢をぐったりと投げ出していた。手には頑丈そうな手錠がかけられ、顔は項垂れていてよく見えない。 だが誰なのかは、すぐにわかった。 「〝王様〟っ……!?」 私はもつれる足で駆け寄った。 〝王様〟はぴくりとも動かなかった。虚ろな目はじっと床の一点を見ているだけで、一瞬ですらこちらに向けられることはなかった。あんなにも苛烈に燃えていたはずの意志の炎はごっそりと抜け落ち、まるで〝王様〟の姿をした抜け殻だけが横たわっているようだった。 私は後ろを振り向く。 「一体、〝王様〟に何をしたんだっ……!?」 「鎮静剤ですよ」 動揺した私がお気に召したらしく、ドア越しから口笛でも吹きそうなご機嫌な声が届いた。 「ここに来るなりまた暴れ出したので、いつもより強めのものを打ったんです。たぶん朝までこの状態でしょうね」 この時になって、私はようやく気づいた。 〝先生〟は〝王様〟がこうゆう状態だからこそ、一緒にいることを許したのだろう。話など出来ないことをわかっているから。 これが 〝先生〟のやり口なのだ。 全てを許し、与えているようで、本当は何もかも禁じている。餌のように希望を与えては、寸前でそれを取り上げる。 それが一番人間を絶望させると、あの人は知り尽くしているのだ。 (……もしかしたら、ここで一番に歪んでいるのは〝先生〟なのかもしれない) グッと唇を噛みしめていると、主人に媚びを売る犬のように〝笑い犬〟が声をかけてきた。 「良かったですね。最後に〝王様〟と一緒にいられて。いい予行練習になるんじゃないですか? 明日から、〝王様〟は永遠にこの状態になる。それを看るのは主治医の貴方なんですから、今のうちに慣れておいた方が楽ですよ」 怒りが、腹の底から湧いてきた。マグマのごとくグツグツと煮えたぎり、喉、胸、腹を熱くする。 「悪趣味だっ……! 〝先生〟だけじゃない、ここの連中は、みんなおかしい……! みんな、狂ってるっ!」 〝笑い犬〟が、はんっと鼻で笑う。 「何を言っているんですか? 貴方だって、そのうちの一人なんですよ。もしかして、自分だけはまともだと思っていたんですか? そんなはずないでしょう? 〝人形〟だった頃の貴方の実験によって、一体どれだけの人間が狂気に陥れさせられたと思います? 貴方と関わるとみんな狂ってしまう。〝王様〟だってそうだ。それなのに貴方は、自ら創り出した狂人たちに囲まれながら、まったく平然とした顔をしていた。それこそ無垢な人形そのものかのように。そんな貴方こそ、本当は一番狂っているんじゃないですか?」 「……ッ」 煮えたぎっていたマグマが急激に冷やされ、黒く重たい罪の意識がずんと腹に沈む。 「……そう、だとしても……今は違う。今の私には、ちゃんと感情がある!」 「えぇ、そうですね。貴方は前の〝人形〟とは少し違う。でも、それも明日にはなくなる儚いものです。明日には貴方は以前と同じ冷酷な〝人形〟に戻る。だからせいぜい今だけは、甘い感傷に浸っていて下さい。では、私はこれで。明日の準備が色々とあるので」 くすりと笑って、〝笑い犬〟は保護棟から出ていった。遠くで、金属製の扉が無情に閉まる音がする。 「……ッ」 ドンと横の壁を拳で叩く。鈍い痛みとともに無力感が、身体を駆け上がってくる。 (私は馬鹿だっ……! もっと慎重に動いていれば、こんなことにはならなかったはずなのにっ……!) このままでは〝王様〟が電気治療にかけられてしまう。 焦る気持ちから、早まって行動してしまった。〝笑い犬〟の動向さえもっとよく見ていれば、こんな事態は避けられたかもしれないのに。 しかし、今更後悔しても遅い。 今、自分がやるべきなのは──。 期待と不安とが入り交じった気持ちで、振り返る。〝王様〟は、先ほどとまったく同じ姿勢で座っていた。 ズクリと胸が痛む。 何も写していない空虚な黒い瞳が悲しかった。 狂気と激情にかられた時。寂しく優しげな時。どんな時でも、〝王様〟はいつもこの瞳で真っ直ぐに私を見てくれていた。真っ直ぐに感情をぶつけてくれた。 この何もかもが歪んだ場所で、〝王様〟だけが唯一、真っ直ぐだった。 だからこそ、私は彼に引きつけられたのだ。 たぶん、初めて会った時からずっと。 いや、それよりもずっと前、自分が〝人形〟だった頃から。 「……ッ」 膝から力が抜け、がくりと崩れ落ちてしまう。微動だにしない〝王様〟を絶望的な思いで見つめる。 本当に、明日から彼はずっとこの状態になってしまうのだろうか。 (そんなの嫌だっ……!) 全身が震えた。気がついたら〝王様〟の前に膝をつき、その肩を揺さぶっていた。 「……〝王様〟、私だ。お願いだから、気が付いてくれ!」 だが何度呼びかけても、相手の視線が上がることはなかった。 呼びかける自分の声だけが、分厚い壁に反射してむなしく跳ね返ってくる。 部屋の中は闇と闇と闇しかなかった。 唐突に、私は思い知らされる。 今まで〝王様〟はどんな気持ちで、この中で過ごしてきたのだろう。 一人、闇と向き合い、自ら発した声と向き合い、自分自身と向き合わなくてはいけない。徐々に狂っていく自分と。 そんなの、普通の人間なら耐えられない。 でも〝王様〟はずっと、何度も耐えてきた。 他の誰でもない、私のために。 「〝王様〟っ! 私だっ! お願いだから、目を覚ましてくれっ!」 私は〝王様〟の肩口に顔を埋め、乞うように叫んだ。 その時、ぴくりと〝王様〟の身体が動いた。 「……〝王様〟っ!?」 だが、喜んだのも束の間、 「う……うがぁぁぁぁあああっ……!」 〝王様〟は突然、咆哮を上げ始めた。狂ったように両手で頭を掻きむしり始める。 「〝王様〟っ!? どうし──うッ!」 止めようと伸ばした腕を、思い切り撥ね除けられる。あまりの力の強さに、私はその場で尻餅をついてしまった。獣のように歯で鎖を引きちぎろうとする〝王様〟を呆然と見つめる。 ──発作だ。 今まで何度も見てきたからわかる。 (……でもなぜ?) 〝笑い犬〟は、鎮静剤は朝まで保つと言っていたはずだ。 「がぁぁぁっ……!」 中々外れない拘束具に焦れたのか、〝王様〟は手枷を壁にぶつけ始めた。肉が嬲られる生々しい音が狭い部屋の中に籠もる。 「駄目だ、〝王様〟っ……!」 相手の腕にしがみつくが、再び薙ぎ払われてしまう。壁に背を強打し、一瞬、意識が飛ぶ。それでも、手を伸ばすことは止めなかった。 「〝王、様〟……」 「うがああぁぁっ……!」 〝王様〟は立て膝をつき、天井を仰いだ。一筋の涙が、その目から伝い落ちる。 どくり。衝動が、私の身体の中を駆け抜けた。 ──助けたい、この人を。 昔、〝人形〟は〝王様〟を救った。何もかも歪んだここで、〝人形〟だけが〝王様〟の救いだった。 ならば自分も、〝王様〟を救えるかもしれない。この寂しくも優しい目をした男を。 (いや、助けるんだ。絶対に) 「〝王様〟っ……!」 ふらつく身体をぐっと起こし、駆け寄る。警戒した〝王様〟が、拳を繰り出してきた。 「……ッ!」 拳が、腹にもろに入る。衝撃で意識を失いそうになったが、かろうじて堪える。 何度、殴られようと、何度、意識がなくなろうと構わない。 私は拳が上げられるよりも速く、相手の身体を思い切り抱き締めた。 「お願いだっ、戻ってきてくれっ……! !」 力の限りに叫んだ。彼の名を。 〝王様〟ではない、彼の本当の名を。 「…………」 どのくらい経っただろう。気がついたら〝王様〟の手が宙で止まっていた。しだいにそれはゆっくりと下り、やがてだらりと身体の両側に垂れ下がる。 「〝王様〟……?」 私はゆっくりと体を離し、〝王様〟の顔をのぞき込んだ。すると、焦点が合っていなかった〝王様〟の黒い瞳に、朧気だが光が徐々に戻ってくる。 「お前……どうして、こんなところに……?」 永遠とも思える時間が過ぎた頃、〝王様〟がゆるゆると顔を上げた。信じられないものを見るように、私を見つめる。その声はかさついていたが、意外としっかりしたものだった。 私は安堵の息を吐いた。すると、〝王様〟はますます眉を寄せる。 「一体、どうゆうことなんだ? なぜ俺の名を……?」 「カルテで見たんだ。ま、そのおかげで、ここに来る破目にもなってしまったけど」 茶化して言うと、〝王様〟の声が怒りで跳ね上がった。 「何で、そんな──」 続く言葉を、私は手で遮り、真っ直ぐに〝王様〟を見つめた。 「知りたかったから。自分のこと。それに貴方のことも」 「俺のこと……? どうして、俺のことを?」 「それが、自分を知る一番の手がかりだと思ったから」 しばらくポカンとしていた〝王様〟だったが、突然、ぎくりと身体を引き攣らせ、壁側に後ずさった。 「それ以上、俺に近づくな」 「〝王様〟? 急にどうし──」 「またいつ発作が起こるかわからない。そしたらさっきみたいに、お前のことを──」 〝王様〟は私の腕にできた青あざや汚れた上着を見て、顔を伏せた。「すまない」と呟き、自らを抑え込むように、ぎゅっと身体を縮込ませた。 私が一歩近づくと、〝王様〟はビクリと顔を上げた。その瞳は、痛みと恐怖で縁取られていた。きゅっと心臓が狭くなり、私は〝王様〟の前に膝をつき、自らの膝の上におかれた彼の手に自分の手を重ねた。 「嫌だ。側にいる。貴方がどんな状態であろうと」 ひゅっと息を呑む声が聞こえる。 「何、言って……お前、この現状がわかっているのか? 今のお前は猛獣と一緒の檻に入れられたようなものなんだぞ。──くそっ、〝先生〟だな。こんなことするのは奴しかいない」 〝王様〟は拳を額につけた。苛立っているというより、焦っているという感じだ。 「最悪の状況だ。お前は記憶を取り戻していないし……」 「どうしても記憶を取り戻さなくちゃ、駄目なのか?」 「何度言ったらわかるんだ。〝先生〟は、人の心につけこむのがうまい。記憶がなければ、すぐに奴の口車にのせられ、自滅する」 「──それなら、大丈夫だ」 私は重ねた手に力を込め、大きく頷いてみせた。 「私は、記憶よりも大事なものを見つけた。それがありさえすれば、もう自分を見失うことはない」 「記憶よりも大事なもの……?」 「あぁ、私は貴方のそばにいたい。その想いだ」 「!?」 〝王様〟が正気を疑うかのように、まじまじと見返してくる。 「お前、何で、そんなっ……」 〝王様〟は何かを言おうとして、口を噤んだ。 長い長い沈黙がおりる。耐えきれなくなった私は〝王様〟の手首にかけられたままの手錠をギュッと握った。 「お願いだ……一緒にいさせてくれ。私は貴方のそばにいたいんだっ……」 独房の中に、不様に懇願する自分の声が反響する。 「お前は、何でそう……」 〝王様〟はぶるりと身体を震わせると、嗚咽にも似た声を出した。手錠に置いた手に、節くれ立った大きな手が重なる。 「俺は、お前にずっと会いたかった……昨日壁越しに話したのが最後だと、何度も自分に言い聞かせていた……でも、ここにいる間も、ずっとお前に会いたくて……」 もう片方の〝王様〟の手が、私の頬にかかる。 「ここでお前の姿を見た時、幻覚かと思った。とうとう俺の頭は、おかしくなってしまったんだと。でも、本物なんだよな……? お前はここにいるんだよな?」 〝王様〟は確かめるように、ゆっくりと私の輪郭を撫でた。私もその手に自分の手を重ね、今できる精一杯の笑顔で頷く。 「うん。本物だよ。私はここにいる」 「そうか……」 〝王様〟は、泣き出す寸前のような笑顔をした。私の腕を引くと、強く抱き締めてくる。 「良かった……また会えた……」 かすれた声が、耳をくすぐる。 私は返事をする代わりに、〝王様〟の背中に腕を回した。傷つけないようにそっと、でもできうる限りの力で相手を抱きしめ返す。 ○●----------------------------------------------------●○ 3/18(金) 本日、『白い檻』のPV増加数の方が 3ビュー分多かったので、こちらを更新させていただきます。 動画を見てくださった方、ありがとうございます! 〈現在レース更新中〉 ↓↓以下の作品の動画のPV増加数に応じて、 その日更新する作品を決めさせていただいていますm ◆『マイ・フェア・マスター』(SM主従BL) https://youtu.be/L_ejA7vBPxc ◆『白い檻』(閉鎖病棟BL) https://youtu.be/Kvxqco7GcPQ ○●----------------------------------------------------●○

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