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第12話

しばらくの間、私たちは無言で抱き締め合っていた。そうしていると、まるで世界には二人しかいないような錯覚を覚えた。先ほどまで冷たく拒絶していた檻は、今や私たちの世界を守る唯一の城となった。 ひどく満たされた気分だった。〝王様〟もそう感じているのか、ふうっと長いため息をつく。 「……なんか思い出す。前もこうして、お前が抱きしめてくれていた。その時だけ、俺は正気になれたんだ」 「それは……私が〝人形〟の時?」 「あぁ」 私は身体を少し離し、半信半疑で尋ねた。 「なんか信じられない。貴方が言う〝人形〟は、他の人が言う〝人形〟と全然違う。他の人はみんな、〝人形〟は冷酷無比な奴だったって……まさか別人ってことは……?」 「まさか」 〝王様〟が喉を震わせて笑う。私は迷ったすえ、思い切って切り出した。 「……話してくれないか? 貴方と〝人形〟のこと」 〝王様〟はしばらく考え、頷いた。 「あぁ。今のお前になら、話してもいいだろう」 〝王様〟は私の肩を抱くと、壁に寄りかかった。私は〝王様〟の肩にもたれかかり、彼の深い香りとトクトクと規則正しく鳴る心音に身を預けた。 「警察での精神鑑定のすえ、ここに収容されることになった俺は、主治医と名乗る一人の男に出会った。それがお前だ。あの時のことは、今でも鮮明に覚えている。お前は染み一つないシャツに、真っ白な白衣を羽織っていた。俺は初め、なんて綺麗な男だと思った。こんなこと言うと笑われるかもしれないけど、小さい頃、家に飾ってあった絵に出てくる神の御使いみたいに見えたんだ。もしかしてお前なら、俺のこのやっかいな病も治せるんじゃないかと期待すらした」 くすりと、〝王様〟の口端から笑みがもれる。 「でも違った。お前は何て言うか……最悪だったな。まるでモルモットを見るような目でしか、患者たちを見ていなかった。俺にもわざと神経を煽るような薬を出しては、発作を抑えようともがくところを、冷静にカルテに書いていた。お前に比べたら、たまに診察してくれる〝先生〟の方が、逆に天使に見えたくらいだ」 そこで〝王様〟は一つ息を吐き、声を潜めた。 「でもある時、俺は見てしまったんだ。お前の……その腕の傷を」 私の腕に刻まれた古い傷跡を見て、〝王様〟は痛ましそうに眉を寄せた。 「診察の時、俺は聞いたんだ。その傷はどうしたんだって。自分からお前に話しかけたのは、その時が初めてだった。正直、お前はこちらから話しかけたいと思うような人間じゃなかったし、周りの患者も、みんなお前を恐れていた。でもその時の俺は、薬で煽られた自分の狂気と必死に戦っていて、何でもいいから気を紛らわせるものが欲しかった。だからつい、話しかけてしまったんだ。意外にもお前は答えた。『自分でつけたものだ』と。しれっとした顔をして」 「自分でつけた……? でもこれは 〝先生〟が……」 「あぁ。でも大半は、お前自らがつけたものだ。カルテを見たのなら、知っているだろう? お前が 〝先生〟の実験対象であったことを」 こくりと頷いた私を見て、〝王様〟はさらに厳しい顔をした。 「俺がここに来た頃、〝先生〟は、『痛み』の実験をしていた。どんな痛みを感じた時に、お前が心を乱すかを調べていたんだ。その実験を手伝うため、お前は自らを傷つけ、そのデータをとっていた。それこそ、他の患者たちに対するのと同じくらいの冷静さと残酷さで。その時、俺は気がついたんだ。お前も俺たちと同じ、〝先生〟のモルモットの一人でしかないんだって」 〝王様〟の指が、ゆっくりと慎重に私の古傷を撫でる。 「俺は、思わず聞いてしまった。『痛くはないのか』って。そしたら、お前は答えた」 「──『痛い。痛みは感じる。けれど、それだけだ』」 「思い出したのかっ……!?」 〝王様〟は驚き、身を乗り出してきた。私はふるふると首を振る。 「いや……ただ今までの話を聞いて、何となく想像しただけだ。〝人形〟なら、こう答えるだろうって」 「そうか……」 〝王様〟は、落胆したように肩を下げた。素直なその仕草に、くすりと笑いがこみ上げてくる。 愛おしい。もしそんな気持ちを感じることがあれば、きっとこれに似ているだろう。 「……で? そのあと〝王様〟は何て答えたんだ?」 「俺か? 確か──」 『そんなはずはない。痛いのは哀しいことだ』 〝王様〟の低く心地よい声が、独房の中に響き渡る。 目を閉じると、その時の〝人形〟と〝王様〟の表情までもがありありと浮かんでくるようだった。 〝王様〟は、きっと哀しそうな、苦しそうな顔をしていただろう。そして、それを見た〝人形〟は──。 「それが、お前と俺の初めての会話だったな」 〝王様〟は、ぼそりと懐かしそうに言った。 「その後、俺は度々、お前に話しかけるようになった。それもしつこいくらいに。たぶん俺は、不安だったんだろう。一人になると、色々と考えてしまって。いつまでこんなところにいなくてはならないのか、いつまで自分の正気は保つのか。考え出したら切りがなくて……だから毎日顔を合わせて、唯一間近で接することが出来たお前にすがりついたんだ。そう、始めはお前を利用していた。自分の正気を保つために。だけどお前は、そんな俺を拒絶するでもなく、受け入れるでもなく淡々と接していた。俺のバカみたいな質問にも、いちいち律儀に答えて。そうしているうちに、俺はお前のことを冷たい奴だとは思わなくなっていた。お前は恐ろしいほど頭が切れるくせに、変なところが抜けてたり、妙に素直なところがあったりと、まるで子供みたいだった。俺は、もっとお前のことが知りたくなった。お前に心を開いて欲しくなった」 〝王様〟が、私の胸元に手を添わせた。 「〝先生〟は、お前に心がないと言う。けど、それは嘘だ。お前にも、ちゃんと感情はある。だいぶ鈍くてわかりにくいが、俺はお前と接しているうちに、たまにその片鱗に触れたと思うことがあった。あれは、俺が発作を起こした時だ。お前は今みたいに、俺を抱き締めてくれた。俺を押さえるために仕方なくやったことかもしれない。でも、俺はそれでひどく満たされた気持ちになったんだ。冷たい〝人形〟であるはずのお前の腕は、とても温かかった。その温もりのおかげで、俺は正気に戻ることが出来たんだ。それからだ。俺が正気を失いかける度、お前がそっと抱き締めてくれるようになったのは。……まぁ、それもお前の実験の一端だったのかもしれないが」 「それは違うっ……!」 気がついたら、叫んでいた。相手のはだけたシャツを掴み、グッと顔を近づける。 「〝人形〟は貴方に感情を教えてもらったんだ! 『痛いのは哀しい』という貴方の顔を見て、発作に苦しみながらも正気を失わない貴方の顔を見て、初めて感情というものがどんなものかわかったんだ。ここでは、誰もそんなこと教えてくれなかった。何もかも歪んだこの病院の中で、貴方だけがいつも真っ直ぐな感情をぶつけてくれた。だから──」 震えそうになる喉を、グッと締めた。身体の奥から何かが激流のように溢れ出てくる。熱くて激しくて、切ない波が強ばっていた頭や胸、指先から足先、果ては細胞の一つひとつにまで流れ込む。 (あぁ、これが感情というものなのか) 私は顔を上げ、真っ直ぐに〝王様〟を見つめた。 「〝人形〟は貴方に惹かれていた。どうしようもなく。記憶がなくたってわかる。だって私も同じ気持ちだから。〝人形〟は貴方が好きだったんだ。そして私も──」 胸に手をあて、大きく息を吸う。次に目を開けた時、声はもう震えてはいなかった。 「好きだ。貴方のことが」 「!?」 〝王様〟の目が驚愕に見開く。彼はしばらくの間、まじまじと私のことを見ていたかと思うと、突然、その顔が泣き出す寸前のように歪む。 「……お願いだっ! お前だけでも逃げてくれ!」 まるで、血でも流れているかのような痛ましい声音だった。〝王様〟は私の肩を掴むと、思い切り抱き締めてきた。 「もう嫌なんだ。お前を失うのは。一度、二人で逃げようとしたことがあった。俺が『外』のことをお前に教えてしまったせいで。でも結局、失敗した。俺たちは〝先生〟に捕まり、離ればなれにされた。そのすぐあとだ。お前が自殺したと聞かされたのは」 ブルリと〝王様〟の身体が大きく震える。 「それを聞いた時、俺が、どんな気持ちになったかわかるか? 未遂に終ったと聞いて、どんな気持ちになったかわかるか?」 責めたてるように、私の肩にかかる〝王様〟の手の力が強くなった。 「愛している。お前を、愛している。お前だけが俺の希望だ。だからお前が、ここを出て幸せになってくれるのなら、俺はもう何もいらない。自分の記憶も、正気も、何もかも。たとえ、お前が俺の腕の中にいなくとも構わない。それくらい愛している。お前を。だから──」 伏せられた〝王様〟の顔が上がる。その瞳は、これまで以上に赤々とした意志の炎に縁取られていた。 「逃げてくれっ……! お願いだから……!」 痛切な声が、独房に響く。私はしばらくの間、圧倒され動けないでいた。やっと出た声も、からからに掠れ、言葉になるまでに時間がかかった。 「……なら、一緒に逃げよう。今度こそ、うまく──」 「駄目だ。俺は、もう手遅れだ。発作の頻度がだんだん増えてきている。今では正気でいられる時間の方が短い。ここにいたって『外』に出たって、それは変わらない。一緒に逃げたとしても、足手まといになるだけだ。俺は自分のせいで、お前が〝先生〟に捕まるなんて嫌だ。だから、一人で逃げてくれ。明日の朝、何とか隙をつくって、ここから出してやるから」 「そんなの──」 嫌だった。〝王様〟を置いて、自分だけ逃げるなんて。 「なら、私もここに残る」 ギュッと相手の胸元を掴むと、〝王様〟は即座に首を振った。 「それでどうするんだ? 二人仲良く、記憶を無くすか?」 揶揄するような物言いに、カッと顔が赤くなる。 「たとえ記憶を失ったとしても、思い出す! 私は何度だって思い出して〝王様〟を見つけ出す。今回みたいにっ……」 「無駄だ。俺は明日、電気治療にかけられる。そうしたらもう、お前の知っている俺じゃなくなる。そんな俺を見ても、お前は何も思い出さないだろう」 「そんなことないっ……! 絶対に思い出してみせるっ……!」 駄々をこねる子どもみたいに声を荒げる。 だが、本当はわかっていた。 廃人のようになった〝王様〟を見ても、きっと私は何も感じないだろう。記憶を無くしてなお、再び〝王様〟に惹かれたのは、彼の目に宿る激しいまでの意志の炎があったからだ。 もしそれがなくなってしまえば……。 「きっとあるはずだ。何か、きっと方法が──」 私は独房の中にそのヒントが隠されているかのように視線を巡らせた。本当は〝王様〟の目を見るのが怖かったのだ。最後通牒を突きつけられるのが。 「ない」 〝王様〟がきっぱりと言った。私は反論しようと口を開いたが、何も言葉が出てこなかった。 今まで〝王様〟はどんな目に合おうとも、自分の意志を貫いてきた。そんな強烈な意志の固まりである彼に何を言っても無駄だ。 彼はたぶん正しい。私たちは、もう離れるしかないのだ。それしか選択肢は残されていない。 (本当に……? 本当にそれしかないのか……) 様々な考えが頭を過ぎっては、泡沫のように儚く消えていく。 今やすべての扉は閉じられ、すべての光は消え失せた。 絶望が、私の体を黒く塗りつぶしていく。 だけれど、諦めることだけはしたくなかった。もしほんの少しでも希望は残されているのなら……。 「もう、いいんだ。いいんだよ」 私の心を読んだかのように〝王様〟が私を抱き締め、ポンポンと背中を叩いてきた。 「もういいんだ。それよりも、今はこうしていてくれないか。今夜だけ──最後の夜だけは正気でいたいんだ」 それは、冷たい壁に溶け込んでしまいそうなほど、か細い声だった。 どうして、今まで気がつかなかったんだろう。 〝王様〟は怖いのだ。明日、自分が自分でなくなってしまうことが。 当たり前だ。それが怖くない人間など、どこにもいない。 「〝王様〟……」 私は考えるのを止め、相手を抱き締め返した。 〝王様〟は、ここにいる。今は、そのことだけを考えよう。 「大丈夫。そばにいる。こうしているから」 抱き締めた〝王様〟の身体は、とても小さく感じた。私は精一杯の笑顔を作ると、相手の顔を覗き込む。 「他にない? 私にして欲しいこと。何だってする。だって貴方をここに連れてきて、こんな目に合わせたのは私なんだからっ……!」 たった一言を言うのが、血を吐くより辛かった。しかし、黙ったままではいられない。それは〝王様〟への大きな裏切りだ。 「……知っていたさ」 〝王様〟は、静かな声で頷いた。 「〝人形〟の時、お前から話してくれた。その時も、俺はお前を憎いとか恨めしいとか思わなかった。お前だって 〝先生〟の言いつけに従ってやっただけだ」 「でも、私がやったことに変りはない。他人に言われてやっただけなんて言い訳にもならない。私が他の患者たちにしたことも償いきれるものじゃない。今だからわかる。そうされた者の痛みが、苦しみが……〝王様〟だって、私がいなければ、今みたいに不安定な状態にはならなかったはずだっ……!」 苦いものが喉からあふれ出てきて、嗚咽を押し殺すのに精一杯だった。 「償いなんかいらない」 震える私の背中を、〝王様〟が宥めるように、受け入れるようにそっと撫でる。 「誰が何をしなくても、俺はこうなるしかなかった。幼い頃から、怒りや衝動、激しい感情がコントロール出来なかった。そのせいで家族からも疎まれた。ここに来る前だって、今とそう大差ない。そんな俺が、初めて手に入れた平穏がお前だ。だからお前が、そんなことを感じる必要ない。謝らなくてはいけないのは俺の方だ。あんな酷いことをして……」 〝王様〟の視線が、いまだ赤く線の残る私の腕の傷に注がれた。あの夜、バラの棘でできた傷だ。 「ごめん……まだ痛いよな」 「いや、痛くない」 私は相手の肩に額をつけ、大きく息を吸い込む。 「さっきも言っただろう。私は、〝王様〟になら何されたって構わないんだ」 「……お前、あんまりそういうことは言わない方が……」 居心地が悪そうに身じろぎをした〝王様〟を、私は見上げた。 「なぜ?」 「なぜって……」 困ったように視線を逸らした〝王様〟の顔を、両手で包み込む。 「でも、これは本心なんだ。貴方は、私のために色々してくれた。私だって貴方のために何かしたい。でも私は感情というものがよくわからないから、人が何を望んでいるのかもよくわからない。だから言って欲しいんだ。何か、私に出来ることはない?」 私の声音の真剣さに気づいたのか、〝王様〟も同じ温度で見返してくる。 「……本当にいいのか?」 「うん、いいよ。言って欲しいんだ」 「なら……」 〝王様〟はグッと私の腰を引き寄せ、私の首筋に顔を埋める。 「お前を抱きたい。前みたいに激情にかられて無理矢理じゃなく、ちゃんと正気な時に抱きたい。……これが最後ならば」 最後という言葉に、胸が引き裂かれるみたいに痛んだ。だが私はそれを笑顔の下に隠して、相手を抱き締め返す。 「私も欲しい。〝王様〟の心も、身体も」 「おい、そんな台詞、一体どこで覚えてきたんだ」 拗ねる子どものような口調に、私は相手の首筋の中でくすくすと笑った。 「覚えた訳じゃない。誰からも教わっていないし、誰の真似もしていない。自然に出てきたんだ。ここから」 私は自分の胸を押さえた。掌の下で、とくとくと心臓が鳴っている。痛いほど激しく、だがこれ以上ないほどしっかりと生を刻みこみながら。 〝先生〟の言う通り、確かにここは全身に血液を送るためのポンプだ。だが同時に、この鼓動は私の〝王様〟への想いを的確に代弁していた。 「本当にいいんだな?」 〝王様〟の熱を含んだかすれ声に、私の身体がぶるりと震える。今度は恐怖じゃない。むしろその反対──歓喜だ。 「あぁ」 私は〝王様〟の身体をしっかりと抱き締め、相手の唇に唇を重ねた。 ──朝だ。 ドアの隙間から漂ってくるバラの香りで、私は身体を起した。 隣では、〝王様〟が眠っている。今までの張り詰めていた神経の糸が一気に緩んだように深く眠っており、微動だにしない。 その姿を見ていたら、こみ上げてくるものがあった。 ──本当に、これが最後なのか? 昨日の夜から繰り返している問いを、また何度も問い返す。 日が完全に昇ったら、私たちはお互いのことを忘れ、もう二度と、本当の意味で会うことは出来なくなってしまうのだろうか。 「うっ……」 涙が一筋、零れ落ちた。気がついたら、次から次へと流れてくる。 どうしたら止められるのか、わからなかった。 泣くなど初めてのことだったから。 愛しさ。哀しみ。切なさ。絶望。祈り。 あらゆる想いが混じり合い、涙とともにせり上がってくる。 けれど、この感情を教えてくれた人は、もういなくなってしまうのだ。 「……ッ」 嗚咽を押し殺していると、覗き窓の向こう側で何かが動いた。 もう迎えがきたのか。咄嗟に〝王様〟の体を抱き締める。息を殺して窺っていると、扉が音もなく開いた。 ○●----------------------------------------------------●○ 3/20(日) 本日、『白い檻』のPV増加数の方が 1ビュー分多かったので、こちらを更新させていただきます。 動画を見てくださった方、ありがとうございます! 〈現在レース更新中〉 ↓↓以下の作品の動画のPV増加数に応じて、 その日更新する作品を決めさせていただいていますm ◆『マイ・フェア・マスター』(SM主従BL) https://youtu.be/L_ejA7vBPxc ◆『白い檻』(閉鎖病棟BL) https://youtu.be/Kvxqco7GcPQ ○●----------------------------------------------------●○

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