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第6話

「失礼いたします。殿下、あちらにいらっしゃるご令嬢が、先日のお礼を申し上げたいと」 「先日の礼?」  方便なのはアロンソの目にも明らかだろうけれど、トリスタンはガレオに先導されて離れていった。 「作法を一から学び直す必要があるようです」  学び直すというより、一から学ばねばならない。第二王子といってもいつかは爵位に就くのだ。あのままでは存在自体が王家の恥になる。  王家の恥晒しは現国王、王妃の代で終わってもらわねばならない。自分への課題としても、改めて肝に銘じるユベールに、アロンソは問題ないと微笑する。 「多感な年ごろというのは、誰でもあるものです」  若気の至りのせいにして、この場を収めてくれた。アロンソの厚意に甘え、ユベールは微笑みを返してから、視線を舞踏の輪に戻した。  しばらくして宴は終わり、アロンソはおおむね満足した様子で部屋に入っていき、ソフィアも、大好きな踊りで心地よく疲れた様子で自室に戻っていった。ユベールも、入浴の準備が整っているだろう自室へ戻ろうとしたとき、王家の部屋のあいだを貫く廊下で、背後からデボラに呼び止められた。 「トリスタンとアロンソ殿下の会話を邪魔していましたね」  振り返ると、分厚い白粉が塗られた、強欲な性質が表れているとしか言いようのない吊り目顔が不満を露わにしていた。 「トリスタンがアロンソ殿下に無礼を申したので、私が殿下にお詫びしたまでです」 「失礼など申すわけがありません」  言いがかりを否定されて青筋を立てるデボラに、呆れるしかなかった。 「我が異母弟は女王陛下とよく似た話し方をします」  貴族と呼べるのかも怪しい出自のデボラは、王家には似つかわしくない話し方をする。今の嫌味は話し方ではなく人と話す姿勢のことだが、話し方だって女王という立場にいるからには正す努力をするべきだった。痛いところを突かれた自覚はあるのか、デボラは吊り目をさらに吊り上げて下品な足音を立てて部屋へと入っていく。その途中で、極端に幅の広いドレスの裾をユベールにぶつけることを忘れないのがまた、意地汚さを誇張している。だが、父王イネアスが容認してしまっている以上、ユベールにはどうしようもない。  どこまでも気分の悪い存在だ。そして、正そうとしない、むしろ加担している父親を嘆かなければならない惨状が悲しい。  ユベールだって、父を誇りに思いたいし、デボラのことだって悪く思いたいわけではない。ただ、好意的に見る努力もできないほど、惨憺たる内情なのだ。  胸の中に嫌な痛みを感じながらも、ユベールは明日に備えるため急いで自室に戻った。  庭園の中央大階段を下りてすぐ、噴水の前でアロンソと手合わせの待ち合わせをしていたユベールは、時間より早く到着するつもりで部屋を出たが、大階段を下りる前にアロンソと鉢合わせてしまった。ユベールの姿を捉えた瞬間に、アロンソは深く頭を下げ、ユベールが目の前まで来るのを待った。  どこまでも謹厚な王子だ。この清高さを、ほんのすこしでもいいからトリスタンに分けてもらえればいいのに。しようのないことを一瞬、考えてしまったのを隠し、笑顔で応える。 「殿下をお待ちするつもりで部屋を出たのですが」  客人なのにユベールを待つつもりでいたアロンソの几帳面さと、その上をいけなかった自分を揶揄してみれば、冗談のつもりだったのに真面目な答えが返ってくる。 「王太子殿下をお待たせするわけにはいきません」  姿勢正しく立つアロンソに歩き出すのを待たれてしまい、ユベールは笑顔を保ったまま階段へつま先を向けた。  並んで階段を下りていると、すれ違う女性たちがお辞儀をしてからアロンソに熱い視線を送るのを感じた。一団が到着するまでは、エスパニル王国がどれほど友好的なのか懐疑的だった王宮の住人も、アロンソの折り目正しい姿勢に好感を覚えずにはいられないのだろう。それに、アルファ性の存在感はやはり特別で、男女問わずどうしても視線が向いてしまう。年ごろの女性たちの視線はもうすこし露骨で、エスパニル王国の莫大な資産がついてくる美男に見初められたいという欲求が滲み出ている。 「婦人たちはすっかりアロンソ殿下に夢中のようです」  アロンソが気づかないはずもないので、あえて言ってみれば、苦笑が返ってくる。 「無礼のないよう気を張るので精一杯ですよ」  本当に社交の場が苦手だったようで、女性たちが熱い視線を送るのは無理をした自分だとアロンソは言った。確かに女性と二人きりになっても、会話は弾まなさそうだし、昨日の散歩も今も、ユベールが話しかけないと会話が成り立たない。親睦を深めるのに手合わせを選んだのは正解だったようだ。 「私も宴より剣を交えるほうが楽しいと思います」  笑顔で賛同すれば、ほっと安堵の微笑が返ってきた。  階段を下りて、噴水の横手で向かい合うと、アロンソは上着を脱いだ。  上着の下は、フロレンス王国では随分前に主流でなくなった、腰丈の短い胴着だった。野暮ったく見えてもおかしくないのに、立派な体型に沿って仕立てられているおかげか上着を着ているときよりも逞しく見える。  羨ましいほどの体格だ。と心の中で呟いてから、ユベールはガレオに持ってこさせていた手合わせ用の剣を一振り、アロンソに渡す。 「同盟締結の喜ばしい日ですから、今日の手合わせはこの装飾剣でよろしいでしょうか。刃は研がれていませんが、基本の剣とそう変わらないものです」  用意していたのは、鋭くないだけで長さも重さもフロレンス式の標準的な剣だ。当たれば痛いし青あざもできるが、切り傷だけは避けられる。説明しなくともアロンソは了解した様子で剣を受け取り、さっそく鞘から抜いて刃を確かめている。 「ほどよい重さですね」 「殿下が普段お使いの剣は、もっと重いのですか」 「剣士の基本は私が提げてきた、もうすこし幅広の長剣と、細い短剣です。日々の訓練は短剣から鎌形剣、両刃の長剣まで一通り。火薬がどれほど進歩しても、戦いにおいて最後まで身を守るのは剣だと考えています」  実戦を想定して鍛えているのだろう。もし戦場に立ったなら、安全な場所から指示を出すだけではなく、戦士の一人として戦う覚悟があるということか。 「手強い剣士に手合わせを申し込んでしまったようですね」  冗談交じりに言えば、アロンソはとんでもないと言って微笑した。  適度な距離をとって向かいあい、いざ刃の先を交えると、アロンソの琥珀色の瞳に全身を捉えられるのを感じた。動きの一つ一つを見逃さない真剣な眼差しは、ユベールの癖をすぐさま見破ってしまう。  どれほど攻めに踏み込んでもかわされ、それも、手心を加えていると感じさせない配慮までされている。まったく歯が立っていないわけではないけれど、一日中挑んでも隙をつける気がしない。  軽く汗をかくまで剣を交えて、さすがに腕が疲れてユベールのほうから降参した。 「聞きしに勝る腕前ですね。私では歯が立ちません」 「殿下はまだお若いだけです」  経験値の差と言って気遣いを見せるアロンソは、まだまだ剣を握り足りないようだった。 「ここにいるガレオは、実は腕のいい剣士なのですよ」  予定どおり剣術の腕を紹介すると、ガレオは遠慮がちにアロンソに向かって頭を下げた。 「そうではないかと思っていました」  立ち居振る舞いから察していたと言って、アロンソは手合わせを期待する視線をガレオに向ける。 「私の代わりに本物のフロレンス式をお見せしてくれ」  剣を渡すと、ガレオは腰を低く保ったまま前に出た。信頼できる剣士と判断したのか、アロンソのほうから積極的に攻めの姿勢に入る。  鋭い剣戟が、気持ちいいほど遠くまで響く。アルファ性の優れた剣士同士の手合わせは、激しくも優雅で、ユベールはいつの間にか夢中になって見入っていた。アロンソもガレオも生き生きとして、二本の剣はまるで命が宿ったかのように躍動して見える。  刃を交える二人の、互いへの敬意と共感が、ユベールにまで伝わってくるようだった。気づけば散歩をしていた貴族が幾人も足を止めていた。  見物人の輪ができかけて、それに気づいたガレオの集中が途切れた瞬間、アロンソが隙をついてガレオの手から剣を弾いた。  音を立てて剣が地面を叩き、決着がついた。同時に拍手が起こり、ユベールも思わず二人に拍手を送る。  剣士たちは二人とも、その腕と反して謙虚な性格で、思いがけない観客が口々に褒め称えるのに遠慮がちな微笑で応えていた。 「素晴らしい手合わせでした」  笑顔で称えると、アロンソは嬉しそうに笑んでガレオに視線を向ける。 「好敵手のおかげです」 「おそれいります」  刃で語り合うとはまさにこのことを言うのだろう。会話は特に始まらないのに、アロンソとガレオのあいだには静かな共感が生まれていた。 「私も名剣士の輪に入れてもらえるよう、鍛えなければなりませんね」  一人だけ格下だったのは明らかだから、あえていじらしく言ってみれば、アロンソは彼らしい落ち着いた笑みを浮かべる。 「二、三年もすれば、私は殿下に尻もちをつかされますよ」  大柄なアロンソを後退りさせるだけでも一苦労だろうに。硬い印象が先だっていたアロンソの優しい冗談は、ユベールの心の壁を一瞬のうちに溶かしてしまった。 「私のことは、ユベールとお呼びください」  自然と、名前で呼んでほしいと言っていた。立場と年齢を考えれば、名前で呼び合ってもいい関係だ。でもそれが理由ではない。単純に、近しくなれた気がしたのだ。  ほんのすこし驚いた顔をしてから、アロンソはユベールに向き直った。 「ユベール」  穏やかでいて、どこか嬉しそうな声音で名を呼ばれ、くすぐったく感じた。そういえば、家族以外で自分の名を呼んだのはアロンソが初めてだ。  ソフィアがもたらす、異国の親戚か。実感が湧いて、笑顔になったユベールを、琥珀色の瞳が見つめる。  広大な庭園を背にして笑うユベールを、アロンソはなぜか視線が外せなくなったように見つめ続けた。昨日も同じように見つめられて、あのときは腹の内を観察されているのだと思ったけれど、そうでなかったのと、今回もそうでないのは、感覚的にわかる。  では、どうして見つめられているのか。瞳を揺らしかけたとき、アロンソがぽつりと呟いた。 「こんなに美しいひとは初めて見ました」  驚きに目を見開けば、それに気づいたアロンソがはっとしてきまりの悪そうな顔をした。 「男性を美しいと言うのが、フロレンスでは失礼でなければよいのですが」  ふいに口をついた感嘆が、女性が喜びそうな言葉だったのを詫びるとは。過ぎるくらい真面目な王子に、思わず笑ってしまいそうになった。 「ありがとうございます」  己の容姿が人々を惹きつけることには自覚がある。が、アロンソに褒められたのは正直、意外だった。面白いのは、言った本人のほうがより意外そうにしていることだ。 「エスパニルでは男性の美貌を褒めないのですか?」  フロレンスの男性は美を求めて花柄や淡い色合いの衣装を積極的に取り入れるし、化粧やかつらで飾る者だっている。アロンソと一団を見るかぎり、エスパニルの男性は美より雄性を表に出すのを好むようだが、それにしてもアロンソの動揺ぶりが可笑しかった。 「どうでしょう。私は初めて褒めました」  アロンソはついに、苦笑して俯いてしまった。正直に答えてくれるわりには随分気恥ずかしそうで、ユベールが話題を変えるのを待っているように見える。  照れが気まずさに変わってしまっては困るので、この後の予定について話すことにした。 「今夜の晩餐会は、姉の好物ばかりの予定です。フロレンス中の甘い菓子が揃うでしょうから、楽しみにしていてください」  屋内へ向かって並んで歩き出すと、アロンソはもう恥ずかしそうにはせず、凛々しい容貌に爽やかな微笑を浮かべていた。

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