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第1話  ずっと決めていたこと

 朝はパンより米派だ。  地元特産の赤味噌を使った豆腐の味噌汁に、時間があれば魚も焼きたい。しかし高校生の朝は忙しいので、結局いつも簡単な卵焼きになる。  優李(ゆうり)は食べ終わった皿をシンクに置き、母さんの分にはラップをかけた。洗い物を手早く終わらせ、洗面所で髪をチェックする。日本人離れした茶色い地毛を昔は面倒に思っていたけれど、高校生になった今では気にすることもなくなった。  天然パーマ気味のうねった毛先を摘まんで伸ばしつつ、リュックを背負って玄関を出る。同時に向かい側のドアも開いた。 「おはよう、オミ」 「んあよ」  もにゃもにゃと答えた広臣(ひろおみ)──オミは、寝ぼけ眼を擦りながら出てきた。首元には結び損ねたネクタイがぶら下がっている。 「朝飯食べた?」 「昨日コンビニで買ったパン食った」 「パンばっかだと調子崩すぞ」 「朝から米は食えないんだよ。胃もたれする」 「おっさんかよ」  オミはあくびを洩らしながら階段に腰を下ろした。優李もその隣に座る。するとオミはスマホにイヤホンを挿して、無言で片方を差し出してきた。優李は受け取って右耳に嵌める。  流れてきたロックミュージックの低音に寝起きの脳が叩き起こされた。音に乗って身体がふらふらと揺れ、たまに肩がぶつかる。いつものことなので互いになにも言わない。狭い階段の片隅で、毎朝こうして同じ音を共有する。これが優李とオミの日課だった。  一曲を聴き終えるころ、背後でドアの開く音がする。これもだいたい毎朝同じパターンだ。 「優李、オミ。おはよう」 「おはよ。奏多(かなた)」  挨拶が合図になって、オミはイヤホンを外す。引っ張られて優李の耳からも外れた。この瞬間にはいつも、ふいに突き放されるようなものさみしさがある。 「薬飲んだか?」 「うん」  二人のやりとりを後ろで見ながら、少し遅れてエレベーターに乗る。ドアが閉まると沈黙が流れた。箱の中は静かで機械音一つしないけれど、今さら無言を気まずく思うような間柄でもない。  しばらく静まったまま、三人並んで学校へ向かう。もうそろそろシャツにカーディガンを羽織っただけでは肌寒い。明日からはブレザーも出すかと考えていると、ふと奏多がオミのネクタイに手を伸ばした。後ろ向きで歩きながら器用に結んでいく。 「いつまで経ってもだらしないなぁ」  奏多は呆れたように笑う。 「優李もたまには言ってやってよ」 「俺が言ったところで、オミのだらしない性格は直んないよ」 「なんだと」  心外だとでも言いたげなオミに戯けてみせる。楽しげに笑った奏多が転びそうになり、オミが素早く支えた。ホッと息を吐くと、オミも同じタイミングで安堵の息を洩らした。 「頼むから、徒歩は無事にこなしてくれ」 「ちょっと躓いただけだよ。大袈裟なんだから、オミは」  マンションから学校までは徒歩で二十分程度だ。入学当初は自転車を使っていたけれど、奏多は生まれつき身体が弱く、自転車の運転にも心配があるので徒歩通学に切り替えた。  ゆっくり散歩をするように歩くため、マンションを出るのは余裕を持って始業の一時間前。晩秋の通学路には金木犀のにおいが漂っていた。もう冬も近いな、そういえばマックの新作はイマイチだった、と生産性のない会話をしながらゆっくり進む。学校が見えてきた頃、すでに出発から四十分が経過していた。  奏多の調子によっては、通学に一時間かかる日もある。そういう日は優李だけ先に行くことにしていた。遅刻はよくないからと笑う奏多と、自分に任せろと言うオミを背に一人で校門をくぐる行為には、暗鬱とした後ろめたさを伴う。  学校に遅刻しないよう登校するのは当たり前のことで、幼馴染だからといっていつでも奏多の調子に合わせることはできない。それが優李の本音だ。言葉にしたことはないけれど、優李のそんな本心を二人は感じ取っているのだと思う。自分の中にある薄情さに気づかれるのはなんとも決まりが悪い。  しかしオミと自分では、そもそも立場が違うので仕方がない。オミと奏多は恋人同士だ。優李にはできないことが、オミには当たり前のようにできる。  オミは奏多のためなら本当になんでもできる。別のクラスだが奏多の時間割をすべて把握し、体育がある日には授業内容まで確認する。早起きは苦手なのに、必ず奏多よりも先に家から出てくる。外で奏多を待たせないためだ。二人が付き合い始めてからずっとそばで見てきたけれど、恋人とはここまでできるものなのかと驚くことばかりだった。自分には到底真似できない。  優李にとっても、奏多はかけがえのない存在だ。しかしそれは一友人、幼馴染としてに過ぎない。大事にする方法がオミとは根本的に違う。恋人と幼馴染では違って当然だろうけれど。 「奏多、また昼に迎えに行くから」 「うん。優李もまたね」  昇降口で奏多と別れ、オミと一緒に隣の校舎へ向かう。オミとは同じクラスだが、奏多は理系なので別の校舎だ。教室に入りクラスメイトに挨拶をすると、みんな笑顔で返してくれる。一方で、オミにはちらりと視線を向けるだけですぐ顔を逸らした。オミは一部のクラスメイトから怖がられているらしい。根元が黒くなった金のプリン頭と赤いコンタクトレンズは、一見すると不良に見えるのだろう。派手すぎると注意していた教師もいたけれど、オミがあまりに聞く耳を持たないので教師のほうが憐れに思えるほどだった。  オミは一番後ろの席に鞄を放り、背負っていたギターを丁寧に立て掛ける。着席するとすぐさま机に突っ伏した。 「寝るの? 早すぎるよ」 「昨日寝てないんだよ。新曲のコード考えてて」 「もう……今日スタジオ何時?」 「十七時」  了解と答え、オミの前の席に座る。  優李たちは中学生の頃からバンドを組んでいる。ボーカルは奏多で、ギターがオミ、優李はベース。最初はただ恰好良いという理由だけで始めたバンド活動だったけれど、今は本格的にデビューを目指している。卒業後は三人で上京する予定だ。意外なことに、親や教師はさほど反対しなかった。曰く「若いうちは何事もチャレンジが大事」だそうだ。大人からのアドバイスはありがたいけれど、同時に厄介でもある。正直なところ、自分たちの若いころを投影するような語り口はひどく鬱陶しい。  ──俺って拗らせてんなぁ。  性格が悪い自覚はある。なんでも斜めから受け取る姿勢は良くない。わかっているけれど、歪んだ性根はそう簡単に直せない。誰かに応援されるたび、胸のうちが寒くなる。ありがとうと笑って返せばもっともっと寒くなる。凍えた感情を秘めて、あと少しで終わる高校生活に焦りを覚えている。本当にこれでいいのだろうかと、頭の中で不安が渦巻いている。  デビューしたい。バンドで成功したい。その気持ちに嘘はない。  だけど夢だけに向かって突っ走って、もしも失敗したら? そのあとの人生はどうなるのだろう。  答えは明確だ。若いころにもっとちゃんとしておけば。そう後悔するくたびれた中年の自分が想像できてしまう……。  自習と書かれた黒板に向かってため息を吐き、開いてから一行も進んでいないノートに無意味な線を走らせる。高三の秋、周囲は受験勉強地獄。隣の席の山田くんは、こちらが物音一つに気を遣ってしまうほどの集中力で参考書と向き合っている。対して推薦や就職で一足先に脱した人たちは、各々自由時間を過ごしていた。  地獄にも天国にもいない優李は宙ぶらりんだ。線に線を重ね、ノート上に不恰好な格子柄が出来上がっていく。  今さら進路を変えるつもりはない。音楽が好きだ。音楽で飯を食べていければ幸せだと思う。だけどそれだけではだめだ。がんばれば報われるなんていうのは所詮夢絵空事で、特に音楽業界みたいな足場の狭いところでは、たとえ成功したとしてもいつ居場所を失くすかわからない。努力だけで生きていける世界ではないのだ。  自分はそういう不安定な生き方に向いていないという自覚があった。音楽とは別の人生のことも考えておかなければならない。ここの大人たちは道標になりそうもないので、自分で考え、自分で備えておく必要がある。  リュックから参考書を取り出した。『調理師試験対策』と書かれた表紙を捲る。  優李が好きだと思えるのは、昔から音楽と料理だけだった。別のなにかが自分にあるとすればこれしかない。そう確信を持っている。  自習時間が終わりに近づいた頃、後ろの席でオミが動く気配がした。慌てて参考書を閉じ、ノートを上に被せる。 「起きた?」 「あー……やっぱだめだわ。帰って寝る」 「え、まだ一限目だよ」 「机じゃ寝た気がしない。起きたらスタジオ入りするから」  オミは学校に着いてから一度も開けていない鞄を肩にかけ、ギターケースを背負って大きな欠伸をする。 「じゃあな。奏多のことよろしく」 「はいはい」  オミは自由だ。好きなときに好きなことをする。そんなオミが羨ましいときも、恨めしいときもある。  窓の外を見ると、カラッとした青々しい晴天だった。明日もたぶん気持ちいい秋晴れだ。世界はこんなにスッキリしているのに、優李の心はひどく鬱々しい。  ──奏多のことよろしく。 「……はいはい」  誰も聞いていないけれど、もう一度小声で呟いた。  昼休みに迎えに行くと言っていたくせに、オミは帰ってしまった。そうなれば自分が行くしかない。奏多と一緒に弁当を食べ、食後の薬を飲むのを見届け、帰りにはまた迎えに行き、一緒にスタジオへ向かう。オミがいつもやっていることを、優李ができるだけ代わりにやる。面倒に思ったことはない。もちろん嫌だとも思っていない。わざわざよろしくされなくても、奏多のことはいつも気にかけているつもりだ。優李にとって奏多は大事な幼馴染なのだから。  しかし幼馴染にも線引きはある。まっさらなノートに引かれた線のように、無意味かもしれないけれど、確かに自らそこに引いた線が。  チャイムが鳴った。被せたノートを閉じて『調理師試験対策』の本をリュックに仕舞う。資格の勉強をしていることは誰にも話していない。話す機会がこなければそれでいい。その未来のほうが、今の自分にとっては成功と呼べるはずだ。  教材を入れ替えたあと、選択授業のために教室を移動する。途中の渡り廊下で下級生の女子に呼び止められた。 「先輩、今日のお昼にお時間もらえませんか」  クラスメイトたちがにやけ顔でこちらを振り返っている。こういうことははじめてではなかった。自分で言うのもなんだけれど、優李はモテる。卒業が近づいたこの頃、特に下級生からの呼び出しが多かった。しかし今日の昼はあいにく都合が悪い。 「ごめんね、今日の昼はちょっと用事があって」 「そうですか……あの、じゃあ放課後は」 「放課後……も、ちょっと」  ごめんねと言うと、女の子の目が潤み始める。げっと思った内心をひた隠し、精一杯の笑顔を向けた。 「明日のお昼でもいいかな?」  告白から逃げたいわけではなく、本当に単純に用事があるだけなのだ。提案すると、女の子はパッと顔を明るくさせて頷いた。小走りで去っていく小さな背中にため息を吐き、結局盗み聞きしていたクラスメイトの茶々をあしらいながら教室に向かう。  移動先の教室は理系クラスのフロアにある。奏多のクラスの前で足を止め、そっと中を覗き込んでみる。すると奏多は窓際の席にいた。艶やかな黒髪が陽に照らされ、少し灰色っぽく見える。真っ白な肌は透けてしまいそうだった。  奏多は紛れもない美少年だと思う。制服のスラックスを履いていなければ女子に見えなくもない。身体は細いし、目は大きいし、睫毛は長い。実際、男に迫られていたこともある。相手はオミに殴られていたけれど。  奏多の頬には赤みが差していて、体調は悪くなさそうだとホッとした。オミがいないと不安になる。もし奏多になにかあったら、自分一人ではどうしたらいいかわからない。  姿も見られたことだし、とその場を後にしようとすると、微かな歌声が聴こえた。泣いているかのような、透明な歌声だ。すぐに奏多の声だとわかった。休憩時間の騒然とした教室内で、波のように優李の耳にまで届いた。とても小さな声なので、優李とオミ以外は気づけないだろう。  相変わらず綺麗だ、と心の中で感嘆した。声質なのか、それともそこに宿る想い故なのかはわからないけれど、とにかく奏多の歌はとても美しい。聴いていると胸が震える。前触れなく涙がこぼれ落ちそうになる、繊細な歌だ。  始業のチャイムが鳴り、我に返った。慌てて教室へ駆け込むと、先にいた教師が苦い顔で優李を呼び止める。 「安室(あむろ)紀伊(きい)はどうした」 「具合が悪くなったみたいで、早退しました」 「早退? またか」  オミの早退がサボりであることは当然バレている。幼馴染だから、という安直な理由で優李に文句をつけてくる教師は少なくない。本人に言えよとも思うけれど、その本人が捕まらないのだから仕方がないのだろう。 「あのな、安室」 「はい」 「このままだとまずいぞ」 「まずい?」  なにがですかと訊くと、教師は悩ましげな顔をした。 「卒業だよ。出席日数と成績、どっちもやばいぞ」 「え」  ザアッと血の気が引く。 「あ、お前じゃなくて、紀伊がな」  教師は慌てて付け足したけれど、そんなことはわかっている。優李は授業をサボっていないし、赤点だって取っていない。しかし共に上京を控えている身として、困ることに変わりはない。高校を卒業できなかったら、最終学歴は中卒だ。今時中卒だからと不当な扱いを受けるようなことはないだろうけれど、将来の幅は確実に狭まる。  万が一バンドがうまくいかなかったら、オミはその先どうするつもりなのだろう。普通に就職して真面目に務める性格はしていないし、他に秀でた特技があるとも思えない。 「とにかく、学校にはちゃんとこいって言っておけよ。もうあと数ヶ月なんだから、辛抱しろってな。よろしく頼んだ」  はぁ、と気の抜けた返事をしながらも、とにかく明日はオミを説得して、きちんと授業に出させると決意した。  二限目が終わり、人の波に乗って教室を出て、もう一度奏多のクラスを覗いてみる。奏多はクラスメイトと談笑していた。  オミから奏多をよろしくされ、教師からオミをよろしくされる。いったい自分はこの幼馴染たちのなんだというのだ。保護者か。……なんだかしっくりきてしまった。 「頭が痛い……」 「げっ。安室、まさか風邪か? やめろ、移すな、離れろ」  あまりにひどい言い草だが、文句は言えない。受験組に風邪なんて移した日には呪い殺されそうだ。  置き去りにされて一人で教室へ戻る途中、考える。オミが卒業できなかったら困るのはオミ自身だけれど、奏多も落ち込むかもしれない。それに、なにより優李が嫌だ。オミと一緒に卒業したい。今このときだけの思い出を、ここに残していきたい。  優李には、ずっと決めていたことがある。  ままならない想いを、この青くて苦い高校時代に置いていく。そのためにも、卒業は最も大切な区切りなのだ。

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