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第2話 出会った瞬間から
小学一年生の夏、引っ越しをした。
入学してわずか二ヶ月での転校。理由は両親の離婚だった。ようやく友達ができ始めた矢先の出来事に、優李はあまり反発しなかった。幼いながら両親の不仲には気づいていて、どうせ別の学校に移るのなら、慣れてしまう前のほうがいいと思っていたからだ。
「これからお母さんが仕事のときは、自分でお家に入ってね」
新しいマンションに越してきた日、母さんはそう言って優李に真新しい鍵を手渡した。高層というほどではないけれど、あたり一帯では一番背の高い分譲マンション。婚前は弁護士をしていた母さんには相応の貯金があり、離婚を機に心機一転マンションを購入したのだ。元々仕事が好きだったらしく、復帰できてとても嬉しそうにしていた。
オミと奏多に出会ったのは、引っ越しの翌日だった。
事前に挨拶を済ませていた学校への初登校。それなりに緊張していたせいで早く起きてしまい、分団登校の集合時間まで暇になってしまった。まだ新しいランドセルを背負って、マンションの階段で背伸びをして外を見渡す。以前住んでいたのも同じ市内だというのに、少し離れただけで全然違う場所に見えた。
遠くまで眺めるとどこまでも知らない景色が続いていて、ここは本当に現実世界なのだろうかと不安になった。ひょっとすると自分は、小さいころ読んでもらった絵本のように、どこか別の世界にきてしまったのではないか? これから行く学校は実は魔物の巣で、自分には囚われのお姫様を助けに行く使命があったりして……。
「誰?」
「わあっ」
広げていた妄想がぱちんと弾けて、勇者優李はただの優李になってコンクリートに転がった。尻もちをついたまま見上げると、階段の上に小さな女の子が立っていた。
顎下で切り揃えられた真っ黒な髪。大きな瞳と白い肌。優李の妄想で囚われていたお姫様そのものだった。アニメに出てくる女の子みたいだ。
「誰?」
ぽかんとしていると、もう一度訊かれた。
「もしかして、昨日きたひと?」
優李が頷くと、女の子は花が咲くように笑った。
「今日からおんなじ学校なんだよね」
「うん」
「僕、奏多。きみは?」
「ゆ、優李」
答えたあとで疑問を覚える。
「……僕?」
「うん?」
「男?」
「そうだよ」
衝撃で言葉を失った。スカートこそ履いていないけれど、見た目は完全に女の子だ。優李が黙ってしまうと、奏多は不満そうに唇を尖らせた。
「僕チビだから、よく女の子に間違えられるけどね」
「……ごめん」
自分も間違えてしまったので素直に謝ると、奏多はきょとんとする。
「なんできみが謝るの?」
「僕も女の子だと思ったから……」
「言わなきゃわかんないのに」
変なの、と言って奏多は愉快そうに笑う。ちょうどそのとき、奏多の背後から大きな怒声が飛んできた。
「奏多! 先に行くなっつってんだろ!」
マンションの廊下中に響き渡る声に、優李はビクッと肩を震わせた。バタバタと忙しない足音が近づいてきて、廊下から男の子が現れた。
奏多よりも少し背の高い男の子だった。頬に絆創膏を貼っている。不機嫌そうに目を吊り上げ、唇をぎゅっと結んでいた。奏多と優李の間に割り込み、奏多を隠すように大きく腕を広げる。
「誰だよおまえ」
「優李だよ」
優李が答える前に、奏多が答える。
「ゆーり?」
男の子は優李をジロジロと見た。
「ほら、昨日きたっていう」
「昨日? ……あ、もしかして引っ越してきた奴?」
「そうそう。今日から僕らと一緒に学校行くって、母さんたち言ってたじゃん」
男の子はふぅんと唇を突き出した。
「優李っていうのか?」
うん、と頷く。すると男の子は、にかっと歯を見せて笑った。
「俺は広臣。オミでいーぞ」
「オミ?」
「んで、こっちは奏多な」
「僕はさっき自己紹介したよ」
奏多が呆れたように言う。オミは奏多の手を引っ張り、反対側で優李の手も掴んだ。
「今日から優李も俺たちのオサナジミだな」
「オサナジミ?」
「子供のときからずっと一緒にいる人のことを、そう言うんだって。漫画で読んだ」
「それもしかして、幼馴染じゃない?」
優李がそう言うと、オミはぽかんと口を開けた。
「……そうだったかも。おまえ頭良いんだな」
「べ、別に良くない。たまたま知ってただけ」
褒められて視線を泳がせると、奏多と目が合った。にこにこしながらオミと優李を交互に見て、
「幼馴染が増えて嬉しいなあ」
と、のんびりした口調で言う。
オミは嬉しそうに鼻歌を歌い、三人手を繋いだままマンションの階段を下りた。どうしてエレベーターを使わないのかと訊くと、子供だけで乗ってはいけないと奏多の親から言われていると教えられた。防犯上の理由もあるだろうけれど、随分と過保護な親なのだなと内心で驚いた。
強引に手を引くくせに、オミの歩くスピードはやたらと遅かった。しかし追い抜かすのもどうかと思い、大人しくついて行く。
奏多の元にすっ飛んできたオミは、お姫様を守る騎士みたいだった。妄想の中で自分は勇者だったけれど、現実世界では誰かを救うなんてとてもできない。物語のように奏多を両腕で守ろうとしたオミは今までに出会ったことがないタイプの男の子で、とても恰好良く思えた。
はじめての学校では、早速何人かの友達ができた。けれどあの二人以上に優李の心を刺激した人はいなかった。たぶん、出会った瞬間から特別だったのだ。
それから優李は、二人と一緒に過ごすようになった。
朝の分団登校も一緒。学校でも一緒。学校のあとは誰かの家で夕飯時まで一緒。休みの日も他の予定がない限りは一緒にいる。互いの親たちも仲が良く、誰かが家を空けるときは他の家族が面倒を見る、という協力体制が牽かれていた。
小学二年の夏、はじめて奏多の家に泊まった。オミを真ん中にして川の字で布団を敷き、ブランケットに包まって顔を寄せ合う。
「奏多、薬飲んだか?」
「うん、ちゃんと飲んだよ」
オミの問いかけにしっかり頷いて、奏多は枕に頬を擦り寄せた。目元が少しとろんとしている。もう眠たいのかもしれない。
奏多は生まれつき心臓が弱いらしい。朝昼晩とたくさんの薬を飲んでいる。一度忘れるだけでも結構危険で、一度飲み忘れたときは、学校で血を吐いて倒れたこともあった。
あのときの光景は優李にトラウマを植え付けた。吐血なんてはじめて見たし、目を血走らせて叫ぶオミの顔も怖かった。それからは優李も、奏多が薬を飲んだかできるだけ確認するようにしている。
「そろそろ寝ないと怒られるかな」
「平気だって。奏多の母ちゃんたち優しいし」
「あれ……奏多寝てない?」
ゲーム攻略についてあれこれ話しているうち、気づけば奏多が眠り込んでいた。すぅすぅと赤ちゃんみたいな音を立てて眠る奏多を見て、オミが声をひそめる。
「うん、寝てるな」
「じゃあ俺たちも寝なきゃ。奏多起こしちゃうとまずいよ」
「おまえ、寝れるの?」
「うーん……たぶん」
本当はまだ眠くない。自分の家ではこんな時間まで起きていられないので、もったいない気もしていた。だけど奏多が寝てしまったのなら仕方ない。奏多の身体には寝不足も負担になる。寝れるよと嘘をついてブランケットをかぶると、オミが思いついたようにあっと声を上げた。ゴソゴソ動いて、そっと優李のブランケットに入り込んでくる。
「どうしたの?」
「耳につけてみ」
「耳?」
オミに手渡されたのはイヤホンだった。母さんがたまに使っているのを見たことはあるけれど、自分が使うのははじめてだ。
オミは優李がイヤホンをつけたのを確認し、プラグをタブレットに繋げた。なにやら操作したあと、急に音が流れ始める。爆発みたいな衝撃が耳から脳に直接響いて、一瞬目眩がした。
「わ、わ、わ」
「しーっ。静かに。奏多が起きるだろ」
「ご、ごめん」
目を瞑り、流れてくる音に集中した。叫ぶような歌声が少し怖い。楽器の音が何重にも重なって、頭の奥のほうがぐらぐら揺らされる。なんだこれ、すごい。聴いているだけで胸がじんじんと熱くなる。
「ロックっていうんだってさ」
「ロック?」
「音楽の種類だって。恰好良いだろ」
恰好良いかはよくわからなかったけれど、はじめての体験に胸が高鳴って、うんうんと何度も首を振った。
「でも、余計に寝れなくなりそうだね」
「寝なきゃいーじゃん。父ちゃんのタブレット、他にも色々入ってるって言ってた。一緒に聴こうぜ」
タブレットの光に照らされたオミは、いたずらっ子みたいに笑った。小さな八重歯が覗いている。
夜更かし、イヤホン、ロックミュージック。一つのブランケットの中で初体験が次々襲ってきて、優李は苦しいくらいにドキドキしていた。
オミはいつも、奏多の手を先に取る。オミにとっての一番はいつだって奏多だ。奏多は身体が弱いし、オミとの付き合いは優李よりも長い。だからそれが当たり前で、不満に思ったりはしない。けれどオミは今、奏多よりも先に優李にロックを聴かせてくれた。奏多にはできない夜更かしを、優李と一緒にしてくれている。自分が特別扱いされているように感じて嬉しかった。
音楽に突き動かされるように、心臓が激しく脈打つ。もし眠くなってしまっても、今日は絶対に寝たくないと思った。落ちそうになる瞼を必死に堪え、オミの横顔を見つめる。いつもは少し吊り上がっているまなじりが、今は蕩けそうに垂れ下がっている。オミも眠いのかもしれない。けれどたまに瞬きを繰り返して、ちらっと優李の様子を確認してくる。たぶん優李が寝るまで寝ないつもりだ。
眠いなら寝なよと耳打ちするが、オミは不満そうな顔をするだけで寝ようとしない。優李も謎に対抗心が燃えてきた。絶対にオミより先に寝ないぞ、と目をかっ開く。
ハードロックをBGMにした戦いは、朝日が登るまで続いた。薄いブランケットに日差しが当たって暑くなり、二人とも汗だくになって大の字で転がる。やがて奏多が起きたことでオミも起き上がり、優李の右耳からイヤホンが抜け落ちた。微かなさみしさを伴って、戦いは終わった。
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