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第10話  汚い色に塗られていく

 高校に入ってすぐ、オミがバンド名を決めた。『シークレットレイニー』略してシーレイ。ああでもないこうでもないと考えていたら、密やかに雨が降ってきたことから思いついたらしい。安直だけど、自分たちはなかなか気に入っていた。  バンド名が決まると、不思議とやる気も上がった。まず優李とオミはバイトを始め、定期的にスタジオを予約して練習するようになった。奏多も働きたいと言っていたけれど無理はさせられないので、そのぶん曲作りは奏多主体で進めることになった。  はじめてライブハウスで演奏したとき、十六年の人生で最も興奮していたように思う。スポットライトの光、観客の声、響き渡る自分たちの音。箱の中に充満するすべての熱量が自由自在になったようだった。学校の体育館とは段違いの迫力に少々慄いたほどだ。  あれから二年半。高三になっても同じスタジオにお世話になっている。  チューニングを終えたオミが、一度弦を弾いた。優李も合わせて弾く。奏多がマイクをセットして、深く息を吸った。微かなその音を拾い、オミの頭が揺れる。  演奏が始まると、置いていかれないように必死に食らいつくしかない。同じ譜面を見ているはずなのに、オミの指は時折知らない動きをする。奏多の声は歌詞だけではわからない感情を伝えてくる。二人の音楽は、優李の頭から爪先までを飲み込もうとしてくる。  優李はただ用意された譜面通りに弾く。それだけではだめだとわかっていても、オミのように音符とは別のなにかを弾くことも、奏多のように音楽に魂を吹き込むこともできない。才能の違いにはとうの昔に気づいていた。 「うん、良くなった」 「そうだね。前より合うようになった」  歌い終わったあとの二人の会話には、いつからか優李への気遣いが滲むようになった。卑屈になってしまいそうで、返事の代わりに弦を弾く。ベンッと汚い音が鳴った。 「そういえば、クリスマスライブだけど──ゴホゴホッ」 「奏多!」  奏多が急に咳き込み、オミが飛び上がって駆け寄る。発作だ。奏多の顔色を覗き込んだオミは、勢いよく優李に振り返った。薬を持ってきてほしいと目で訴えている。優李は頷いてすぐに荷物を漁り、薬のカプセルとペットボトルを持って戻った。ペットボトルの中身はもう半分もない。 「奏多、ゆっくり飲め」 「ゴホッ……ご、ごめ……」 「水、もうなくなりそうだよね? 常温のやつ買ってくるよ」 「悪いな、優李。頼んだ」  スタジオを出て、すぐ向かいのコンビニに向かう。常温の水とのど飴、自分とオミ用にホットコーヒーを二つカゴに入れてレジに並んだ。  たぶん今日はもう帰ることになる。それがたとえライブ直前だろうと、奏多が調子を崩せば必ず練習を中断する。これはバンドを始めるにあたってオミが最初に決めたことだった。直接異を唱えたことはないけれど、このままでいいのだろうかという疑問は常にある。この練習量ではデビューなんて夢のまた夢だ。  ──いや、それは俺だけか。  オミと奏多には、練習不足を補えるだけの才能がある。問題は自分だ。考えると気持ちがささくれ立ってきて、気分を変えるためにも先にコーヒーを飲んでから戻ることにした。  通りの街路樹には、いつの間にか電飾が巻かれている。まだ十一月だというのに気が早い。そういえばさっき奏多もクリスマスライブの話をしようとしていた。自分がのんびりしているだけで、一般的にはもうクリスマスシーズンと呼ぶのかもしれない。  熱すぎるコーヒーをちびちび飲みながら信号待ちをしていると、ふと聞き覚えのある声で呼ばれた。 「優李、お疲れ」  顔を向けると、ひょろりと一際背の高い男がいた。以前ライブの際に助っ人ドラムを頼んだ|仙道《せんどう》だった。 「よ。今日スタジオ入ってるの?」 「入ってたけど、もう帰るとこ」  仙道は別のバンドのドラマーで、近くの高校に通っている同い年だ。シーレイがSNSで臨時ドラマー募集をかけたとき、仙道のほうから申し出てくれて一度一緒にライブをやった。腕前はプロ級で、本当ならそのまま正規メンバーをお願いしたいくらいだったのだけど、オミが反対したので結局その場限りとなった。 「俺、いまだにオミに嫌われてる?」  困ったような笑顔で問われ、優李は強く首を横に振った。 「嫌ってないよ。本当、そういうんじゃないんだ」 「結構自信あったんだけどなー」  今度は自虐的に笑うものだから、首を振り続けてしまう。 「仙道はマジですごいよ。同い年とは思えないくらい上手いもん」 「じゃあやっぱ、音以外のとこで選ばれなかったんだよな。顔とか性格とか」 「違う違う。俺たち春には上京するから、こっちで誰かに決めるつもりがなかっただけだよ。いきなり一緒に東京こいとは言えないし」 「え、そうなの?」  仙道は驚いたあと、期待のこもった目をする。 「俺も春には上京するから、まだチャンスはあるってことかな」 「仙道も?」 「うん。実は、前から東京で事務所やってる先輩に声かけてもらってて、あっちで欠員が出たバンドに入ることになってるんだ。掛け持ち禁止とかじゃなければ、俺にもシーレイ入るチャンスあるよね」 「音楽事務所? それってデビューするってことなんじゃ……」 「まあ、おこぼれみたいなものだけどね」  すごい。デビューが決まっているバンドからオファーされるなんて、やはり仙道は只者ではない。 「さすが仙道。あれだけ上手ければ、そりゃオファーもくるよな。格が違うもん。尊敬する」 「ありがとう」  仙道は頬を赤らめ、俯きがちに笑った。あまりに照れるものだからこちらまで恥ずかしくなってきて、思わず口を閉じてしまう。微妙な空気を感じていると、ふと仙道が声を上げた。すでに二回は青を見送った信号の先を見ている。 「あれ」  釣られるように目を向けると、スタジオからオミと奏多が出てくるところだった。奏多はオミに寄りかかって苦しげな顔をしている。慌てて仙道にまたねと声をかけ走り出しかけるけれど、赤信号のせいで動けない。そわそわして待っていると、急に腕を引っ張られた。 「わっ? びっくりした」 「俺なら絶対、今みたいな思いはさせない」 「え?」  ぽかんとする優李に、仙道は手の力を緩め、いつものように笑った。 「ま、とにかくお互い今は、やれることをがんばろうな」  腕が解放され、優李より先に仙道のほうが歩き始めた。  去っていく背中を見ながら、ひどい不安に駆られた。今みたいな思いとは? 仙道には自分がどう見えているのだろう。奇妙なしこりを残したまま、信号が青になっても動き出せず立ち尽くした。  道路の向こう側から大声でオミに呼ばれ、ようやく我に返る。二人の元に戻り、オミに水とのど飴、それから缶コーヒーを渡した。サンキュと言って受け取ったオミは、缶コーヒーをポケットに仕舞う。奏多に水を飲ませ、背中をさすり、歩調を合わせてゆっくり進んだ。  スタジオから家までは歩くと一時間ほどかかる。電車を使えば二駅だけれど、この状態の奏多を人混みに放り込むわけにはいかない。時折休憩を入れながらでも歩いたほうが安全だ。  時計を見る。午後六時半。今日の練習は一時間で終わった。  スタジオに行かなくても、家でいつでも集まれるのだから練習はできる。だけど家では思いきり楽器を弾くことはできないし、スタジオを使っての練習とは密度が段違いだ。今はまだこの程度の完成度で問題ないのかもしれないけれど、音楽で食べていこうと思うのなら、もっと練習しなければいけない。わかっていても思うようにはいかない日々で、焦りばかりが積もる。いつまでこの状態が続くのだろう。このまま上京して本当に大丈夫なのだろうか。  ──俺なら絶対、今みたいな思いはさせない。  仙道の言葉が脳裏をよぎる。もしかすると仙道は、優李の不安に気づいているのかもしれない。とはいえもし仙道がシーレイに入ったとしても、リーダーはオミだ。すべての決定権はオミにある。 「優李? どうした?」  気づくと足が止まっていた。  前方で振り返って怪訝な顔をするオミに、なんでもないよと言おうとした。けれどなぜかうまく声が出ない。オミは優李の返事を待たず、肩を抱く奏多の顔を覗き込んだ。 「平気か?」 「大丈夫。ごめんね。優李も、ありがとう」  奏多はオミの腕の中で俯いたまま、優李に礼を告げた。その瞬間、どろりとした粘っこい気持ちが胸の中に充満した。  考えたくなくても考えてしまう。  どうかしたのかと訊かれるのも、なにかの礼も、自分はいつだって、ついででしかない。  いや、違う。二人はそんなつもりで言っているわけではない。恋人とただの幼馴染が同じ扱いを受けるわけもないのだから、これは普通なことなのだ。  だけど、わかっていても、汚い色に塗られていく心が止められない。  夕飯の支度があるからと言って、たった一駅ぶんの電車に乗って独りで帰った。自分の心が汚いせいで、イルミネーションに彩られた街が余計煌びやかに見える。寒さを分かち合う人のいない夜道は、ひどく息苦しかった。

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