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第15話  死に近い恐怖

 東京は思っていたより過ごしやすい。名古屋という中途半端な都会で生まれ育った優李にしてみれば、駅の騒々しさも人混みの息苦しさも地元と大して変わらなかった。電車に揺られて数分、四ツ谷駅で降りて人の波に乗り改札口を出る。  優李が働くカフェレストランは大通りに面していて、駅から徒歩五分もしないうちに到着する。店の入り口にはかぼちゃのランタンが飾られていた。通りの街路樹には点灯していない電飾が巻かれている。もうすぐハロウィンだ。メニューもあやかったものが多く、連日かぼちゃのわたばかり触っている。指先に染みついたオレンジ色がなかなか落ちない。  いつも通り、一本裏の従業員通用口から入る。表の煌びやかさとは裏腹に、裏口は湿気と生ゴミの気配に包まれた空間だ。前の職場も同じようなものだったので、たぶん飲食店の裏側なんてどこもこんな感じなのだろう。 「おはようございます」  スタッフルームに入ると、デスク前の簡易椅子に先輩の田淵が座っていた。眉間に皺を寄せてスマホを見つめている。優李に気づくと、その表情のまま顔を上げた。 「はよーす。なあ安室、おまえ三十一日出れるんだよな?」 「ハロウィン当日ですよね? 大丈夫ですよ」 「それってディナーも行けたりする?」  田淵は気まずげに窺ってきた。優李はそういうことかと頷く。 「大丈夫ですよ。代われます」  そう答えると、田淵は泣きそうな顔で助かるよと頭を下げた。優李はロッカーに荷物を押し込み、コックコートに着替えながら続ける。 「彼女さんですか?」 「そう、そうなんだよ。いや、悪いとは思ってるよ? 私情で急なシフト変更なんてさ。でもほら、俺はおまえと違って、これが最初で最後かもしんないから」 「俺と違ってってなんですか。俺、彼女なんていませんよ」 「今はいなくてもすぐにできるだろ。イケメンにはわかんないよな、この焦燥がよぉ。俺にとっては今が一世一代のときなんだよ」 「そんなふうに嫌味を言われるなら、代打考え直そうかな……」  ふざけて返すと、田淵は慌てて平謝りした。見た目は大柄で威圧感のある人だけど、中身はお調子者で明るい先輩だ。こうして軽口を叩き合うこともできるので、田淵とシフトが被っている日はいつも楽しい。  二人で厨房へ出る。業務用冷蔵庫の熱気が籠もった通路を抜け、店内へ繋がる仕切りから顔を覗かせる。カウンターの向こう側で掃き掃除をしている店長と目が合った。今日も七三分けがピッタリ決まっている。 「店長、おはようございます」 「はいおはよう。今日もイケメンだね」 「あはは……」  乾いた笑いを洩らした。どう返せというのだ、その挨拶……。  店長はゲイを公言している。かなりの遊び人らしく、優李は出勤初日から気に入られていた。とはいえ躱せる程度のことだし、仕事に影響もないので特に問題はない。  週末ということもあって、客入りはなかなかだった。スタッフの怒声で満たされる厨房内を駆けずり回り、ランチタイムはあっという間に過ぎ去っていく。この店は十五時にランチ営業を終了し、十七時からディナー営業へと切り替わる。シフトがランチタイムの日は、ディナーの準備を整えるまでが業務内容だ。仕込みを終えた段階で学生バイトの子たちが出勤してくる。入れ替わりで退勤した優李と田淵はロッカールームへ戻った。 「疲れた……」  ぼやく田淵に同意して頷く。 「でもここからが本番ですよね。ハロウィン終わってもクリスマスあるし、そのあとすぐ正月で落ち着くかと思いきやバレンタインとくる」 「息つく間もないな」 「ありがたいことではありますけどね」  このご時世、仕事が忙しいのは良いことだ。特に都会の飲食店業界は常に激戦。新しくオープンした店が気づけば潰れているなんてことはザラにある。うちの店は駅近のカフェということもあってなんとかやっていけているけれど、それでも安心はできない。  万が一この店が潰れたら、優李は途方に暮れてしまう。古いとはいえ、都内2LDKのマンションはオミ一人の稼ぎで住めるような家ではないし、バンド活動はなんだかんだと入り用で貯金も全然できていない。  ──だめだだめだ。考えすぎはよくない。  懐の不安は意識すると瞬く間に鬱を誘う。気を取り直してお疲れ様でしたと声をかけようとしたとき、ちょうど店長がスタッフルームに入ってきた。 「安室くん、待って待って」  店長に呼び止められ足を止める。 「さっき田淵くんから聞いたけど、三十一日フルで出れるのかな?」 「はい。大丈夫です」 「いつもありがとうねぇ。すごく助かるよ。それじゃあ調整しておくね」 「よろしくお願いします。俺のほうこそ、去年に続き今年も申請許可していただいてありがとうございます」  店長と田淵の二人に頭を下げる。二人はいいんだよと微笑んだ。  田淵との会話にもあったように、飲食店業界は十月以降の春までがもっとも忙しい。中でも十二月は鬼だ。クリスマス商戦に勝ち抜かなければ翌年には廃業という店まで出てくるほど、とにかく最重要月間である。  そんな大変な時期の、しかもイベント当日の二十四日と二十五日に、優李は毎年休みをもらう。クリスマスイブは優李にとって一年の中で最も大事な日だ。 「事情は聞いてるからね。せっかくの里帰りなんだからゆっくりしておいで」  本当にこの店に勤められてよかった。ここ以上に良い職場には、きっともう出会えない。  上京してすぐ勤めた店では、クリスマス当日は休みたいとお願いしたところ、店長に激怒された。飲食店に勤めておいて十二月二十四日と二十五日に休み申請なんてありえない。噴火したかのような顔でそう怒鳴る店長に、優李はなにも言い返せなかった。そのあと他のスタッフから避けられ始め、店長からは軽いパワハラが始まり、結果的にクリスマスを待たず退職した。  親族や恋人ならまだしも、友人の命日に毎年休みが欲しいというのは世間的に普通ではないらしい。  ──親友で、幼馴染で、兄弟のようなものだったんです。  今の店の面接を受けたとき、はじめから事情を話すことにした。それで休めないのなら仕方ない。他の職場を探すまでだ。絶対にこの条件だけは譲れない。そう思って説明したのだけど、当時も変わらずピッタリ七三分けだった店長は採用してくれた。店にとってはとんだ悪条件だろうに、よく認めてくれたものだ。今でもどうして雇ってもらえたのかよくわからない。ただとにかく、この店のためにがんばって働こうと決めた。  店を出ると空は暮れていた。肌寒さに身が少し震える。吸い込む空気も随分冷えていた。冬の訪れを嫌でも感じてしまう。できれば雪は降って欲しくない。  スタジオに向かう途中、オミに今から向かう旨の連絡を入れた。そのあとで新着通知を確認する。仙道からメッセージがあった。 『今駅着いた。優李は?』  届いたのは十分ほど前だ。すぐに返信した。 『ごめん、今見た。俺も今駅から向かってる』  送るとすぐ既読になった。一分も経たず返信がくる。 『そこで立ち止まってて』  そこでと言われても……。周りを見渡して、人の邪魔にならない路肩に寄る。再び返信しようとすると、ふとコーヒーのいい香りが漂ってきた。視界にスニーカーの爪先が映る。優李のすぐ隣で立ち止まった。 「お疲れさん」 「待っててくれたの?」 「いや、そこのコンビニ寄ってたから」  仙道はコンビニのコーヒーを手渡してきた。ありがたく受け取って暖を取る。極寒というほどでもないのに、指先が温まると幸福感に満たされた。疲れた身体に苦味が染み渡って、思わず深い息を吐く。 「やけに疲れてんな。平気か?」  仙道が心配そうに覗き込んでくる。後ろで括った長い黒髪が肩で揺れた。 「時期的にこれから忙しくなる業種だからね。練習には響かせないから安心して。それに忙しさなら仙道のほうがよっぽどだろ。うちの練習なんか参加してて大丈夫なのか?」 「どこで叩こうと練習は練習だからね。それにシーレイの練習は他と違って楽しいし、むしろもっと呼んでほしいくらい」 「……お前って変わってるよな」  変装をしなければ歩けないほど有名になったというのに、どうしてシーレイにこだわるのだろう。楽しいと言う割にオミとはいまだあまりソリが合わないようだ。オミもオミで、仙道のなにがそこまで気に食わないのかよくわからない。  スタジオの入ったビルが見えてきて、優李はもう一度スマホを取り出した。オミから返信はきていない。既読にもなっていなかった。「仙道も一緒にもう着くよ」と送っておく。 「先に入ろうか」  優李が受付を済ませると、仙道は考えるような顔をして、 「まだ時間あるなら、優李にちょっと話があるんだけど」  と言った。 「話?」  改まって言う仙道に連れられ、スタジオ内の休憩スペースで座る。さっきコーヒーを奢ってもらったばかりだというのに、自販機でミルクティーを買ってくれた。開封せずテーブルに置く。 「どうしたの?」  仙道はなかなか話し始めない。やがて意を決したように、ぐっと眉根を寄せた。ただならない様子に、優李は思わずたじろぐ。 「ど、どうしたんだよ?」 「春に音楽フェスがあるだろう。南プロ主催の」  南プロは仙道が所属する芸能事務所だ。毎年二回音楽フェスを開催していて、事務所やプロアマ関係なく申し込みができる。ただし出演は狭き門で、特にアマチュアバンドはコネがなければほぼ審査に通らないと聞いたことがあった。憧れの事務所ではあるけれど、八百長的なオーディションが気に入らないというオミの意向から、シーレイは一度も申し込んでいない。 「春フェスがどうした? 仙道のところは出るんだろ?」 「うん、それはそうなんだけど。優李は興味ない?」 「え」  そんなもの、大いにあるに決まっている。だけどその質問の真意がわからないことには返事のしようがない。 「実は事務所の人から、アマチュアで良いバンドはいないかって訊かれてるんだ。今年の申し込み面子が微妙だったらしくてね。まあその、縦も横も繋がりがないバンドばかりだったというか」  コネという言葉は避けたようだ。それもそうか。ここは都内の音楽スタジオだし、万が一関係者に聞かれたら困るだろう。言葉を濁したところで、話の内容だけでも相当やばいと思うけれど。 「つまり裏推薦ってこと?」 「そういうわけじゃない……」  仙道は返そうとして、「いや」と首を横に振る。 「そうだな。うん。良くないことっていうのはわかってるんだけど、俺は事務所のやり方にどうこう言える立場じゃない。ただチャンスがあるなら、優李を推したいって思ったんだよ」  正直に認めて、その上でこれを優李にとってのチャンスだと言う。仙道は正しいのだろう。裏道だろうがなんだろうが、これはプロに近づける手段に変わりはない。仙道と自分では、将来の見つめ方が根本的に違う。ますます情けなさに拍車がかかった。  南プロに紹介してもらえるチャンスなんて、この先あるかどうかわからない。というかほぼ皆無だろう。それなら答えは決まっている。優李はまっすぐに仙道を見つめ返した。 「やってみたい」  はっきり返事をすると、仙道は安心したように笑った。 「うん、それがいい。こんなチャンス逃しちゃだめだ。よし、早速連絡してみるよ」 「あ、ちょっと待って。一応、オミにも確認させて欲しい。最初は反対するだろうけど、時間かかっても説得するからさ」  そういえばそろそろオミも着いた頃だろうか。席を立つと、仙道に慌てて制止された。 「違うんだ」 「え?」  違う? 「優李を推したいって言っただろ。悪いけど、今回俺が紹介するのはシーレイじゃなくて優李単体。フェスに出るなら、俺との2ピースにして欲しい」  ぽかんとする。仙道は畳み掛けるように続けた。 「優李はベースとボーカル。俺がドラム。曲によってはシンセでもいい」  情報量が多くて追いつけない。仙道と2ピース? ボーカル? シンセ? 「……どうして俺だけ?」 「俺が優李とやりたいから」 「オミも一緒じゃだめなの?」  問うと、仙道は少し間を空けて答える。 「シーレイとして出ると、優李は歌えないだろ」  咄嗟に答えられなかった。事実ではある。オミが今の精神状態のままだと、優李はおろか他の誰もボーカルとして迎えられない。 「でも春フェスに出れるってなったら、オミも考えが変わると思うよ。俺は無理でも他に歌える人を探すだろうし」 「オミがいると、優李は音楽を楽しめない。俺は優李と本気で演りたいんだ」 「……それは」  それは無理だ。オミが一緒でなければ、優李は音楽をやらない。  ──そもそも、本気の演奏ってものが俺にはよくわからない。  急に目の前が暗くなった。自分が進めずにいる原因を見つけてしまった気がした。そのとき、ふいにオミの声が聞こえてきた。 「──で──が──」  遠くからこちらに近づいてくるようで、言葉は途切れ途切れにしか聞こえない。足音は二人分だ。誰かと一緒にいるらしい。仙道がハッとして、気まずげな視線を送ってくる。 「──から、来週あたり音源送ってくれる?」 「了解っす。ありがとうございます」  ──音源?  廊下の角から覗いてみると、部屋の前でオミと知らない男が立っていた。細身のグレースーツに身を包んだ大人の男だ。オミは音源を送ると言っていた。相手は芸能事務所の人だろうか。  期待が胸を走る。一日のうちでプロへの話が二件もくるなんて、いったいなにが起こっているのだろう。もしかして波がやってきたのか? 自然と口端が緩み始めたとき、スーツの男が「そういえば」と話を続けた。 「紀伊くん、今は2ピースバンド組んでるよね」  ──ん?  どういうことだ。シーレイの音源を受け取ろうとしているのではないのか。 「はい。つってもボーカルがいないんで、ほぼインストバンドなんですけど」 「もしうちでやっていくなら、バンドのほうはどうするの?」 「……まだ決めてないです」  オミが答えると、スーツの男は笑った。 「もう一人の子はベースだったよね? あの子も悪くはないんだけど、うちが買ってるのはあくまで君のギターで、探してるのもギターだけなんだ。そのあたり後腐れなくやってもらえると助かるなぁ」  頭を強く殴られたような衝撃があった。  あの男はやはり芸能事務所の人間なのだ。そしてオミを勧誘しにきている。それはオミだけで、シーレイではない。優李も一緒にではない。  オミの腕は確かだ。けれどそれは身内びいきの目もあると思っていた。違った。プロになれる実力がオミにはあるのだ。それはとてもすごいことで、喜ばしいことで、願ってもいないことだ。  だけど── 「……俺、さっきの話本気だから。一回断られたくらいじゃ諦めないよ」  背後で仙道が呟いた。混乱している頭の中をさらにかき混ぜられて、どうしたらいいのかわからなくなった。なにも答えられず呆然としたまま、高そうな靴の足音が離れていくのを聞いていた。すぐあとに扉が閉まる音もした。オミが部屋に入ったようだ。  ──まだ決めてないです。  あれはオミの本音だった。オミは今、優李と離れることを考え始めている。  それは優李にとって死に近い恐怖だ。  ふと、奏多と交わしたあの約束を思い出した。

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