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第16話  なによりもオミを

「動物園?」  仕事から上がって着替えていると、店長が唐突に白い封筒を渡してきた。封入されていたのは、上野動物園のペアチケットだった。 「貰い物なんだけど、良かったら使ってよ。僕、東京生まれ東京育ちだから、上野動物園なんて行き慣れちゃってるし。安室くん、上京してからろくに都内回ってないって言ってたよね」 「いいんですか?」  東京にきてから上野動物園はおろか、街へ買い物に出ることすらほとんどなかった。今は便利な世の中で、大抵のことは通販がなんとかしてくれる。遊ぶ暇なんてないと言いつつ、せっかく東京にきたのにどこへも行かないままというのもなんだかなと思ってはいた。  店長は頬に手を当て、にやけ顔をする。 「せっかくなんだから恋人と行ってらっしゃい」 「え?」  意表を突かれて店長を見た。店長はにやついた口端を隠そうともせず、ずいっと顔を近づけてくる。 「同棲してるんでしょう?」 「……え?」 「な、なんだって! 安室、どういうことだよ。お、おまえ、彼女いないって言ってたじゃねぇか!」  話を聞いていたらしい田淵が、吃音混じりで叫びながら駆け寄ってくる。優李は慌ててヘッドロックから逃れ、訳がわからないまま弁明した。 「違いますよ! 彼女いませんし、同棲もしてません。なんでそんな話に?」 「あれ、そうなの? でも一人暮らしではないよね?」 「と、友達です。幼馴染と一緒に上京したんで、そいつと同居してて……」  あわあわと否定すると、田淵が訝しげな目をした。 「幼馴染……女か?」 「なんでですか! 男ですよ!」  先入観をぶった斬ると、田淵は「なーんだ」とつまらなさそうに言った。 「まあ安室が女と同棲するわけないか」 「え? なんでですか?」 「だっておまえ、あんまり女得意じゃないだろ」  返事に窮する。図星だった。嫌いというほどではないけれど、女性と接するのは苦手だ。女性は怖い。話すときはやたら近いし、避けようとするとすぐに泣く。すると瞬く間に自分が悪者になる。女性の涙は武器とよく聞くけれど、優李にとってはほとんど凶器だ。 「もしかして店長のお仲間だったりする?」  田淵が思いついたように言って、心臓が跳ね上がった。  空気がしんと静まって、やってしまったと焦る。すぐに誤魔化すべきだった。けれど店長を前に強く否定するのも憚られる。というか、そもそも自分はゲイなのか? あまり考えたことがなかった……。  思考が一気に押し寄せてなにも言えずにいると、店長が口を挟んだ。 「ちょっと田淵くん。お仲間だろうが違かろうが、それはナンセンスな質問だよ。こっちがあれこれ妄想するのは勝手でも、口にしたり答えを聞こうとしちゃだめ。セクハラに該当します」 「す、すみません……」  セクハラという言葉に怯んだのか、田淵は顔を青くして優李に謝った。平気ですと笑いながら、優李の頭の中は自分への疑問でいっぱいだった。今まで自分がゲイだとは思っていなかったけれど、恋をした相手は男だ。ゲイなのかバイなのか、はたまたノーマルだけれどオミだけ特別なのか。自分はどれに該当するのだろう。  黙りこくって着替え始めた優李に、田淵はもう一度謝ってからそそくさと帰って行った。まだ事務仕事をしている店長と二人になる。改めてチケットの礼を告げると、店長は困り顔をした。 「ごめんねぇ。僕が余計なこと言っちゃったから、嫌な気分にさせたね」 「そんなことないですよ。それに田淵さんも、別にゲイに偏見があるわけじゃないと思います」 「本当にいい子だねぇ、君たち」  店長はしみじみ頷き、ふと真面目な表情になる。 「誰と行くかは置いておいて、たまには息抜きしておいで。安室くん、最近なにかあったでしょう」  言い当てられてぎくりとする。 「こんなでも店長だからね。スタッフの不調くらいは気づけるよ」 「……すみません。気をつけます」  まさか仕事にも響かせていたとは。自分の甘さが恥ずかしい。頭を下げると、店長は慌てたように言う。 「いやいや、責めてるんじゃないよ。ただのお節介だから気にしないで。それに安室くんには、これからもがんばってほしいと思ってるんだ」 「はい。それはもちろん」 「それでその、もし良かったらなんだけど、正社員を考えてみないかなって」  ──え?  突然の話に思考が止まった。 「安室くん、調理場に入ってもう二年経ってるよね。筆記の勉強もしなきゃいけないけど、調理師免許を取るつもりはないかな? 取得してもらえたら正規雇用できるし、給料もぐんと上がる。これまでの安室くんの働きを見て、僕はぜひお願いしたいと思ってるよ」  頬がじわりと熱くなった。店長にワッと抱きつきたいくらいの衝動が込み上げたけれど、そこはなんとか堪える。  努力が認められた。こんなに嬉しいことはない。 「お、俺……」  ぜひお願いします、と言おうとして、我に返る。  ──オミとシーレイをよろしくね。  約束が喉に絡みついた。ここで頷けばシーレイはどうなる? 正社員になればバンド活動はおそらくできない。それ以前に、試験勉強を始めたらベースの練習すらままならないだろう。  熱がするすると下がっていき、胸のうちに重い鉛が残った。 「……考えさせてもらえますか」  それだけ言うと、店長は少し意外そうな顔をした。けれどすぐに優しく微笑んで、もちろんと頷いた。 「あ、そのチケットには別に深い意味はないからね。今の話に関係なく使ってね。お土産よろしく」  軽やかに笑って店へ戻っていく店長の背中を見て、情けないやら申し訳ないやらで複雑な心境になった。外に出ると人混みにすぐ飲まれ、自分の小ささを殊更突き付けられるようだった。  帰路につく途中、スマホで調理師免許取得について検索する。とはいえ高校時代から考えていたことなので、ある程度の知識はある。幸いなことに、当時使っていた参考書もまだ手元にあった。問題集はさすがに買い直したほうがいいかもしれない。  ──二年以上の実務経験が必要。  ──試験はマークシート式。  ──合格率は60パーセント。  なるほどと頷きながら読んでいくうちに、はたと気づく。完全に受ける気満々ではないか。自分はバンドで成功したかったのではないのか? 上京までしておいてやりたいことさえ定まらない自分に辟易する。あまりにも浅はかだ。  あれから結局、仙道にはきちんと返事をしていない。オミにスーツの男との会話のことも聞けていない。自分がいったいどうしたいのかわからなくて、家の中でもオミを避けて生活している。  ──仮にバンドを諦めて就職するとしても、今のままはだめだ。  ちゃんと話をしよう。これは自分だけで決められることではない。なによりもオミを優先すると決めただろう。  決意とは裏腹に、このまま電車を降りずにいたいような気がしていた。

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