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第17話 自分だけの一番星
帰宅すると、オミは先に帰っていたようで、ナイキのスニーカーが玄関に転がっていた。向きを揃えて優李も靴を脱ぐ。するとちょうど、オミが自室から出てきた。部屋着のよれたスウェットを着ている。
「おかえりー。遅かったな」
「ただいま。うん、ちょっと店長と話してたから」
「そっか。飯食った?」
「まだ。オミは?」
「俺もまだ」
えっと声を上げてしまった。
「ごめん。すぐに用意するよ。残り物になるけど」
優李の帰りが遅くなる日、なにも言わなくてもオミは自分で食事を済ませることが多い。だから今日も気にしていなかったのだけど、まだ食べていなかったらしい。冷蔵庫にすぐ出せるものはあっただろうか。それか伝家の宝刀インスタントラーメンでも作るかと考えていると、オミが優李の前に仁王立ちで立ち塞がった。
「オミ?」
「おまえ、俺を赤ちゃんかなんかだと思ってんのか。俺だって飯くらい用意できる。おまえは今すぐ、風呂に浸かって疲れを取ってこい」
「えっ」
優李は固まった。この三年、いや十五年、オミが料理をしたことなんてあっただろうか。せいぜいお湯を沸かしてカップラーメンに注ぐ程度の光景しか見た覚えがない。
「あ、コンビニ? 行ってくれるの? じゃあお金……」
「馬鹿野郎。激務続きで疲れた身体にコンビニ飯なんて食わせるか」
「オミのところ、そんなに忙しいの?」
問うと、オミは呆れたようにこちらを見た。
「俺じゃねーよ。おまえのところ、毎年この時期は忙しいだろ。去年は俺も仕事に慣れてなくて役に立てなかったけど、今年は割と余裕あるから。家のことは多少任せろ」
──えええええ。
まさに青天の霹靂。天変地異の前触れかというほど衝撃だった。
三年間一緒に暮らしていても、優李たちはほとんど別々の生活を送っていた。部屋は二つあるし、それぞれのプライベートに立ち入るようなことはしないのが暗黙のルールだった。それでも二人分の家事が重なることは多々ある。料理や掃除は優李のほうが得意だから、自然と負担するようになっていた。男友達なんてそんなものだろう。
オミからはお礼の一つも言われたことがなかったというのに、なにか心境の変化でもあったのだろうか。
──あ。
あれか。デビューのことか。もしかして、解散を決めたのか。
「じゃあ、お言葉に甘えて……風呂行ってくる」
ヒヤリと冷たいものが背筋を流れて、逃げるように風呂場へ向かった。
昔なにかの小説で、別れ際に優しくする男は世界で一番ずるいと言う女の言葉があった。なにも知らずその優しさを喜んでしまった自分が馬鹿みたいだと、女は泣いていた。そのときはいまいち共感できなかったけれど、今は深く頷きたい。これは泣く。優しさが痛い。まだこれが別れ際なのだと知っている優李のほうが幾分かマシかもしれないけれど。
感傷的な気分でため息を洩らし、シャワーのノズルを回す。髪をざっと濡らしてシャンプーしようとしたら、ボトルの中身が空なことに気づいた。そういえば切らしていたのだと思い出して、シャワーを止めて一旦脱衣所へ戻る。洗面台の下にストックがあるはずと探していると、急に扉が開いた。
「え」
顔を上げると、優李の着替えを持ったオミが呆気に取られた顔で突っ立っていた。
「あれ、着替え持ってきてくれたの? ありがと」
シャンプーの詰め替えを片手に立ち上がると、オミはハッと我に返ったように目を丸くし、慌てて顔を背けた。
「わ、悪い! 着替え! ここ! 置いておくから!」
「え? ちょっと、オミ?」
ぶつ切りに大声を出して背中を向けたオミに声をかけると、足を滑らせたのか、こちらに向かって倒れ込んでくる。
「うおっ」
巻き込まれる形で優李も一緒にすっ転んだ。やけにスローモーションに視界が反転する。このままいけば、後頭部を風呂場の段差にぶつけるだろう。確実に痛いやつだ。なぜか冷静に状況を判断しているが、その痛みを想像すれば肝が冷えた。ぎゅっと目を瞑って衝撃に備える。
すると、なにかが首筋を支えてくれた。
「優李!」
「……お?」
目を開けると、焦った顔のオミがドアップで映り込んだ。ドキリと胸が高鳴り、思わず息を呑む。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
倒れる直前、オミが身体の向きを変えて支えてくれたらしい。優李はどこもぶつけることなくオミに抱え込まれている。急な至近距離に、頭が一瞬くらりと揺れた。
「ごめ──」
謝ろうとすると、オミの様子がおかしいことに気づいた。耳まで真っ赤にして、狼狽えたように目を泳がせている。
「……オミ?」
見たことのない反応に戸惑うと、オミはなにも言わずに脱衣所を飛び出していった。相当急いでいるのか、リビングの扉が強く閉まる音がする。
──なんだ?
訳がわからないままシャワーを浴び、せっかく溜めてくれた湯にはあまり長く浸からず風呂を出た。ドライヤーで髪を乾かしている最中も、さっきのオミはいったいなんだったのかと考える。というか、今日はずっと変だ。……やはり解散の決意を固めたのだろうか。
結局ろくに疲れも取れないままリビングへ戻った。テーブルには夕飯が用意されている。炒飯と卵スープ、トマトのサラダ。思っていた以上にちゃんとした食卓だ。風呂から出たら夕飯が並んでいるなんて、何年ぶりだろう。夢のような光景に震えるほど感動した。
「めっちゃ美味しそう。いつの間に料理できるようになったの?」
「料理ってほどでもねーよ。市販の素使っただけだし」
「それも立派な料理だよ」
いただきます、と手を合わせる。オミも続いて手を合わせ、ほぼ同時に炒飯を口へ運んだ。
「うん、やっぱり美味しい」
確かに市販の素の味だけど、オミが作ってくれたという事実が最高のスパイスになっている。本当に美味しい。
じっくり味わいながら食べていると、オミが箸を止めた。なにやら難しい顔をして、テーブルの真ん中をじっと見つめている。
「どうした?」
問うと、オミはぐっと眉根を寄せ、申し訳なさそうな目をした。
「優李。さっきはごめん」
「さっき?」
「風呂場の……」
思い出して耳端が熱くなった。よく考えたらすごいシチュエーションだったのだ。今にもキスしそうな近距離に加え、自分は素っ裸だった。
「いや、あれはだって、助けてくれたんじゃん。あのまま転んでたら頭ぶつけてたよ」
しどろもどろに答える。オミは首を横に振った。
「でも、気持ち悪い思いさせただろ」
「え、気持ち悪い?」
なにがだと首を傾げる。
「幼馴染っつっても、ゲイに裸見られるなんて嫌だろ」
思わずぽかんとする。
──今、なんて?
「本当にごめんな。ずっと気をつけてたんだけど、これからはもっと注意する。なんなら脱衣所に鍵付けてもいいし……いや、それは大家に相談しないとだめだっけか?」
「ちょ、ちょっと待って」
勝手に話を進めるオミを止め、頭の中を整理する。
「オミってゲイだったの?」
とにかく一番大きな疑問を先に解消する。オミは目を丸くした。
「今さらか? 俺と奏多が付き合ってたの知ってんだろ」
「そりゃ知ってるけど……」
知っている。一番近くで見ていたのだから。
確かに奏多は男だ。男と付き合っていたのだから、オミはゲイなのだ。いや、バイという可能性もあるけれど、本人がゲイだと言うのならそうなのだろう。
「上京するとき、一緒に生活する上で、優李には絶対不快な思いさせないって決めたんだよ。俺なりにこの三年結構気ぃ張ってきたんだけど、今日のはマジで油断した。本当にごめん」
気を張っていたという一言に衝撃を受けた。
うまく暮らしていると思っていたのは自分だけだったのか? 悲しさが胸に広がって、やりきれなさを噛み締める。不自由をさせているなんて気づかなかった。生活のすれ違いや微妙な距離感は、男友達ならこんなものなのだと思うようにしていたのだ。まさかオミが気を回していたなんて。そんなこと、しなくていいのに。
──だって俺も……。
「とにかく、これからはもっと気をつけるからさ。なにか気になることとかあったら、いつでも言ってくれよ。優李に嫌な思いをさせたくないんだよ」
「……うん、わかった」
頷くと、オミはホッと緊張を解いた。柔らかい表情を見て、罪悪感がちくりと刺さる。
自分もゲイだと言えば、オミはもっと自由に暮らせるのかもしれない。だけど言えなかった。本当のところはどうなのか自分でもよくわからないのだ。オミのことが好きで、好きすぎて、オミ以外はそういう対象にならない。優李にとってオミは初恋だった。他の誰かを好きになったとき、ようやく自分がゲイなのかバイなのか判断できる。けれど──そんな日がくるとは思えない。
そのあとも至れり尽くせりで、なんと食後の洗い物まですべてオミがやってくれた。食卓についたままぼんやりしていると、オミが洗濯物を取り込んでくると言ってベランダに出て行った。ハッと我に返り、慌てて追いかけてハンガーを引っ掴む。
「お、俺もやる」
「今日はもうゆっくりりしろって」
「一緒にやれば早いよ」
ハンガーから服を抜き取り、オミに手渡した。オミは納得できていない顔のまま受け取り、それを部屋の中へ放り込む。二人三脚で取り込んでいくと、いつもの数倍早く終わった。畳むのは明日にすると言ったオミに小さな笑いがこぼれる。たぶん面倒くさいんだろう。気持ちはわかる。自分も洗濯物を畳むのが家事の中で一番嫌いだ。
ハンガーを片付けていると、ふとオミが声を上げた。
「一番星見っけ」
子供みたいな言い方をして空を見上げるオミに釣られ、優李も顔を上げる。東京の夜空は汚れているイメージがあったけれど、住宅街までこれば案外そうでもない。
とはいえオミが見つめている先に一番星はなかった。どう見ても微かな輝きしか放っていない小さい星だ。
「あれ一番星じゃなくない?」
「え? 俺が今日最初に見つけた星だぞ」
「え?」
どういうことだよと訊くと、
「一番星って、その日最初に見つけた星のことだろ」
と真顔で言われた。
「……違うでしょ。その日一番大きく輝いてる星のことだよ」
「え、マジ?」
オミは驚いたように口を開けて固まった。優李はそれを見て笑ったけれど、急に不安になった。本当にそうだっただろうか。……ソースはどこだっただろう。
「いや、ちょっと自信なくなった。どっちだったかな。オミのほうが正しいかも」
「なんだよそれ」
オミは屈託なく笑った。大きな口から八重歯がチラリと覗く。
「優李の説でいくと、今夜の一番星はあれか」
オミが指した星は一際強い輝きを放っていて、文句の付け所がない立派な一番星だった。
「……いや、俺はオミの説を推すよ」
その日、自分が最初に見つけた星。自分だけの一番星。強さも大きさも関係なく、ただ毎夜自分が目印にできる光。
──俺にとってのオミで、オミにとっての奏多だ。
しばらく静かに夜空を眺めていると、オミが豪快なくしゃみをして、鼻水だらだらの不細工な顔でこちらを見てきた。数秒見つめ合い、互いに吹き出す。
汚いな、まったく。袖で鼻水を拭くオミに呆れ笑いをこぼす。オミは自分で汚したくせに「汚ぇ」と顔をしかめた。久しぶりの和やかな空気に、この雰囲気なら切り出せるのではないかと思いつく。
「オミ、あのさ」
「ん?」
シーレイは解散するのか? ソロデビューが決まったのか?
訊こうとして、だけど嫌味っぽく聞こえたらどうしようと不安になる。
「……今度、動物園行かない?」
「動物園?」
結局言えず、咄嗟に思い出したチケットのことを話す。男二人で動物園なんて断られるだろうなと思っていたけれど、
「行く! こっちきてから全然遊べてねぇし、このままじゃ東京人になれねぇよ」
と、意外にもオミは乗り気だった。おまえ東京人になりたかったのかと笑うと、オミは不貞腐れたような顔をした。
互いの仕事が一段落したら行こうと約束して、最後にもう一度空を見上げた。今日もお疲れさま、また明日。そんな優しい声が遠くから聞こえてきそうな、穏やかな夜だった。
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