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第19話  そんなことってあるかよ

第三章  正直なところ、自分は完全に社会を舐めた子供だったと思う。はじめて労働を経験した日からおよそ三年経つけれど、当初と変わらず怒られてばかりの日々だ。 「遅いぞ、紀伊! 現場には最低三十分前に入れって言っただろうが」 「すんません!」  ペコペコと頭を下げてインカムをつける。出勤時間の三十分前には出勤しろと言うのなら、そもそもの出勤時間を三十分前に設定して欲しいところだ。しかしそうなると時給が発生するので、会社としてはあくまで自主的な早出を期待しているのだろう。まったくケチな会社だ。  高校をなんとか卒業してすぐ上京し、広臣はまず派遣会社にスタッフ登録をした。主にイベントスタッフを募集している会社だったので、バンド活動になにか活かせるかもしれないと思ったのだ。しかし実際の仕事内容は完全なる体力勝負で、初日からいきなり大後悔した。体力がないほうではないけれど、バンドの練習も重なると一日の活動限界を優に超える。帰宅した頃にはぐったりしてしまい、最初の頃は食事すらままならなかった。見兼ねた優李が食べやすい軽食をいつも用意してくれるようになり、なんとかぶっ倒れずに済んだものだ。  一年ほど経った頃、派遣のバイトは減らして音楽スタジオの手伝いをすることにした。こちらもただのバイトだが、プライベートで利用する場合ルーム貸出料が割引されるという特典がある。諸費用を二人で割り勘しているシーレイにとってはありがたい話だった。仕事内容もそんなに大変ではないし、最初からここにしておけばよかったと何度後悔したことか。その特典も、今はなかなか利用する機会がないわけだけれど……。 「はあああ……」  人目も憚らず特大ため息を洩らすと、隣のスタッフが怪訝な顔をした。  今日の派遣先は小さなライブハウスで、広臣は外で入場前観客の誘導を割り振られた。次々やってくる客たちを整列場所へと誘導する。今日はヴィジュアル系バンドのライブらしく、派手な女の子が多かった。男もちらほら見かけたので、男女問わず支持されるグループなのだろう。ライブ前の独特な緊張感を味わっていると、向上心が刺激される。自分たちもワンマンライブできるくらいにがんばろうと、いつもの広臣なら思っていたことだろう。しかし今日はそうもいかない。  広臣は昨日、優李から解散を申し出されたばかりなのだ。  優李が音楽をやめて料理人になりたいと言い出したとき、寝耳に水というほど驚いたわけではなかった。優李の作る飯は最高に美味いし、栄養バランスもばっちりだ。料理人は優李にとって天職だろう。バンドの練習よりもバイトのほうが楽しそうなことにも気づいていた。だからもしあいつがいつか音楽よりも料理の道に行きたいと言い出したら、応援しようと決めていた。  だけど、まさか高校生のころから考えていたなんて思いもしなかった……。  広臣たちがバンドを始めたのは中学生のときだ。それからたった数年で音楽の道を見限り、別の人生を考え始めていたことがショックだった。それならそうと最初から言ってくれればよかったではないか。そうしたら東京まで連れてきたりはしなかった。この数年、ずっと無理に付き合ってくれていたのかと思うと腹立たしさすらある。  ──『オミとシーレイをよろしく』って頼まれた。  ──その約束のためだけに、今日までやってきたんだ。  優李は音楽が好きで、自分の意志のもとでベースを弾いているのだと思い込んでいた。けれど違った。  幼馴染だから、広臣と奏多に合わせてくれているだけだったのだ。  奏多が死んでからは、託されたという責任感ゆえに東京にまでついてきてくれた。ずっとずっと我慢を強いられて、ついに爆発して音楽をやめると言い出したのが昨日だ。つまり優李は中学生の頃から昨日まで十数年、広臣たちを気遣っていただけということになる。  ──そんなことってあるかよ。  そう詰め寄りたくなるほど、それは広臣にとって悲しすぎる真実だった。しかし優李だけが悪いわけでもない。  昨日の様子からすると、優李は相当深く悩んでいたのだろうと思う。やめると言い出せない空気を自分が作っていたのかもしれない。奏多との約束と広臣という存在によって、優李は二重の足枷を嵌められていた。我慢をさせてしまったのは広臣自身だ。もっと早く優李の気持ちに気づけていたら、あんなふうに泣かせることもなかったのに。 『おい、紀伊! ボケっとしてんな!』  インカムから名指しで怒鳴られ、思わずびくりとする。近くにいた別のスタッフに笑われてしまった。慌てて仕事に戻るけれど、それからもミスの連続で怒鳴られ続けた。  ようやく仕事が終わり、着替えながらスマホを確認する。優李から連絡はない。今朝は広臣が起きる前に出て行ったようだった。よくあることなのだが、今日に限っては置き去りにされたような気分になり、そこはかとない切なさを感じた。  いつまでも悔やんでいても仕方ない。とりあえず帰ったらもう一度優李と話をしよう。そう決意していたというのに、先輩に絡まれて酒に付き合わされた。大事な用事があるので飲めないと言ってもしつこく勧められる。途中で面倒くさくなって、 「俺ゲイなんで、酒飲むと、先輩……やばいかもっすよ」  と真顔で言ってみた。  先輩は呆気に取られた様子だったけれど、それからすぐに解散できたので、効果は抜群だったようだ。しかし次の派遣時が億劫だ。あの先輩、絶対に口が軽い……。  あーあ、と今日何度目かのため息を吐いて帰路につく。十一月までの街並みは暖かみも残る色合いだったけれど、十二月に入ると一気に冬の色に彩られた。ハロウィン前からそのまま使われているイルミネーションも、サンタやトナカイの電飾と並べられるとまた違った雰囲気になるものだ。通りによってはまだかぼちゃのランタンが片付けられていないところもあった。世間はすっかりクリスマスムードだというのに、そこだけ時代に取り残されているかのような廃れたさみしさが漂っている。  息を吐き出した。まだ白くならない。だけど冬は確実に近づいていた。  ふと、昨日の会話をまた思い出す。  ──俺、オミが好き。  あれはさすがに驚いた。びっくりしすぎて一瞬心臓が止まったけれど、頭は案外冷静だった。  優李のそれは恋愛的な意味ではない。幼馴染として自分を好いてくれていて、だから音楽をやめると言い出せなかったという意味だろう。うっかり自分に都合のいいほうで捉えそうになったけれど、なんとか思い留まった。  ──ゲイの初恋相手もたまたまゲイである確率なんて、0を数えるのも億劫になるほどの低確率だ。  奏多が生きていたら、きっとそう言って呆れた顔をするのだろう。

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