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第20話  偽物の恋人

 あの冬、奏多の訃報を聞いて先にスタジオを飛び出したのは優李のほうだった。  荷物もなにもかも放り出して駆け出した優李の背中を見て、広臣はぽかんとその場に立ち尽くした。脳とは本当に衝撃を受けるとあらゆる活動を取りやめるものらしく、急に目の前が真っ白な世界になった。一面が雪景色かのような、美しい白だ。  ──死んだ?  ──誰が?  ──奏多。  ──奏多が死んだ。  なんとなく、ギターの弦を爪で弾く。微力で掠める程度のつもりだったはずが、やけに鈍くて大きな音が鳴った。  ようやく現実が戻ってきて、広臣はすぐにギターをケースへ仕舞った。買ってきたばかりのコンビニの袋を鞄に突っ込み、優李の鞄とベースも持って部屋を出る。スタジオの貸出時間はまだ残っているけれど、もう戻ってこないのに借りたままでいるのも悪い。受付に使用料を払い、事情を説明して大きな荷物だけ預かってもらった。  外に出ると、つんざくような寒気が身を震わせた。クリスマスの浮かれた街中を一人で横切る。駅に着く前にスマホを取り出し、対バン主催に連絡を入れた。ドタキャンかよとすこぶる不機嫌な返事がきたけれど、メンバーの訃報を伝えると、途端に畏まった文で了承された。  改札をくぐったあと、どこに行けばいいのかわからないことに気づいた。病院か? 家か? 優李はどこへ行ったのだろう。すぐに優李に電話をかけたけれど、一向に出ない。悩んだ末、自分の親に聞くことにした。マンションの隣室の息子が死んだのだ。なにも知らないはずないだろう。予想は的中して、広臣の母親はちょうど奏多の母親と一緒にいるところだった。病院の名前を覚え、ネットで場所を検索する。  電車に乗って揺られている間、今度はメッセージを優李に送っておいた。今どこにいるか尋ねたけれど、既読にならない。そのまま駅に到着し、スマホをサイレントモードに切り替えて病院へ向かった。  奏多の遺体はすでに霊安室へ移されていた。部屋の外で三人の母親たちが抱きしめ合って泣いている。到着した広臣を見て、泣き声はいっそう甲高くなった。悲痛な叫びを背に室内へ入ると、優李と奏多の父親がいた。 「広臣くん」 「おじさん……」  奏多の父親は真っ青な顔で広臣に頭を下げた。ありがとう、ごめんな。そう呟いてから部屋を出ていく。 「……俺、知らなかったんだけど、病院の霊安室って三時間しか借りれないんだって。だからこれからすぐ、通夜の準備をしなきゃいけないみたい」  優李が静かに言った。広臣も知らなかった。ということは、おじさんたちはろくに悲しむ暇もなく葬儀の手配を余儀なくされるのか。さっき死んだばかりの息子を前に、もう身体を燃やす準備を?  ──人間って、そんなに簡単なものなのか?  とは思いつつも、病院や葬儀社側の都合があることはわかっている。広臣が憤慨したところでなんの意味もない。  少し前に出て、優李の隣に並ぶ。ベッドに横たわり、真っ白なシーツを被った奏多を見た。  本当に、本当に……死んでいるのか?  その顔は安らかに眠っているようにしか見えなかった。人はこんなに綺麗に死ぬものなのかと、疑問すら湧いた。それとも──奏多だから、美しいと思うのだろうか。  真っ白な肌は雪のようで、触れずともその冷たさを彷彿とさせた。  寝顔と大して変わらないのに、そこに命はもうないのだ。  実感がじわじわ湧いてきて、頭の中に黒い染みが生まれた。手が震える。奏多に触れたいけれど、そうしたらきっと泣いてしまう。怖い。ひどく怖い。  躊躇っていると、優李が奏多に手を伸ばした。頬に触れ、冷たいと呟く。温めるように摩った。何度も何度も摩り続けて、ついに諦めたように脱力する。 「……俺、先に出るね。スタジオに荷物置きっぱなしだから、一回戻って取ってくるよ」 「受付に預けてある」  そう言うと、優李は驚いた顔をした。 「今日の対バンもキャンセルしといたから」 「ありがとう。任せっきりにしちゃってごめん。俺、余裕なくて……」  涙声の優李に言われて、頭に雷が落ちたかのような衝撃を受けた。  ──余裕?  そうだ。自分には余裕があった。スタジオに金を払い、荷物を預け、ライブをキャンセルする。通常のトラブルが起きた場合と同じように、やるべきことをやってからここにこられた。  自分の恋人が死んだというのに?  ──いや。  膝から力が抜けた。手をつく場所が他になく、ベッドの端に寄りかかる。奏多の遺体に少し触れた。これが人間だったとは思えないほど、冷たく硬い。悲しみよりも恐怖がドッと湧いて息苦しくなった。  奏多は恋人だった。だけど広臣は奏多を好きだったわけではない。  自分たちは偽物の恋人だった。本物になろうと努力はしたけれど、ついぞ叶うことはなかった。  ──ごめん。奏多。ごめん。  好きになれなくて、ごめん。  あまりに卑しくて口にはできなかった。  自分の汚さを目の当たりにして、急激な吐き気を催した。嗚咽を洩らしながら霊安室を出る。そんな広臣を、母親たちは悲しくて泣いていると勘違いしたようだった。その様子にホッとしてしまう自分の汚さにまた吐きそうになり、いっそのこと誰かに責められたいと思った。だけどそれも、やはり汚く醜い本性だ。  頭のてっぺんから爪の先まで、内臓もなにもかもが真っ黒に腐敗している。自分は最低だ。この世界の誰よりも最低最悪な人間だ。  ぺたぺたと足音を鳴らし、病院の廊下を進む。スタジオには向かわず、家とは反対のどこともわからないほうへひたすらまっすぐ歩いた。

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