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第21話  浅はかな偽善

 中三の夏、奏多と付き合うことになった。奏多から言い出したことだった。 「僕、男が好きなんだ」  家庭教師の男に襲われた日、優李が帰ったあとの部屋で奏多にそう告げられた。最初はこんなときに冗談かよと思ったけれど、顔を見て本気だと理解した。奏多は言いづらいことを言うときほどよく笑う。笑顔の裏に恐怖心を隠している。少し震えた口端を見て、そうかと短く返事をした。 「だから、あの人に襲われたことは親以外の誰にもバレたくない。警察にも」 「それとこれとは話が別だろ」 「僕もあの人と同じ、本物のゲイなんだよ」  だからなんだよ、と疑問をぶつける。すると奏多は長いため息を吐いた。 「人の噂って、本当に怖いんだよ。どこでどう尾鰭がつくかわからない」  ますます意味がわからなかった。広臣が解せぬ顔をしていることに気づいたのか、奏多は力なく笑って、 「もし僕もゲイなんじゃないかって噂が流れたら、僕は死にたくなる」  と呟いた。  広臣はハッとした。杞憂だったとしても、奏多にとっては死活問題なのだ。噂は一度流れると止まらない。男に襲われたという事実は決して奏多をゲイと決めつけるものではないけれど、曲解して連想する人はいるかもしれない。そのとき奏多はひどく傷つくだろう。  本物のゲイだからこそ、小さな噂話にも敏感になってしまう。根拠がなくても、自分をゲイと結びつけられた時点で地獄だ。  奏多の気持ちを汲んで、親たちには穏便に事を済ますようお願いした。警察に通報するつもりだったらしい奏多の親は反対したけれど、奏多がどうしてもと食い下がったので渋々了承していた。その隣で、広臣の親がホッとした顔をしている。自分たちの息子が相手を過剰に殴ったことに気づいているのだろう。奏多の部屋の惨状を見れば明らかだ。血のついたカーペットは弁償することになった。  唯一、優李の母親だけが最後まで難しい顔をしていた。奏多と二人で部屋に戻る直前、 「もし気持ちが変わったらいつでも相談しなさい。おばさんが社会的に相手を抹殺してあげる」  と耳打ちされた。怒った顔が優李にそっくりだった。  たぶん、優李も同じことを考えているだろう。広臣が暴力でしか解決できないことを、優李はいつも冷静に正しい方法で丸く収める。  ──そういえば優李、なんか顔が赤かったな。  奏多の部屋にきた優李の頬が微かに赤かったことを思い出した。塾を出る前なにやら揉めていた気がするけれど、あまりちゃんと見ていなかったのでなにがあったのかわからない。また中西が妙な因縁をつけてきたのだろうか。気になるけれど、とにかく今は奏多を寝かしつけるほうが先だ。  奏多が薬を飲むのをしっかり確認し、ベッドに入らせた。広臣は床に座って奏多が眠るまで待つ。今日は泊まっていこうかと訊くと、奏多は弱々しく首を横に振った。 「身体の調子が悪いわけじゃないし、大丈夫。ありがとう」 「俺にできることがあれば言えよ」  そう言うと、奏多はしばらく黙った。やがて意を決したように頷き、 「なら、お願いがあるんだけど」  と固い笑顔で言った。 「おう。任せろ」 「まだなんのお願いか言ってないのに、任せていいの?」 「どんな願いでも叶えてやる」 「ドラえもんかよ」  くだらないやりとりで肩の力が抜けたのか、奏多は表情を和らげた。ベッドの中から広臣を見上げて、一拍置いたあと、 「僕と付き合ってほしい」  と言った。 「……どこに?」  しばらくフリーズして、ようやくそう口にした。 「言うと思った」  奏多は呆れ笑う。しかし広臣は笑えなかった。さっきの会話のあとだと、そういう意味に聞こえる。 「そういう意味の『付き合う』だよ」  心の中を読まれてドキリとする。え、あ、う、と意味のない音しか発さない広臣を置いてきぼりにして、奏多は先を続けた。 「僕と恋人になってよ」  恋人、という単語を聞いて、心臓が大きく飛び跳ねた。中学生になってから周囲に交際を始める人も増えてきたけれど、広臣にとってそれはまだ未知の世界だ。 「……なんで俺なんだよ?」 「だってオミも同じでしょ」  時間が止まった。  いきなり喉元を鷲掴みされたような、潰れた音が出た。 「え、っと……」 「オミ、優李が好きなんでしょ」  冷や汗がドッと噴き出た。  ──どうしてだ。どうしてバレた?  瞬きもできず、奏多を凝視した。奏多も目を逸らさず、睨み合う形になる。実際には数分程度の沈黙だったけれど、途方もない時間が過ぎたような気がした。  ひたひたと恐怖が迫ってくる。肯定も否定もできない広臣を、奏多は憐れむような目で見た。 「何年一緒にいると思ってるの? わかるに決まってるでしょ。まあ、優李はまったく気づいてないみたいだけど」 「お、おまえ、気づいてて、なんで……」 「なんで付き合えって言うのかって? 興味本位だよ」  ──興味本位だって?  本当なのか嘘なのか、奏多の表情だけでは判断つかなかった。奏多は昔から突拍子もないことを言うところがあるので、あながち嘘でもない気がする。それにゲイ同士の付き合いに興味が湧く気持ちは、広臣にも理解できるところがあった。  自分から奏多へ、愛はあると思う。だけどそれは親愛や友愛や敬愛とか、そういう類のものだ。恋愛ではない。広臣が恋をしているのは優李だ。奏多ではない。  ──絶対、バレてないと思ってたのに。  自覚したのは小学生の頃。いつかの夏の夜、優李と一緒の布団でイヤホンを分け合って音楽を聴いたことがある。本人は気づいていなかったけれど、優李は時折うつらうつらと眠気に負けそうになっていた。そのときの蕩けそうな顔があまりに可愛くて、思わずぎゅっと抱きしめたくなるほどだった。あの夜は心臓が痛くてまったく寝付けなかったことを、何年経っても覚えている。  意識し始めると、無意識に目で追うようになった。優李は密かに他人を気遣う。あまりに自然とそうするものだから、気遣われたこちら側が気づけないくらいだ。  いつも広臣と奏多のことを大切にしてくれている。優李と一緒にいると、心が凪いで優しい音で満たされた。しかしふとした瞬間、激しく燃え上がるような熱を帯びることもある。会いたくて苦しくなる日がある。恋愛的な意味で好きなのだと気づくのに、時間はかからなかった。  ずっと、この恋心をひた隠しにしてきた。理由は奏多と同じだ。ゲイだと知られたくなかった。それがここでは異様なことであると知っていたのだ。誰か一人にでも知られてしまったら、瞬く間に生きる場所を失う。奏多と優李のそばにいられなくなる。それは絶対に嫌だった。  ──まさか、奏多もゲイとは……。  そんな素振りはまったくなかったものだから、素直に驚いた。嬉しかったのも事実だ。こんなに近くに仲間がいたなんて。だけど── 「俺は優李が好きだから……」  はっきり言葉にしたのははじめてで、胸のうちが灼かれるように熱くなった。  奏多は掛け布団をぎゅっと握り、ほんの少し身体を浮かせた。覗き込まれ、抑揚のない小さな声で囁かれる。 「優李はゲイじゃないよ。オミの恋は叶わない」  思わずカッとなり、奏多の肩を掴んでしまった。細い身体が震える。すぐに我に返って離したけれど、腹の虫は収まらず眉間に皺が寄った。  そんなことは言われなくてもわかっている。  けれど、可能性がないとわかっていても、どうしようもなく加速するのが恋だろう。  自分はもう、この恋の終着点を決めている。叶わなくてもいいのだ。恋人になることを望んでいるわけではない。ただずっと一緒にいられれば、どんな関係でもいい。  怒りを堪えている広臣に気づいているのかいないのか、奏多は挑発的な視線を下げない。けれど言い過ぎたとは思ったようで、小さくごめんと謝ったあと、 「僕はきっと長生きできないから、オミが次の恋をするまででいい。僕の我儘に付き合って。お願いだよ、オミ」  と懇願された。試すような目をしているくせに、どこか泣きそうに潤んでいて、どうしようもない庇護欲に駆られる。そもそも自分は奏多の「お願い」にはめっぽう弱いのだ。幼い頃からの癖が染み付いている。 「……わかった」  間違っているとわかっていながら受け入れてしまった。広臣が頷くと、奏多は嬉しそうに微笑んだ。罪悪感が一気に押し寄せて、訂正しようと口を開きかける。けれど今さら断れる空気でもない。  それに……。  ──僕はきっと長生きできないから。  そんなことはないだろう、とは言えなかった。言えないことがなにより苦しかった。  心配する傍ら、心のどこかで、奏多は長く生きられないものだと納得している自分がいる。抗えないことなのだと受け入れてしまっている。だからこそ、奏多の願いはなんでも叶えてやりたかった。幼馴染として、自分にできることはすべてしてあげたい。生きている間は幸せでいてほしい。  それはとても浅はかな偽善だったと思う。だけどこのとき広臣はまだ子供で、なんでも叶えてあげることが奏多の幸せなのだと、信じて疑わなかった。  この日の後悔は二つある。一つは、奏多からのSOSで頭がいっぱいになり優李を塾に置いてきたこと。そしてもう一つは、奏多の本音に気づけなかったことだ。

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