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第25話  一人と一人には

最終章  久しぶりの我が家は去年と特に変わりなく、丸々一年空けていたというのに自室も綺麗に手入れされていた。埃一つない部屋は逆に居心地が悪い。荷物だけを部屋に置いてリビングのソファでぐだぐだしていると、前回会ったときよりも少し痩せた母さんに、 「居ると居るで邪魔ね」  と身も蓋もない文句をつけられた。仕方なく起き上がり、キッチンへ向かう。冷蔵庫にしまっておいたタッパーを取り出して、東京土産の紙袋に入れた。掃除に洗濯にと忙しなく動き回っていた母さんが動きを止める。 「あら、もう行くの?」 「予定よりちょっと早いけど、墓参りしてくる」 「母さんも後で行くから。佳恵さんによろしく伝えておいてね」  了解と返事をして家を出る。数メートル進んでインターホンを鳴らした。  佳恵さんというのは奏多の母親のことだ。今日は十二月二十四日。去年と同じように休みをもらい、今朝着の夜行バスで地元に帰ってきた。今日は生憎の曇り空で、夜には雪が降るかもしれないらしい。世間はホワイトクリスマスだと騒いでいるけれど、優李はまるで奏多が泣いているようだなと思った。 「優李ちゃん、いらっしゃい。今年もありがとうね」  未だに優李のことをちゃん付けで呼ぶ佳恵さんは、母さん以上に痩せたように見える。頬はこけて血色が悪く、唇は乾燥していた。奏多と似て美しかった佳恵さんの影はそこになく、愛息子の死を三年経っても受け入れられていない様子が見て取れる。玄関に招き入れてくれた手首も驚くほど細くて、亡くなる直前の奏多の手首を思い出してゾッとした。  母さんはダイエットをしていると言っていたけれど、佳恵さんはそういう理由で細いわけではないだろう。このままではいつか身体を壊すのではないかと不安になり、 「おばさん、おかず作ってきたから食べてね。絶対だよ。全部だよ」  と念を押すように強く言った。佳恵さんは弱々しく笑って頷いた。 「そういえば、優李ちゃんに渡すものがあったのよ。ちょっと待っててね」  佳恵さんは部屋の奥に引っ込むと、しばらくして一通の封筒を手に戻ってきた。手紙のようだ。  表側には、見覚えのある字で「優李」と書いてあった。繊細で整った筆跡は奏多の性格を表している。懐かしさが込み上げ、うっかり泣きそうになった。 「部屋の整理に時間がかかっちゃって今頃になったけど、奏多からあなたたちへ。中は見てないから安心してね」  視線を上げると、佳恵さんは母親の顔で笑っていた。礼を告げて玄関を出る。少し迷って、手紙は一旦ポケットの中に仕舞った。  マンションを出ると湿ったにおいがした。雨か雪が降りそうな気配だ。早めに出て正解だったなと思いながら地元道を歩く。着慣れない喪服と履き慣れない革靴は窮屈で、一歩進むたびに爪先が少し痛んだ。  奏多が眠る墓はマンションからほど近い場所にあり、あまり寒さを感じない間に到着した。広大な霊園の中は油断すると迷ってしまいそうだ。入り口にある小さな花屋で献花を買い、以前の記憶を辿りながら進んだ。 「久しぶり、奏多」  墓石はとても綺麗だった。常日頃から丁寧に手入れされていることが窺える。花を添えて、手前に東京土産のお菓子と寒天が入ったタッパーを置いた。  手を合わせ、目を瞑る。話したいことが山のようにあって、どこから切り出せばいいかわからない。どうしようか悩んでいると、ふと手紙の存在を思い出した。諸々を報告する前にまずは読もう、とポケットから取り出す。きっちり封がしてあって、破かないように慎重に開いた。冷えてきた指先でそっと開き、細い字で綴られた言葉を目で追う。  優李へ  優李と幼馴染だったことは、僕の人生で一番大きな誇りでした。  僕は、二人のことが世界で一番大好きです。  どうかこの先は、二人で幸せになってください。  たった三行の、短い手紙だった。それでも優李の心を揺さぶるには十分だった。  ──俺だって、大好きだよ。  たった一つのシンプルな答えで胸がいっぱいになる。  堪える間もなく涙が溢れ、思わずしゃがみ込んだ。黒い革靴の上に雫が落ちる。一粒滲んだら、すぐに次の雫がやってくる。どんどん濡れていく爪先をじっと見つめる。泣いてばかりの最近を思い出して情けない気持ちになった。自分はいったい、いつからこんなに弱くなったのだろう。  立ち上がる気力がなく、しゃがんだまま目を瞑った。子供のように膝を抱え、一つずつ奏多に告げていく。  ──奏多、ごめん。俺、シーレイを終わらせちゃったよ。  ──本当は音楽じゃなくて、料理がしたかったんだ。  ──おまえは気づいてたのかな。  ──だけどおまえが歌ってたこと、ずっと忘れないから。  ──それから……。  砂利を踏む足音がした。姿は見えないけれど、それが誰なのかすぐにわかった。顔は上げず、そのまま目を瞑り続ける。まずは奏多に先に伝えたかった。なにもかも、すべてを話してしまいたかった。  ──それから、俺、広臣を好きでいてもいいかな。  許しを乞うように問いかけた。当然だが返事は返ってこない。  きっと自分はすごくずるいことをしている。奏多は天国で怒っているかもしれない。  だけどどうしても、この恋から逃げられない。 「俺、オミが好きだよ」  背後にいるオミにそう告げた。好きだと口にするのは二度目だけれど、つい洩らしてしまった前回とは違って、今回はオミからの答えが欲しくて伝えた。  この間のキスはなんだったのか。どうして自分に触れてきたのか。どうして泣きそうな顔をしたのか。オミはいったい、なにに苦しんでいるのか。  問いたいことばかりだったけれど、黙って返事を待った。背後の気配が隣に移動する。そっと見てみると、オミも優李と同じように喪服に身を包んでいた。だけど足元はいつものスニーカーなのがオミらしい。  墓前に花を置き、オミはしばらく手を合わせた。静かな霊園の中で、自分の心臓の音だけが聞こえてくる。やがてオミは長い息を一つ吐き、優李の隣にしゃがみ込んだ。お互い目を合わせることはなく、じっと墓を見つめる。 「俺もだよ」  ふいに、オミがそう言った。優李が息を呑むと、 「俺も、優李が好きだ」  と言い直された。  頭の中で、なにかがカチリと嵌った音がした。長い旅を終えたような、大きな安堵感に包まれる。  冷え切った全身に温もりが広がり、膝から力が抜けた。その場で尻もちをつくと、オミはびっくりしたように目を丸くして笑った。  一緒になって地べたに座り込み、奏多の墓を見上げる。墓石に薄い水玉模様ができていた。上空を見ると雪が降り始めていて、胸にまだ残っている罪悪感が音を立てた。  奏多が天国で泣いている。あの真っ黒で大きな瞳を潤ませて、地上に雪を降らせている。  ──ごめんな、奏多。  オミを見ると目が合った。同じタイミングで振り向いていたことに驚いて身を捩ると、オミは優李の身体を強く引き寄せた。ふわりと香ったオミのにおいに、言い表しようのない愛しさが込み上げる。 「誰を傷つけても、オミが好きだ……」  涙混じりの声になった。オミは腕にいっそう力を込め、 「おまえは誰も傷つけてない。傷つけるのはいつも俺だ」  と、懺悔するように首を垂れた。  そんなことないよ、とは言えなかった。上っ面だけの慰めに聞こえる気がしたからだ。代わりに優李も腕を回して抱きしめる。自分の温もりがオミに伝わるように、ぴたりと身体をくっつけた。  雪がどんどん強まり、オミの肩に降り積もっていく。ふと、三年前の大晦日を思い出した。あの日も雪だった。弱りきった迷子のようだったオミが濡れないようにと、優李のほうから強く抱きしめたのだ。  奏多がいなくなってから、自分たちはいつも泣いている。三角形のバランスが崩れ、空いてしまった片手をどこに向ければいいかわからなくなっている。  三人が二人になった。だけど自分たちは、一人と一人にはなれなかった。ならば生きる方法は一つしかない。 「一生一緒にいよう」  オミはそう呟いて、優李に優しいキスをした。  唇が触れる直前、金色の髪から雪の雫が一粒こぼれた。気づけば雪は止み、重い雲の隙間から天使の梯子が降りている。  その光景があまりに美しくて、すべてに許されたような気持ちになった。両手でしっかりオミの身体を抱き留めながら、柔らかくて温かい確かな幸福を感じていた。

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