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春一番が吹く頃に

※鐘崎遼二の父親が若かった頃の話です。源さんや赤ん坊の頃の鐘崎も登場しています。 「ごめんね、(りょう)ちゃん……。遼二(りょうじ)のこと……頼むわね」 「ああ。ちゃんと責任持って育てるから心配するな。お前も達者でな」 「……ん、ありがとう。じゃあ行くね」  もうあなたの側では暮らせない、そう言ったのは彼女の方だった。にもかかわらず、いざ出て行くとなると瞳を潤ませて後ろ髪を引かれるような顔をする。門を出て数歩も行ったなら、そこにはこれから共に歩いていくやさしい男が待っているというのに――だ。 「さあ、もう行け。ヤツが待ってるんだろうが」 「ん、それじゃ……あなたも元気で……」  細く華奢な肩に掛かる髪を春特有の風が突風となって巻き上げる。その勢いに思わずふらつきそうになりながら門を出て行く小さな背中を見送った。  出会ってから何年になるだろうか。互いに惹かれ、恋をして、将来を誓った女がたった今――この腕の中から離れて行った。これからは別の男と新しい人生を歩むからだ。  授かった一粒種はまだ乳飲み子だ。歳のわりには体格もいい健康優良児で、頼もしい将来を思わせる男児である。目元が父親の自分にそっくりで、夜泣きも少なく手の掛からない珍しい子供といえる。離れていく彼女との間にこの子ができた時は確かに愛があったのだ。  その赤子を抱っこした側近の源次郎(げんじろう)が少々遠慮がちに『お茶が入りましたぞ』と言っては、一生懸命平静を装った笑みを浮かべてくれていた。  その腕から赤子を受け取って抱き上げる。 「よーし遼二! 父ちゃんと源次郎のおじちゃんと一緒に茶にするか。ああ、お前にゃまだ茶は早えか。ミルクだったな! まあ……父ちゃんはオッパイは出ねえが、その分とびきり美味えミルクをブレンドしてやるからなー」  腕の中であやしながらそう言えば、キョトンと不思議そうに見上げてくる瞳がつぶらで愛しさが込み上げた。  夫婦として暮らしたのはたったの数年だった。  互いを嫌いになったわけじゃない。  ただ彼女は辛かったのだ。  裏の世界で右に出る者はいないと言われるほどの精鋭で、世間からは極道と呼ばれる鐘崎組(かねさきぐみ)を率いる長である――そんな男が亭主なわけだ。  物理的にのみ言えば、一般の若い夫婦にはおおよそ考えられないような稼ぎと、広大な家屋敷で大勢の若い衆に崇められての何不自由のない生活。『姐さん』と呼ばれ、イカつい屈強な男衆から大事にされ頭を下げられて、ある種いたいけな年若い娘なら憧れそうな羨ましい世界かも知れない――。だが、それと同時に常に危険を伴う仕事に身を置く亭主の側では気持ちの休まる時がなかったのだろう。  あなたのようにお金持ちじゃないし、あなたのように男前でもないわ。本当に普通の男性。  でもとてもやさしい人なの。  一緒にいると安心できるの。  だから彼と共に生きたいと願った女の、ささやかな自由を奪うことはできなかった。 「困ったことがあればいつでも訪ねて来い。俺とは他人になるが、遼二とお前が親子であることは一生変わらねえんだ。会いたいと思った時は遠慮なんぞしなくていい」  それが彼女を自由にする時に云った最後の言葉だった。 「(わか)のことは私と若い衆でしっかりお世話させていただきます。どうかご心配なさらずにお任せください」  そんなふうに言ってくれる源次郎の気遣いが有り難かった。まだ海のものとも山のものともつかない赤子を”若”と呼び、生涯を組の為に捧げると誓ってくれた男だ。彼とて自分と同様に組を支えていかねばならない要であることは変わらないし、危険と隣合わせの任務を背負っているのもまた同じだというのに――と、切ない笑みがこぼれてしまいそうになる。 「すまねえな、源さん。組の者らにも世話をかける」  事実、乳飲み子を抱えて任務に駆けずり回るのは無理がある。ともすれば銃撃戦を伴うことさえある生馬の目を抜くような現場に赤子をおぶっていくわけにもいかないからだ。  いつか――この子が大きくなった時、俺と一緒に現場を駆け巡る日がくるだろうか。  それともやはり、こいつの母親と同じように穏やかな世界を求めてこの腕の中から旅立って行くのだろうか。 「ま、どっちでもいいわな。元気に育ってくれさえすりゃ――」  抱いていた赤子が珍しくも雲行きの怪しい顔をしている。  滅多に泣かない坊主なのに、今にもそのひょうひょうとした表情が崩れそうだ。  次の瞬間、隣の隣のそのまた隣――下手をすれば広い邸の隅々にまで聞こえるような大きな鳴き声が廊下に轟いた。 「おいおい……どうしやがった! いつもはふてぶてしいぐれえのおめえがよぉ……」  慌ててあやしたが、一向に泣き止んではくれない。 「やっぱりおめえも寂しいのか? こんな小っせえガキにも――母ちゃんがいなくなっちまうってのが分かるのかね」  自分一人だったらどうということもなかっただろうか。そう、たった数年を共に過ごした女が別の(かいな)を求めて去って行った。運命は二人、共に添い遂げることを良しとしなかった――それだけのことだ。だが、腕の中の赤子の顔を見ていると、なんとも言えずに寂しい気持ちが心を()ぎった。  そんな気持ちを察してか、後方から源次郎の朗らかな声がまるでリズムに乗るように部屋を舞う。 「さあさあ若! ミルクができましたぞ! 源次郎おじちゃん特製の世界一美味しいミルクですぞー!」  腕の中から泣き止まない赤子を抱き上げては、慣れない仕草で一生懸命に身体を揺すりながらあやしてくれる。しばらくすると炎のように泣き続けていた声がいつの間にか静まっていた。 「源さんのミルクのお陰か――」  ゲンキンなものだと、つい笑みを誘われてしまう。  いつか――今はまだ果てしなく遠く思える未来には、こいつもミルクじゃなく酒を飲むようになる時がくるんだろう。できれば共に盃を傾けられたらいい。男同士、親友のように肩を並べて笑い合える日がくるといい。  鐘崎組の長、鐘崎僚一がそんな夢を描いていたのは――今から二十数年前の、とある春の日のことだった。  今年もまた、間もなく春一番が吹くだろう。あの日と同じ、風の強いよく晴れた午後に自分の元を去って行った彼女の髪を乱した季節が――やってくる。  その背中を見送った玄関に立ち、しばしぼうっとしていたのだろうか。すっかり立派に成長した息子の呼ぶ声でハッと我に返った。当時は気の遠くなるような未来と思っていたものの、実際に過ぎてみれば昨日のことのようにも思えてくる。 「親父! 夕飯ができたぜ。ちょっと早えけど――今日は紫月が来てんだ。ヤツが腕を振るってくれるってからよ……若い衆たちも楽しみにして、もう食堂にかじり付きだ」  照れ臭そうに視線を泳がせながら、でもとびきり嬉しそうに頬を染めている。  そうか、こいつももう好きな相手ができる歳になったか――。  彼が選んだのは女ではなかった。幼馴染として兄弟のように育った男で、名を紫月(しづき)といった。だが、彼にとってはこの世の誰よりも何よりも大切な存在であるらしい。その紫月も幼い頃に病で母親を亡くし、男手ひとつで育ててくれた父親のもとで炊事から掃除洗濯に至るまでを黙々とこなしてきた青年だ。ゆえに料理が得意で、男所帯の組に度々出向いて来てはおさんどんをこしらえてくれたりしている。人懐こい性質で、自分や源次郎のことを『おじちゃん』と呼んでは慕ってくれていた。今では『親父さん、源さん』というふうに変わったが、ずっと慕い続けてくれるのは今も昔も変わらない。まさに家族のような存在だ。  そんな二人が本当の家族になりたいと言い出す日はそう遠くはないのだろう。男同士という、世間一般からすれば変わった形といえるだろうが、その時が来たなら心から祝福してやりたいと思う。 「あ、いたいた! 親父(おや)っさん、遼! 味噌汁が冷めちまうぜー! 今日のはさ、具材たっぷりの豚汁にしたんだ。俺ン自信作! ぜってえ旨えから冷めねえ内に食ってー」  朗らかな笑顔を浮かべて呼びにやって来た紫月は本当に素直で可愛い男だ。そんな彼を大事そうに見つめる息子の眼差しがそこはかとなく優しげで、自分にもそんな頃があったのだろうと懐かしさが込み上げる。  まだ赤子だった彼を抱いてあやした頃の自分の年齢を越えた息子たちの姿を見ていると、嬉しさと共に郷愁に近い気持ちが胸を揺さぶる。  今では立派に組を支えてくれる、押しも押されもしない頼もしい若頭に育ってくれた。たった一人の女にさえ満足な幸せを与えてやれなかったこんな親父と共に肩を並べて生きていく道を選んでくれた。感無量だ。  この腕の中から去って行った彼女も今頃はあたたかい男の肩に寄り添って、穏やかな気持ちで過ごしてくれているだろうか。そうであることを願いつつ、薄紅色に染まっていく春の空を見上げた。 - FIN -

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