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番外編SS 瞑想の時間
濃くなってきた夕闇のなかでザックは目を瞬いた。それを見計らったかのように、音もなく召使いが入ってきては、壁の照明をひとつひとつ灯していく。居室の中はジェムの黄色い光に満たされて、机に広げた書物の文字が鮮やかになった。
しかしザックはそのまま表紙を閉じた。灯りが入ったということは、食事の時間が近いということだ。今日は政務のない日だった。おかげでラニー・シグカントやトバイアスをここへ招いて、ゆっくり話をすることができた。
ザックは静かに立ち上がり、向かいの壁の前に座る彼のスキルヤをみた。オスカーはクッションのあいだに胡坐をかき、瞑想でもしているように目を閉じている。
ザックにとって今日は政務のない日、つまり休日だったが、オスカーはそうではなかった。彼はこの数日、一日の大半をこの姿勢で過ごしているのだ。鳶色の長い髪は顔の左右に垂れ、その先端は膝の上で組んだ両手に握りこまれている。ジェムの光を受けて、手の中でかすかな光がきらめく。
ビスカス結晶、とオスカーは呼んだ。マラントハールの魔法師のひとりから譲り受けたものだが、オスカーは今、フェルザード=クリミリカの戦闘の際に失った魔法珠を新しく作り出そうとしている。もっともオスカーの魔法は冒険者の魔法とはまったく質のちがうものだったから、こうして静かに座っているオスカーの仕事がどのくらい進んでいるのか、ザックにはまったくわからない。
しかしもうすぐ食事時である。ザックはオスカーのすぐ前で絨毯に膝をついた。もう少し待ってから声をかけるか、と思った時、伴侶の目がぱちりと開いた。
「お腹がすいた――あ、ザック……」
はにかんだような笑みが浮かぶ。
「いつからそこに?」
ザックは思わず笑みをもらした。
「たった今だ。いま明かりがついた。もうすぐ食事になる」
「王様の貴重な休日に、僕のお守りをしていたのか? 昼寝でもしたらいいのに」
「いや。本を読んでいた」
オスカーはニヤッと笑った。
「仕事でもないのに文字を読むなんて、さすがはザックだ」
皮肉や嫌味ではなく、オスカーにとってこれは素直な感想なのである。口伝と独自の魔法で知識を受け継いでゆく島で育った彼は、読み書きはできるものの、得意だとは絶対にいわない。しかし魔法技師として、肉体を再生した人間のことはすべて覚えているという。
「オスカーのその……仕事はどうだ?」
ザックの問いにオスカーはあっさり首を横に振った。手の中の珠を小さな箱におさめて立ち上がる。
「まだ全然、磨きが足りない。でもこの場所は落ちつくからな。|水《スイ》の魔法珠が必要な誰かがあらわれる前にはどうにかなるさ。じゃ、着替えるよ。このかっこうだとメイリンに小言をいわれそうだ」
オスカーはのびをしながら続き間へ消えた。そちら側は王妃のための部屋がいくつも並んでおり、浴室に化粧室、衣裳部屋や書斎の先に専用の寝室もあるが、オスカーはめったにそこでは眠らない。そもそも王妃の部屋は何年も使われていなかった。グレスダ王は正妃を娶らず、ダリウスは正妃を定めなかったからである。スキルヤのオスカーがこの続き間を使うことになって、宮殿の侍女たちは喜んだという。
もっともオスカーは身の回りの世話を他人にまかせることに慣れていない。特別な行事がない日は、朝の身支度を任せるのはメイリンひとり、夜も湯浴みを多少手伝ってもらう程度ですませている。
しかし食事の間にあらわれたとき、ザックの目にオスカーは雨上がりの樹木のように輝いてみえた。給仕がいそいそとオスカーの椅子を引く。顔にこそ出さないが、彼らはオスカーを好いている。
食事を終えて居間に戻ると、ラニー・シグカントの蔵書の大半はザックの指示通り書庫に運ばれていた。まだ夜がふけるには早いが、部屋に入るなりオスカーは大きなあくびをした。
「疲れているんじゃないか?」
「いや?」オスカーは怪訝な顔つきになる。
「王様をやっているおまえとちがって僕はのんきなもんだぞ?」
王様をやっている、というオスカーの言葉がザックは好きだった。どうしてだろう? ザックがいま王位にあるということが、グレスダ王の血の因縁ではなく、適性や単なる偶然――運命といいかえてもいいが――によるものだと感じるから、だろうか。
「それでも連日、あんなに集中している」
「魔法技師の仕事はああいうものさ。師匠は飲み食いもせずぶっつづけでやったよ。僕は若かったからやめておけといわれたが」
ザックはオスカーの肩に腕を回す。
「今日はもう休めばいい」
「でも……」
「ん?」
肩を抱いたまま顔をのぞきこむと、睫毛がさっと伏せられた。オスカーは肩からザックの腕をはずし、正面に回って両手でザックのあごをはさんだ。羽根のように軽くかすめた口づけをザックは逃さなかった。そのまま深く唇を合わせ、オスカーの腰を抱き寄せる。おたがいの熱が重なるのがわかると、口づけはさらに長くなる。
オスカーの唇から甘い息がもれた。
「ザック、僕は……眠いわけじゃない」
「ああ」
「おまえもそうだろう?」
ザックはオスカーの問いに口づけで応えた。魔法技師の背中に腕を回し、唇を何度も重ね、足をからめあうようにして居間を出る。王の寝所はすぐそこにある。
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