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番外編SS トバイアス・ランドの新たな友情

 ユグリア王の宮殿は首都マラントハールの中心にある。臣民が「マラントハールの星」と呼ぶ五芒星の壁に囲まれた区画の高台にそびえる、宝石や花にたとえられるほど美しく広壮な建築物である。  宮殿の中央は王が政務を行う場所で、あまたの官吏が働いている。宮殿の南側には謁見や対外的な儀式が行われる広間や小部屋が並んでいて、六芒星の貴族がうろうろしているのはこのあたりだ。西側は宮殿を支える使用人たちの領域。美食を生み出すことで名高い厨房もここにある。残る東と北の部分は王とその一族のための私的な空間で、王と伴侶のための場所のほか、離宮や小宮殿が回廊に結ばれて広がっている。  トバイアス・ランドは宮殿の東側に通じる回廊の手前で、このまま進んでいいものかとためらった。ここまで彼を先導していた召使いがいつのまにかいなくなっている。立ち止まったトバイアスの耳に、どこからか槌の音が響いた。  先王ダリウスの短い治世のあいだ、宮殿には工匠、大工に石工といった職人がひっきりなしに出入りしていた。ダリウスは即位してからずっと、小宮殿で奇怪な装置を設計することに熱中していたからだ。その職人たちは今、宮殿の別の場所で働いている。新王ザックはダリウスと側妃のあいだに生まれた王子を後継者に指名する心づもりで、彼らのために離宮を整備させている。  トバイアスは槌の音がする方向をふりむいたが、長い回廊の先には誰もいない。気配を感じてもう一度ふりむき、苦笑いを浮かべた。 「召使いに置き去りにされたかと思ったぞ。王じきじきに出迎えるとはな」  視線の先で、ザックが照れくさそうな笑みを浮かべている。 「出立前の忙しい時にすまないな」 「まさか。陛下に市中までお出ましされるほうが困る」  ザックはもちろんトバイアスが冗談をいったとわかっている。肩をすくめて王の居室へトバイアスを誘った。  こうしてまた軽口を叩ける間柄に戻れたことにトバイアスはあらためて安堵した。ニーイリアの岩壁で一度ザックを失ったと思ったあと様々な出来事があり、ザックはいまやユグリアの王だ。だからもちろん、宮廷貴族たちがいる公の場ではこんな言葉遣いはできない。  トバイアスは明日ディーレレインに発つことになっていた。一時的なものではなく、迷宮の町に居をかまえるためだ。ユーリ・マリガンがつい先ごろ、オリュリバードに新設された冒険者訓練所の所長になったのを受け、マリガン隊の主要隊員はディーレレインに本拠地を移すことにしたのだった。ユーリはトバイアスに隊員の統括を頼んだ。つまりトバイアスは事実上、マリガン隊の指揮官になったのだ。  飛行艇を使えば簡単に戻ってこられるとはいえ、生まれ育ったマラントハールから山地のディーレレインに居を移すのは、トバイアスの人生には大きな出来事だった。周囲の目を気にせずにザックと話ができる機会は嬉しかった。友が自分のことを忘れていないと思うと、トバイアスの胸の奥は以前と同じように熱くなる。だがその奥にある感情は、以前とはすこし変わっていた。  王の居間は広かったが、トバイアスには意外なことに、ほどよく散らかっていた。一方の壁に寄せられた机には書物や書類が広げられ、もう一方の壁の前には、毛足の長い絨毯とクッションに埋もれてくつろいでいるオスカーがいる。最初に会った時のようにローブを羽織り、頭は布で覆っていたが、鳶色の髪の房がはみだして顔の横に垂れている。トバイアスをみると体を起こし、気軽な声で「やあ、トバイアス」と呼んだ。 「明日ディーレレインに出発だって? 住まいは決まっているのか?」  前置きもなく話がはじまり、トバイアスはややたじろいだ。 「ああ。顔役に頼んで用意してもらってる」 「ルッカの親父さんだろ? それなら安心だな。僕の店も彼の口利きだった」  オスカーは話しながら立ち上がり、小さな木箱をすぐそばの小机に置いた。 「僕も休憩の時間だ。おやつを頼んでくる」  休憩? ではオスカーはくつろいでいたわけではないのか。魔法技師はローブをひるがえし、続き間へ去っていく。本来なら王の伴侶に対して、こんな言葉遣いで話すものではない。しかしオスカーはザックが即位したあとも、フェルザード=クリミリカの頂点で古代人の驚異を体験した仲間に対して、以前と変わらぬように接しろとうるさいのだ。  加えて、ザックとオスカーを通して〈レムリーの都〉を目撃した者はみな、それ以前にはなかった絆でいやおうなく結ばれてしまったから、ということもある。それは古代ユグリアの秘密に触れたゆえに生まれたもので、ザック王の治世のあいだは続くにちがいないものだった。  トバイアスはザックの前の椅子に腰をおろした。すぐ前の小卓にも書物が山となって積まれていた。中にはずいぶん古そうなものもある。 「王となるとこんなものまで読むのか?」  思わずたずねたが、ザックはあっさり否定した。 「いや。つい先ほどまでシグカント卿がいらっしゃっていたんだ。ダリウス殿が卿の屋敷から持ち出していた文献をお返ししようと思って、そう話したんだが。自分の健康も心もとないからといわれて、結局宮殿で保管することになった」 「なるほど。そういうことか。先王殿は……お変わりはないか」 「ああ」  王国臣民には「病で伏したままになった」と説明されている先王ダリウスが、みずから設計した巨大な装置〈サタラス〉の中で眠っていることも、ごく少数の者しか知らない秘密である。これも古代ユグリアや迷宮の謎、ひいてはジェムの産出に関わることだけに、口外できない秘密となった。 「ザック、トバイアス。おやつだぞ」  続き間からオスカーの声が響いた。うしろに給仕と侍女がつき従い、木の実と果物の甘い香りも漂う。オスカーが小卓の上の書物を抱えようとしたので、トバイアスも急いで手伝った。 「そのあたりに置いておけばいいさ」  オスカーはそういいながら、ふとトバイアスに真剣な目を向ける。 「指の調子は? 問題ないか?」 「……ああ」 「迷宮で万が一指に故障が起きたら、すぐ僕に連絡するんだぞ」 「あ、ああ。わかった」  迷宮での出来事のあともオスカーは何ひとつ変わっていない。最初にザックとオスカーがともにいるのを見た時、親友はオスカーの美貌に籠絡されたにちがいないとトバイアスは思ったのだった。自分が立つべき場所にオスカーがいるのは気に入らなかったし、トバイアスが知るかぎり、ザックは魔法技師全般に不信感を持っていた。  今はこれらの直感が間違っていたとトバイアスにはわかっている。オスカーはマラントハールでも比肩する者のいない魔法技師で、ザックがオスカーに寄せる愛情は――仮に望んだとしても、自分に必要なものではなかった。 「トバイアス、このお茶は冷めると味が落ちる。それにこのケーキ、菓子職人の新作だそうだ。マリガンに自慢できるぞ」  ザックの隣に座ったオスカーは身を乗り出し、真剣な声で菓子を勧めてくる。この魔法技師は食べることに尋常でない執着を持っている。トバイアスはうながされるままに皿を受け取った。ふと目をあげると、ザックがケーキを頬張るオスカーをみつめていた。目元がわずかにゆるんでいる。  やれやれ、腹いっぱいというところだな。トバイアスは笑いを噛み殺し、見なかったふりをする。

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