51 / 51

とろけるハンドクリーム

「あ、嘉貴。ハンドクリーム塗ったか?」 「ん? あー」 「絶対塗ってないな。ったく……」  洗い物を終えてリビングでくつろいでいた嘉貴は、凌の呆れ顔に「ごめんね」と微塵も思っていないであろう謝罪を口にする。 「毎回塗れって言ってんだろ? 肌荒れるぞ」 「もうモデルもしないし、そんな気にしなくていいと思うんだけどなぁ」 「せっかく綺麗なんだから、大事にしとけ」  ローテーブルの備えつけ引き出しからチューブタイプのハンドクリームを取り出した凌が、子どもを諭すように言う。  それからずい、と後ろのソファでまったりしている嘉貴に渡そうとするが、相手はなかなか動き出さないどころか「ん」と両手を伸ばしてきた。 「何だよその手」  「塗ってくれない?」 「はぁ? まあ……別にいいけど。じゃあちょっと場所あけて」 「わーい」  ぼふん。嘉貴と向かい合う形で低反発のソファに腰を下ろす。差し出された左手の甲にクリームを出して、蓋も締めずにそのまま机の上に置いた。きなこがいたら絶対蓋で遊ばれているが、幸い今は凌と遊び疲れて夢の中なので気兼ねなくズボラしてしまう。  無香料の、保湿もちゃんとしてくれるがベタつかないと謳われているブランドのハンドクリームを自分よりひと回り大きい嘉貴の手に両手で塗り広げていく。普段は気にならないが、こういう時に全体的に羨ましい体躯だなとやはり思ってしまう。「凌はそれくらいがちょうど良くて好きだよ」とそういうことじゃない回答が返ってくることは既に実証済みなので何も言わないが。 「全部食洗機で洗えたらいいんだけどなー」 「フライパンとかはねぇ。まあ、手洗い必須の服みたいなもんだよね。仕方ないよ」 「だからせめてその後のケアしろって言ってんのに。もっと生活導線に置いといたほうがいいんじゃねぇの? っても、リビングだときなこのおもちゃになるからなー……いっそキッチンに置いとくか?」 「最近はポンプ式とかもあるらしいよ」 「マジか。それならキッチン置いといて流れ作業でできるんじゃねぇ? あ、でも最初洗剤と間違えそう」 「ふふ、確かに」 「けど、そろそろ乾燥もしてくるからマジで気つけろよ。モデルの仕事なくなってから、そういうの注意してくれる人いないだろー……ん。反対の手出して」  左手を終えて、右手を両の手で包み込む。節くれ立っていない指と短く整えた爪先は清潔感があり、イケメンは指先まで綺麗なんだなぁと出会った当初は感心した。けれどそうではなく、自分という商品の管理がしっかりしていただけだと気づいたのは嘉貴がひとり暮らしをするようになってからだ。  『TYC』のブランドモデルを手伝っていた頃の嘉貴は手だけじゃなく、顔や腕といった見えるところ全体に化粧水や乳液、クリームなんかのスキンケアをどんなに忙しくても怠ったことはなかった。いつ急な撮影が入ってもいいように、万全の状態を保つために。面倒じゃないのか一度聞いた時、眉を下げて微笑まれただけだがあれは相当面倒くさかったんだろう。  嫌いではなかったにしろ決して自分が好き好んでやっているわけではないモデル業への誠実さに尊敬の念を抱いたことを凌は良く覚えている。  今はその必要もなくなったから幾分雑になってしまっているが、この手も嘉貴の努力の証だよなぁと思うと労りの気持ちが芽生えて、親指の付け根とか指先にマッサージもサービスで施す。 「でも最低限は気遣ってると思うんだけどなぁ。お風呂上がりとかすっごい頑張ってると思わない?」 「あー確かに風呂上がりと、寝る前にもう一回ハンドクリームは塗ってるもんな」 「だって、凌に痛い思いさせたくないもん」  ぐ、と。掌を押し込む指に力が入ってしまった。「痛いよ」なんて嘯いて笑う目の前の男に、視線を向けることができない。今向けたら負ける。何かに。  急に、この行為がいかがわしいもの形を変えてしまった気が、する。  違う。こっちは善意で、まごうことなき善意で嘉貴を手荒れから守るためにやっているんだ。  それなのに勝手に、嘉貴が捻じ曲げてきたのだ。まるで凌が、自らそういう準備をしているみたいな行為に。  頭の中で言い訳めいた言葉がぐるぐるする。けれどそのどれもが上手にまとまってくれない。  そんな凌の思案すら散らすように、さっきよりも僅かに低い声で、嘉貴がささやく。 「……ね。今日はこの後ベッドで過ごすのは、だめ?」 「だ……っ」  それは、つまりそういう意味だとさすがに凌もすぐに理解して、思わず意味のない音をこぼしてしまう。  反射で顔を上げれば蕩けるように細められた瞳に見つめられ、五秒もしないで逸らしてしまった。 「………………だ、ダメじゃ……ない」  目が合った時点で、さらに目を逸らしたことで、凌の完敗だった。  どこまで計算していたのか見当もつかず居た堪れなさと恥ずかしさから項垂れる凌のつむじに、嘉貴が「嬉しい」と一言、笑いながらキスを贈る。  自分の掌に重ねられた嘉貴のそれは、すっかり保湿されてベタつくこともなくなめらかに凌の肌の上を滑っていく。じんわり伝わってくる体温に、凌は人知れず下唇を噛んでしまった。  まんまとはめられたことも悔しかったけど――その熱にどうしようもなく期待してしまっている自分がいることも悔しくて。 「じゃあベッド行こっか。いっそこのままソファで……とかも悪くないんだろうけど、このハンドクリーム肌馴染み良すぎるからローションの代わりにはならないもんなぁ」 「こんなたっかいやつでそんなことやったらマジでしばらく口聞かねぇからな……」  そう言いながら凌は差し出された嘉貴の手をおずおずと、けれど確かに握り返す。決して凌を傷つけることのない、優しくて少し意地悪な恋人の手を。

ともだちにシェアしよう!