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私の宿題
私達に感情を付与するという構想は、アンドロイドが架空の存在だった頃からあったそうだ。
従順な使用人であり、頑丈な労働者であり、優しい友であり、未来のファムファタル
の姿を人はそこに見ていた。
現在の技術は、前者二つは十分に可能、後者二つは実用化はしているが改良の余地ありといったところだ。
単純な仕事の作業員として導入する企業は珍しいものではなくなり、富裕層を中心に家庭向けモデルの販売がされるようになって七年経った。より幅広い層への売り込みを目指した廉価版も、早ければ二年後には販売が開始される見通しだ。
アンドロイド全体への課題の内、ここ三年程で関心が高まっているのは、買い替えや修理の為に製造元へ回収される際に発生する不具合が挙げられるだろうか。
アンドロイドの有用性を疑われかねない件数ではまだないものの、突然のシャットダウンや、指示のない動作の頻発、プログラムされている筈の職務の放棄等が、回収当日や、早ければ一週間以上前の時点で発生している。
予期せぬエラーは各企業が様々な検証と実験を繰り返して解決を試みている最中であり、マノンのチームが『動物の帰巣本能を利用できないか』と連日試行錯誤しているのもこの為だ。
これを耳にした一部の人々が『人間の都合で振り回されるアンドロイドの声無き抗議である』と訴える心理を許容する事は出来るけれど、生産中止の署名活動や、騎士道精神じみた解放活動の予兆には閉口してしまう。先生も、分かってないなぁ、と嘆いていた。
自分達の主張が通ってしまった先、アンドロイド産業に関わる“人間”に被害が及ぶ事を、彼等は考えてはいないのだろうか。少なくとも、私が居るこの場所では皆、他の業種と同じく『人々の豊かで幸福な暮らしの為に』という理念の元で仕事をしている。いずれ神に背いた罰が下る、などと過剰な軽蔑を受ける謂れはない。
私は寧ろ、人間の為に生産され、人間の為に開発されて来たのだから、もっともっと多様な機能を搭載するべきだと判断している。
非生物との完璧な恋愛や友情の実現はまだ先だけれど、人間らしい感情を獲得する事は、奉仕者としてのアンドロイドの品質を向上させるとの期待が高い。人間的な情動を私達の行動原理に紐付け、より円滑なコミュニケーションの実現や、都度オーダーの授受を行わずとも使用者の要望に沿った選択を行えるようにする研究と開発は近頃とても盛んだ。
私も、その為に日々の学習を重ねている。
◆◆◆◆
海に落ちる。
優しく受け止める。
明日、どちらを先生に発表するべきだろうか?
今日の全てのタスクを完了した私は、自室として割り当てられた空間で未だに今朝の課題について“悩んでいる状態”にあった。
私に対して行われている試みは『擬似的に与えた感情をより人に近付けて行く事』である。感知した事象をより人間らしい文体で言語化する事もその内の一つだ。
私達の内側で行われる様々な処理を人間的な表現へと当て嵌めたり、人間ならばどう感じるかといった情報を収集して発言する──簡単なところで言うと、ヒトが、群れから逸れた動物が鳴く事を『寂しいから』と定義したり、子供が放り投げたおもちゃに『痛い』と声を当ててみせるあの作業を、私は私自身に対して行っている。
勿論、言語化するまでで終了ではない。本当にそう感じているに等しい段階まで引き上げる事が最終目的である。
今朝の学習時に何処かから引用して組み立てた言い回しが、何故適切であるかをもう一度考える。
明日どちらも発表する、でも悪くはないのだけれど、そうすると先生の「何故そう思ったの?」に二つ分の答えが必要になる。表現と付随する感情の解像度を上げる為の質問は、明確な回答を出せずに何時間も考察する事が往々にしてあり、答えが導き出せなかった事も一度や二度ではない。
どちらの方が難しくないだろうか。やはり、感情表現が明確に言語化されている方だろか。
優しく受け止める、だから、受け止める事が“優しい”に当たるのか。……でも、そうすると、殻を受け止めた卵は優しかった、とするのが正確な言い回しではないだろうか。
それに、受け止められる側である殻が、受け止めれない事を優しくないと感じなければこの法則は適用されない。殻が原型を止めており、落下して壊れる事を防いだ場合は当て嵌まるかも知れないけれど殻は既に私が破損させてしまっている。
何故それを人は、優しいと感じるのだろうか。
ヒトにとって、受け止める事は優しい事なのだろうか。
先生も“受け止める”を、優しいと感じたのだろうか。
分からない。難しいと予想はしていたけれど、それでもやはり難問になりそうだった。
結局、スリープモードへ移行されるまでの二時間を検索と考察に費やしても、答えに辿り着く事は出来なかった。
それから、先生と学習を二十九回行い三十二日が経った。
結局、あの時に迷っていた二つの言い回しは、最初に思いついた方だけを報告した。
数日経ってからでなければ、発表するだけの理論が構築されなかった事は“悔しい”だと処理されたけれど、自身の視点ではなく殻の視点から物事を見られた事、本物の海では有り得ない色の物を海と称した事を先生はとても喜んでくれた。
「凄い凄い! 将来は童話作家だね!」
と私の手を取りながらくるくると回る先生の笑顔を見る事ができて、“悔しい”は“凄く嬉しい”に上書きされ、私も先生と同じ風に大きく笑った。
──わたし すごくしあわせ
誰かが浮かべた笑顔が私のものになって、私は学習する事が“好き”になった。
学習して成長する事が好き。
成長を喜んでもらえる事が好き。
喜んでくれる先生が好き。
先生が、好き。
おかしい。先生はずっと“好き”だったはずなのに、どうして改めてそんな事を判断したんだろうか。
何故なのかは分からなかったけれど、少しも“悔しく”なくて、私は人間が感じる様々な“好き”を理解する為に、もっともっと多くの事を学びたいと“思った”。
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