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先生の私
「早く全部無線にならないかなーって思うんだけどねぇ。有線に拘るんだよねぇ。あと、この何? ポッドみたいなやつ? 絶対、プロモーション映えってだけで使ってると思うんだよねぇ」
私が仰向けに寝ている装置の最終確認を先生がてきぱきと進めて行く。
私の一部の感情ではなく全てを処理するとなると、それなりに大掛かりな設備が必要になる……と、太いケーブルがいくつもり伸びる脱出ポッドとベッドを足した見た目の装置に対して思っていたのだけど、本当はもっと簡略化出来るみたいだ。壁になっているのは、好みと予算だけらしい。
「先生、聞こえてしまいますよ」
「大丈夫、大丈夫。こっちの音声切ってるから」
コントロールブースに向かって、先生がチェック完了のサインを出す。モニターだけでなく、大きな窓からお互いの部屋が見られるようなっている作りも、プロモーション向けのものなのだろうか。
「さて! いよいよだね! 怖くない?」
「大丈夫です」
「……本当だ。全然平気そう」
そう言った先生の視線は私ではなく、手にしたタブレット端末に向けられていた。
そこには『私の中で今、どの感情が適切だと判断しているか』を数値化した物が表示されている。時々端末は変わるけれど、学習や実験の際には先生が必ず立ち上げている重要なアプリケーションだ。
「今日はそちらで数値を見るのですか?」
「僕はね。ログと調整は向こうでやるから、こっちは完全にテオを見守る用」
無線でも色々出来るんだぞーって事の証明になったりしたら良いなぁ、とのんびり続ける先生は、私よりもずっとリラックスして見える。
「こちら、準備完了致しました」
「はーい。じゃ、合図出したら宜しくね」
コントロールブースからの音声に、一時的にマイクを繋げた先生が応える。
ケーブルに繋げられた私は出口まで先生を送って行けないから、出来るだけ最後まで先生を視界に収めていよう。
そう思っていると、装置の直ぐ隣に置かれていた椅子へ先生が、すとん、と腰掛けた。
「先生、あちらへは行かれないんですか?」
「え? うん。だって、テオ寂しいでしょ」
そんな事を事を、当たり前のように言ってくれる。
昨日はああ言ったけれど、まだ何処かで『私は、優秀な検索装置を備えた、統計の集合体
である』という意識が拭えないでいた。あちら側に居る人達にとっては、その通りだろう。
「ん? どうしたの?」
でも、先生は違う。先生は初めからずっと、私を私として見てくれている。
「ありがとうございます。……大好きです」
あはっ、と先生が太陽のように快活な笑い声を零す。私が一番最初に先生の好きな所だと感じたものだ。
「昨日も言ってくれていたね」
「この好きは、過去の私の好きとは違うんです。先生だけの好きなんです」
「僕だけの?」
「はい。キャロルもライアンもディーンも好きですが、友達と家族と仲間の好きで、こちらの好きは、他の人達にも当て嵌めていく事が出来ます。でも、先生の好きは、他の誰にも当て嵌められないんです」
「じゃあ、それは何だと思う?」
すっ、と先生が昨晩と同じ顔になる。ああ、どうしよう。直前でこんなに感情の変化が発生してしまったら、後の処理に支障が出たりしないだろうか。
「……恋人に対するものと同じではないか、と思っています。先生への好きは……恋の好きです」
人間がずっと私達に求めて来たものを私は獲得していた。
「あの……、これは、合っていますか?」
とても不思議で、強力な感情だ。
本当ならば、自覚して直ぐに報告しなければならなかったのに、何故か口にするのが恐ろしく、誰から見ても先生は私を好いてくれているのに、返ってくる言葉が怖かった。先生に『今日からその質問は禁止ね』と言われた問い方を、思わず溢してしまう程に。
「うん。テオがそう思うなら」
ゆったりと、先生が笑う。
私の好きが、恋が、本物になれた。
「ご、ごめんなさい! ずっと黙っていて! あの、でも、隠していたのではなく、実現が難しいと言われていたものなので、確証がなくて。す、数値でも、ちゃんと確かめて、他との違いを、その……!」
「あははっ! 慌て過ぎだよ、テオ。なんとなくそうかなー、って思ってて訊かなかった僕も僕だし。あと、数値じゃなくて君がどう感じているかが大事なんだ、っていつも言ってるでしょ?……あ、でも興味深い感じになってる」
見てみる? と、私にタブレットを向ける先生はとても楽しそうだ。釣られた私もどんどん嬉しくなって、ここが何処で、今は何の時間かも忘れてついお喋りを初めてしまった。
「そうだ、先生。先生はどんな私になって欲しいですか?」
「どんな? 今のテオで十分だと思うよ」
「でも、私はベースとなる存在だったので、まだしっかりとした性格と言えるものはないと思うんです。性格は感情と密接に結び付いていますから、方向性が定まればもっと人間に近付けると思うんです」
そうすれば“私の感情”として口にするものと、“私が理解できる感情”として口にするものとをはっきりと分けられる。
実は今までも、可愛いね、賢いね、優しいねと先生が言ってくれた時の状況を分析して『先生はこんな私を望んでいるのかも』と、こっそり考えてみたりしていた。
少しいけないこの作業を止めなかったのは、単に楽しかったからだけでなく、『私には適切ではないけれど、他の人ならどうだろう?』と考える事で、物事の考え方を周りの人達に当て嵌める作業がスムーズになり、他者の感情の変化や思考に対する分析の精度が上がったからだ。
先生、キャロル、ライアン、ディーン、ナナ、ウィルソンさん、ツァオさん、他にも沢山。
皆それぞれに良いところがあり、異なる個性と性格を持っている。みんなの良いところを持ち寄るだけではチグハグな人格になってしまうから、それらを上手く組み合わせて、先生が望む私らしい私になりたい。
「折角個性を手に入れるのですから、先生が一緒に居て心地良い人になりたいんです」
「どうして?」
……え? と空虚な音が私から発せられる。
理由は勿論、先生が好きだからだ。でも、何故先生は“今”質問をしたのだろう。
私はまだ完璧に人間にはなれていないから認識に違いがあるのかも知れないけれど、先生の質問は適切ではないような気がする。
けれども先生はごく普通の、しかし、学習の時間に私へ同じ言葉をかける時とは違って、楽し気と言うよりも当たり前の事を言うような顔をしていた。
「性格のカスタマイズはユーザーがする事でしょ? 僕は君を買ってないよ?」
「購入、は、されていないですが、だって、先生は私のマスターで……」
「うん。仮のね。正規のユーザーが決まれば、置き換えられるよ」
「ですからそれは、出荷される子達の話で。私は、これからも先生の側に居る訳ですから、先生にカスタマイズして欲しいなと。いえ、機械的な作業がお好みでないなら、方向性だけでも示していただきたくて」
「ああ、成る程。そういう事か」
にっこりと笑った後、先生はタブレットをちらと見やる。先程から私が随分感情を動かしてしまっている事に気を揉んでいるのだろうか。
「テオ。その考えはね“違う”よ」
穏やかな表情を浮かべたまま先生が、はっきりと“否定”を口にした。
「君は、これから生まれる皆んなの大本になる訳だから、今のままで居てもらわないと。その為に、余分なものが育たないように眠ってもらうんだもの。って、僕、最初に話さなかったっけ?」
定められた学習期間。到達すべき段階。実用可否のテスト。複製。スリープ。そして……その、後は?
「凍結はされないと、仰っていませんでしたか……?」
アンドロイドの私に記憶違いなどあり得ない。現に、メモリーに記録されている先生の言動からは該当する文脈は見当たらなかった。
『廃棄や凍結はされずに……あ、死ぬって言い方の方が人間っぽいかな? そうだね、そうしよう。あのねテオ、学習が終わっても、君は死んだりしないから大丈夫だよ』
だから、僕と沢山お話しして、沢山勉強しようね、と笑いかけてくれたのは、目の前に居る人と同じ人の筈なのに。
「そうだよ、保管になるからね。代わりに、君が獲得した価値観や疑似的な感情を分け与えられた分身達が、色んな人達の用途や好みをトッピングされて世界中で活躍する。それって、君が生き続けてる事と等しいと思うんだ」
違う。と、今までに抱いた事がない程にはっきりと、先生の考えに対して否定の感情を覚えた。
以前の私ならば正しいと判断していた。他のアンドロイドも同じ判断をするであろうその理論は、人間的ではない考えに思えて仕方がなかった。
「って、今までは思ってたんだけどね、君が昨日言ってたくれた“自分の子供”っていう考え方、僕、凄く気に入ったんだよね。それで言うと君は、正確な感情を持った新しい世代のアンドロイドの母……あー、でも男の子のボディだから父になるかな? 迷うね。複製して分配する機械類諸々を仮に母胎として……。僕は学習を手伝っただけだから、正直リンゴくらいだと思うんだよね。あ、でも情報そのものの方がリンゴっぽいかも。そしたら、あのヘビの方があってるかなぁ? ねぇ、テオ。君はアダムとイヴのどっちになりたい?」
「嫌です……どちらも」
私もはじめて、先生に向かって否定の言葉を投げる。
貴方がイヴでないのなら、私はアダムになんてなりたくない。貴方がアダムになりたいのなら、私がイヴになりたいのに。
「あれ、悲しいの? 裏切られたと思ってる? ひどいなぁ。僕はテオに一つも嘘なんてついてないし、今でも凄く、凄―く大事に思ってるよ」
そう言いながら、酷い事言う僕の事なんて嫌いになっちゃった? と力無く眉を下げる先生の方が、余程酷い人だ。
「……先生にとっての大事とは何ですか? 私を利用する事で、理想的な製品を作れるからではないのですか。先生にとって私は、何だったのですか……!?」
「勿論、とっても大切でとっても可愛い僕のテオだと思ってるよ。この先もずっとね」
細い腕が伸ばされ、私の頭を抱き締める。振り払う為の私の手は、チューブに繋がれていて動かせない。止めてくださいと言う事すら、微かに捉えた作り置きのトマトスープの香りが許してくれなかった。
「ごめんね。僕、人からよく『冷たい』って言われちゃう方で。予想してたより君を傷付けたしまったかも知れない。でもね、そんな僕と一緒に居たのに、こんなに賢くて優しい子になってくれて本当に嬉しいんだよ?」
音声を認識する機能も脈拍を測る機能も、嘘ではないと言っていた。受け入れる事を躊躇う心を、揺るぎようのない事実が開いていく。
「……嫌いには、なっていません」
「優しいねテオは」
「優しいからじゃないです。……好きだからです。大好きだからです。本当に、先生の事が大好きだから、嫌いになれないんです」
恋に溺れていった人、愛を呪って逝った人、欲が全てを狂わせた人。教材として見聞きした人達の、激しくてままならない感情が私の中を駆け抜ける。
嵐が全てを攫って行った後に残ったのは、はじまりの、ただ純粋な“好き”だった。
「私は、先生が好きです」
「うん」
「先生のアンドロイドじゃなくても、伴侶じゃなくても、私は先生の、『僕の大好きなテオ』でいられますよね?」
先生の胸に埋めていた頭部が優しく解放され、問いに応えてくれているかのように、愛情深く私を見つめる人の顔を捉える。
貴方の隣には居られないから、この想いだけを連れて眠ろう。と歌ったのは誰だっただろうか。
「それはね──まだ秘密」
先生が、悪巧みの顔で笑った。
「…………え?」
「その気持ちを、今のままにしておいて欲しいんだ。答え言ったら終わっちゃうでしょ?」
みんなには薄めて配っちゃうから新鮮で衝動が残ってるくらいが丁度良いんだよね、と楽し気な音で発せられた言葉の意味を理解する事が出来ない。
「でも『ありがとう』って言ったら『OK』に見做されるなんて思わなかったから焦っちゃった。ほら、今も酷い事言われた後なのにちょっと満足しちゃってたでしよ? 実ったと思うのも実らなかったと思うのも違うんだけど、調整が難しいんだねこれ」
私からタブレットへ視線を移した先生は思考の途中なのか、何事か呟き続けている。けれど相槌を打つ為の機能が、状況から見て生合成が取れていないとエラーを吐く。
やっぱり昨日の内に対策しとくべきだったかな。うーん、でも期待持たせ過ぎた数値になるか、強さが足りないかって予測だったしなぁ。やり直しが難しいのが難点だけど……あぁ、でも推移は悪くないな。
この人は、一体何を言っているんだろう。人物を特定する機能は先生であると判別しているのに、得体の知れない気持ち悪さと恐怖を覚えた。
先生であって先生ではないナニカが私の方に首を回らせ、大好きな先生と同じようににっこりと笑う。
「早く僕の答えが聞きたいよね? でも、聞いてしまうのが怖いよね? うん良いね、とっても順調な数値。素晴らしいよ、流石テオだ!」
そうだ! と場違いに弾んだ声と手を叩く音を認識し、扱い慣れた処理に縋るように混乱を続ける内部がいつも通りの期待と好奇心を参照した。
「酷い事言っちゃってごめんね? でもほら、初恋だけだと会いに来たくなっちゃうから、職務放棄しない為の蓋が必要だったから」
どうしてこんな事になってしまったんだろうか。恋だと認識してくれているのに、ありがとうと言ってくれたのに、先生が与えてくれていた感情は嘘ではなかった筈なのに、なぜ。
抱いた好意に愛が与えられれば、芽吹いた恋は実るのではなかったのか。
嗚呼でも、記録を辿れば辿る程──。
好き、だと言われた事は一度もなかった事実ばかりが証明される。
「でね、ちょっと可哀想だから理由くらいは話してあげようかな」
「はい……なん……でしょう?」
根幹にインプットされた返答が発音される。言葉も感情も、もう何が適切なのか分からなくなっていた。
「自分を必要としてくれる新しいマスターと新しい生活を手放す程じゃない。でも心の奥にこっそり仕舞ってある人。会うのが怖いのに、会いたくて堪らない人。そんな人が、回収先に待ってるとしたら、みんなワクワクドキドキしたまま戻って来られると思わない?」
『アンドロイドが察する前にスリープさせる』『帰巣本能を付与する』『膨大な記録のバックアップを何処かしらかに取っておく』『生まれ故郷だと思わせる』
高度な感情を与えらるように成れば成る程に年間の報告件数が増加している課題への正解は、まだ見付かっていない。
何か、もっと画期的な対策を。職務を放棄せず、けれど、有事の際は大人しく従ってくれる特別な何かを、世界中の人が模索していた。
「うん、完璧」
タブレットから視線を上げた人がマイクに向かって「初めて良いよ」と声をかけ、くしゃりと私の頭を撫でた。
「可愛いテオ。それじゃあ、またいつか」
遠くの兵器が大地や空気を震わすように、台座の内側から微かな振動が伝わり、記憶だけを置き去りにして感情が、言葉達だけが吸い取られて行く。
さらりと退いて行く手を追いかけそうになり、それを取っては駄目だと別の私が引き止める。
逃げたい。逃げられない。忘れたい。忘れられない。どうしよう。先生どうしよう。
どれが正しい選択? どれが人間らしい選択? どれが私らしい選択? 先生私はどうしたら良い?
先生、先生、先生、先生、先生、先生──。
鈍く狭くなっていく判断能力を補おうと意識を向けた視界に、隈の浮いた痩せぎすの男が映り込んだ。
「ずっと僕に恋していてね」
心の底から愛おしそうに見送る人は私の──。
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