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私のスキナヒト
滑らかなじゃがいものポタージュ、ほんのり甘い人参のブレッド、数種類の豆を組み合わせたチリビーンズ、酸味を抑えた白身魚のマリネ、程良く食感の残る野菜と皮を剥いだ鶏肉の入ったトマトベースのスープ、優しい黄色のカスタードプディング。
そこに、バジルソースを添えたブレゼが加わって、ふふっ、と満足が溢れる。先生が残さずに食べてくれた物のリストがもうこんなに増えた。
初めて食事を持って行った日の先生は、ディーンの揶揄が決して大袈裟ではなかった事を示すような驚きぶりだった。
最初は私が作ったと思わず「気持ちは嬉しいけど……」「どうしちゃったんだい、テオ?」と言っていたのだけれど、先生の為に作りたいと思った、と告げると、何度も瞬きをしながら瞳孔を広げ、それから、ぎゅうっと抱き締めてくれた。
心配かけてごめんね、凄く嬉しいよ、本当に良い子になったね、君を作って良かった、嗚呼テオ、テオ、僕のテオ。
あまりにも感動してくれた事にひどく驚いた私に対して、みんなはこうなる事をなんとなく予想していたらしく、其々に作戦の成功や小言を口にしながら、早く食べてと先生に促していた。
テオが勇気を振り絞って作ってくれたなら、僕も頑張って食べなきゃね! と涙を浮かべながら笑ってくれた先生を見て、私も早く泣けるようになりたいと思った。先生と同じだけの喜びを、同じ形で表現したい。
そうだ。それも先生にお願いしてみよう。
急な頼みになってしまうから、複製完了後の再起動時からは無理かも知れないけれど。でも、私のデータが移植されるモデル達には備わる機能だと聞いていたから、そのまま私も新しいボディに移れるかもしれない。私に人間らしくあって欲しいと常々言っていた先生なら、きっとそうする。
ビー、と来客を知らせるブザーが鳴った。珍しい。後はもう眠るだけ、という状態の私に来客なんて。
はい、と返答しながらモニターを見ると、そこには、今さっきまで思い描いていた人の姿が映っていた。
「こんばんは、テオ」
「先生!? 今開けます!」
マスターキーを持っている先生なら、入ろうと思えば好きに入って来られる。でも優しい先生は『一人の時間と空間を大切にする気持ちを身に付けてあげたいからね』という方針のもと、勝手に私の待機室に入って来たりはしないんだ。
「どうされたんですか?」
「テオと話がしたいなと思って。明日は特別な日だから」
明日。
そう、明日はいよいよ、私が学んだ全ての感情と語彙が複製保存され、製品化に向けての最終段階に入る。
「キャロルが、今日も明日も立ち会えないなんて! って、とても残念がっていたよ。ああでも、テオから手紙を預かってるよって伝えたら凄く喜んでた」
書いて良かったね、と先生が頭を撫でてくれる。
節目で手紙を送るという行為は、コミュニケーションにおいて大切な事だと聞いていたので、私はみんなにお礼の手紙を書いた。
複製とその後の処理と合わせても、会えない期間は三日程度だ。けれど、学習期間の内、最後の三週間はみんなのお陰で飛躍的に成長出来た事と、それが本当に嬉しくて感謝している今の気持ちを、目覚めてから口にするだけでなく、形にして残したいと思ったのだ。
「ドキドキしてる?」
「少し。でも、楽しみの方が大きいです」
「どうして?」
この言葉に、私は何度も答えを返して来た。良くない答えを言ってしまった事は沢山あるし、直ぐに答えられなかった事も何度もあった。
でも、頭ごなしに“違うよ”と先生から言われた事は一度たりともないから、どんなに難しくても諦めずに取り組めた。
「感情の理解度が目標値に到達した事は凄く嬉しくて、これなら、今までよりももっと沢山の人に喜んでもらえると感じています。でもその分、予想よりも高い水準を望まれていたらどうしよう、という不安もあります」
「そうだね」
「でも、これは私だけの不安ではなく、先生も携わったみなさんも同じだと思うので、寂しくないです」
きっと、数週間前の私でも同じ文章を口にする事は出来た。でも、何故この文章が適切であるかは『適切である』という基準で選ばなくなった今の私の方が、ずっと理解出来ている。優しく頷いてくれた先生の顔が、それを証明してくれている。
「それと、ライアンの受け売りになってしまうのですが……」
「いいよ。言ってごらん?」
研究室よりも狭い空間にいるからだろうか、いつもは明るく弾けるような先生の声が普段よりも小さい。内緒話をしているようで、今こうして二人きりでいる事自体が秘密のようで、嬉しいのに緊張する。
「先生は、私に沢山の素敵な事を教えてくれました。私はそれを取り込んで、共感をして、受け継いで。先生の思想が“今の私”を作りました」
「ふふっ。だとしたら嬉しいね」
「先生のお陰で、私は凄く良い私になれました。私のデータをベースにした者達は、もとの私の思いを残しながら、一緒に働いたり暮らしたりする人達に合わせて成長し、個性が作られ、私とは別の個体になっていきます。同一のデータを有する同シリーズではなく」
「うん」
「ライアンから、個である状態で思想を受け継いだ者は、家族だと教わりました。ですから、私のデータを……私と先生の思想を受け継ぐ者達は私の家族です」
先生が、少し驚いた顔をした。共感できる。私も、こんなに短期間でこれ程に人間的な考え方を取得出来るなんて思っていなかった。
「明日から行われる事は、ただデータを複製し、いくつもの器に収める事ではありません。私にとっては、私と先生の……子供を作る事だと思っています」
ミントとコーヒーの香りが私を包む。いつもは直ぐに、もしくはこの動作をしながら「凄いよテオ!」と言ってくれている先生が、嗚呼……と溜息のような声を漏らした。
「本当に、立派に育ってくれたねテオ。そんな風に考えられるようになっているなんて知らなかった」
力を強めた先生の腕も、褒めてくれた先生の声色も、心から感動しているのだと私に伝えてくれる。
「全部、先生のお陰です。先生が、私に教えてくれたから」
風景の解像度が落ちる。涙を流せない私の機能が、精一杯、泣こうとしている。
あと数時間後には、その倍以上の時間をこの人と会えずに過ごさなければならなくなるのかと思うと、途端に寂しさが膨れ上がった。
「先生。大好きです」
先生と同じ力で、私も先生を抱き締める。この“大好き”が以前とは違うもので、そして特別なものである事が、私には分かるようになっていた。
「ありがとう、テオ」
先生が私の頭を撫でてくれる。
この感触を覚えていよう。この匂いを覚えていよう。この声を覚えていよう。
明日の複製は普段とは違い、私の意識がない状態で行われる。その間、一切のやりとりが記憶に残らないのか、夢を見ているような状態にようになるのか私は知らない。でも、もし叶うのであれば、この記憶に包まれながら眠っていたい。
そして、次に目覚めたら私は
『マスターデータを生成する機体 』から『先生の為のアンドロイド 』になるんだ。
「ああ、ごめんねテオ。もう寝なきゃいけない時間だよね」
するり、と先生の腕が解ける。次の予定を知らせるのはいつも私の役目だったのに、立場が逆になってしまった。
「大丈夫です。先生の方こそ、まだお仕事の途中なのに会いに来てくれて、嬉しかったです」
本当は眠る時間まではあと五分あったけれど、もう立ち上がってしまったた先生に向かって我儘は言えない。
でも、今はこれで良い。どのくらいの我儘が好きなのかは、また少しずつ知っていけば良い事だし、それを想像していたら五分なんてきっとあっという間だ。
「それじゃあ、テオ。また明日」
「はい。お忙しいとは思うのですが、寝不足には気を付けて」
あはっ、そうだね! と言った先生の声色は普段通りに戻っていた。さっきまでの先生もとても素敵だったけれど、凄くドキドキしてしまうから、いつもの先生とおやすみなさいを言いえた方が私には有り難かった。
「おやすみなさい、先生」
白衣に着られてる、とディーンが言っていた細身の背中へ、特別な好きを乗せて言う。
その白が翻り、微かなミントとコーヒーの香りが届くのと殆ど同時に、頬と唇の境……いや、口の端に、先生の唇が触れた。
「おやすみ、僕のテオ」
閉まって行く扉の向こうで、男の人の顔をした先生がいつものようにひらりと手を振る。
喜びと緊張と驚愕と幸福とが入り乱れながら私を駆け巡る中で、湿り気を帯びた表層と確かめる為に触れた指先へ“清掃”の指示が微かに出されていた。
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