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仕事が終わってそのまま東城のマンションに来るのにはまだ慣れない。 渡された鍵をあけて部屋に入ると、玄関が自動で灯りがつく。奥は暗い。灯りのスイッチを探しながらつけて歩き、こんなことなら自分のアパートに帰ればよかったと思う。 よくそう思うのだが、アパートで一人ですごしているとそれはそれであっちにいけばよかったという気持ちになる。東城は自分が帰ってきたときに広瀬がいるとうれしそうにしている。困ったものだ。 そろそろ気候が暑くなってきたのでクーラーのリモコンのスイッチを入れる。この家では、必要なものは目に付く場所においてあり探す必要がない。定位置にいつもありどこかにいってしまうということがない。マンションの中はいつも整然としている。 広瀬が東城の家にたまにでも来るようになったのは、彼の強引な希望を受け入れたためだ。 東城の異動後、今の自分にとって必要な人間関係を維持するには、好き嫌いを超えた譲歩も必要だと思ったのだ。そうはいっても、振り返るといつも自分が譲歩しているような気もする。だが、東城もそう思っている可能性は高い。 大雨の夜、高級ホテルのバーで話した後の数日間は以前と変わらなかった。 職場が違うだけで、彼が連絡をしてきて、広瀬が家にいたらやってくるというものだった。 そんなある日、仕事で遅くなっていたら、東城から、何度かメールと電話がかかってきていたのだ。広瀬が気づくのには時間がかかっていた。一人になってから、電話をかけなおすと、東城が1コールもしないうちに電話をとった。 「電話しましたか?」と広瀬がいう。 「広瀬、今、どこにいる?」と東城が早口になっている。 「署の近くの駅ですけど。東城さんは?」 「お前の家の前だよ」と東城は言った。何回も連絡したんだがな、とぼやいている。 「ずっと、宮田と一緒だったんで電話取れなかったんです」なんで部屋に入らなかったのだろうと疑問になったが、あ、と思い出した。 東城はこの前もめたときに、鍵を置いて、広瀬の家をでていったのだ。それ以来、広瀬は鍵を返さず、東城も欲しいとはいわなかった。 「後、20分もしたら、最寄り駅につくので、どこかで待っててください」そういって電話を切った。 合鍵をわたさなければ、と広瀬は思った。帰ったら探そう。どこにいっただろう。あの時頭にきて、放りだしたまま、どこにしまったか覚えていない。 東城は、駅の改札前にいた。広瀬のアパートに一旦いき、自分が鍵をもっていないことを思い出したのだという。家の前でまっていられず、駅まで戻って来たらしい。 アパートに向かいながら広瀬は東城に鍵がほしいといわれると思っていたが、東城の提案は全く別だった。 「広瀬、俺のうちにこないか」という。 なんだそれ、と広瀬は思った。 「待ってる間に考えたんだが、俺の家の方が広いし、壁も厚いし、場所だって、大井戸署にも本庁にも行きやすい。お前が俺の家の帰ってくればいつでも会えるし」 いろいろといい点をいいつのり、かなりしつこい。こうなると自分の意見を通すだろう。 広瀬のアパートに入っても、まだ、背後から話を続けている。 「検討しておきますよ」とあまりにもうるさいので、広瀬はこたえた。 すると、東城は、「そうか。じゃあ、今すぐ行こう」と言う。ますますわけがわからない。 「検討するんだろう。試してみないと、検討もできないじゃないか」 「家は、前、みました」 「みるだけじゃなくて、ちゃんと生活してみるのが検討だろ」 東城は、勝手に広瀬の衣装ダンスをあけ、旅行鞄に広瀬の服をいれていく。明日着るスーツも、シャツも調える。 「お前がうちに来るほうがいい。そうすれば俺はお前がこのアパートにいるのかどうか、帰ってくるかどうか考えなくていいだろ。俺の方がこまめに連絡するから、うちに俺が帰るかどうかはお前はいつもわかるよ。俺がここに来るより、お前が俺のところにくれば」 「東城さん」と広瀬は遮った。 東城は手をとめて振り返った。彼の表情を見て広瀬はうなずいた。 「わかりました。荷物は自分で作りますから」 そう言ったのだ。 それから広瀬は何回か東城の家を訪れるようになった。 マンションの鍵は東城がすぐに渡してきた。マンションの豪華な付属設備を利用できるカードまで。押し付けられたに近いが、受け取ったら少しだけ安心した顔をされた。

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