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第1話
くずかごの中身
大学に行くための勉強をする根気も無ければ、専門学校にいって身に着けたい知識も無い。
かといって社会に出て今すぐ働きたいかと言われたらそれも嫌。
進路指導では「もっと若いうちから将来のビジョンをよく考えなさい」と耳に胼胝ができるほど言われた。
俺からしたら、周りの奴らが自分の将来を凄く明確に考えていることに驚かされていた。
というか、将来をちゃんと考えるってどういうことなんだろう。
ちゃんとした大人ってなんなんだろう。ちゃんとした仕事ってなんなんだろう。
何歳になったら結婚して、何歳になったら転職して別世界に触れて、何歳になったら結婚して子供産んで家立ててそれで…って、なんで皆そういうことを考えられるのかが不思議でしょうがなかった。
一方では「若いうちにいっぱい遊びなさい」とか言ってくる。本当に正しい大人になるにはどうしたらいいのか教えてほしい。
将来は医者になりたいとか、調理師免許を取って海外に修行に行き自分の店を持つとか、美容師になって都内に店を構えたいとか、高校の三年になった瞬間皆が口々に自分の将来について語り始める。ついこの間まで俺とバカ騒ぎしていたやつまでもが。
「泰文(やすふみ)、お前進路の事ちゃんと考えてんの?」と心配そうに友達に言われたとき、さすがにやばいのかもとやっと思った。
得意なことは先生を怒らせること。宿題を忘れること。人の話を聞かないこと。
苦手なことは勉強全般。こんな救いようのない人間がいるのかなぁ、と自分のことながら不安になってしまった。
先生たちも眉間にしわを寄せてうなるばっかりで、俺をどんな道へ導くべきかが全然見いだせていなかった。
道端で見つけた小さな石ころを蹴りながら帰っていると、向かいからサラリーマンたちが歩いてくるのが見えた。社員証を首から下げ、ばかな俺には到底理解できないような難しい話をしながら去っていく。俺はその輪の中に入っている自分を想像してみた。
紙たばをかかえ、もたつく足で先輩たちの後をつけていく。そういう姿しか想像できなかった。石ころは排水溝のなかにぽっちゃんと落ちてしまった。
セロハンテープでつぎはぎした窓ガラスの隙間から吹き込む冷たい風は、家の中だけじゃなくて俺んちの家計さえもひんやりとさせる。
父親は物心ついた時からいない。父親がいつの間にか勝手に作っていた借金を、病弱な母親が必死に返していた。「泰文にまでバイトさせてごめんね」骨ばった手でご飯をよそる母親は、うっすらとほほ笑んで俺を見る。そう優しく微笑まれては、本当の事が言い出せない。
実はこの前バイトをクビになった。レジでいちゃもんをつけてきたおやじと口論になり、10割俺のせいにされたのだ。「あー、うん」適当に返事をして茶碗を受け取る。
家の中のものすべてがくすんでいた。「進路、決まった?」「いや、」「家がこんなんじゃ、泰文だって考えようがないよね」母のこめかみの白髪は、いつの間にか習字用の筆が数本作れるくらいの量になっていた。
「だめなお母さんでごめんね」だめなのは母親ではなく、家計がこんなにもひっ迫していると知っていて、いい仕事について親を楽にさせようともしない自分なのだ。
小さな虫がみそ汁の上に浮いている。いつか俺もこうなるのかな、と思いながら、動かなくなった虫を見た。
やりたいことも見つけられず呆然としていた俺は、なんとなくでデザインの専門学校に入った。なんとなくで入ってしまった俺に居場所なんかあるわけなくて、いつも教室の隅っこで居眠りをしていた。皆将来は都内のデザイン会社に入るとか、有名な服のブランドのデザイナーになるとかそういう話をしていた。
先生が相手するのは、意欲のある人間だった。そんなの当り前だ。やる気も元気もない、社会に出るのが嫌って理由だけで学校に来てしまった俺みたいな人間に親身に接してくれる人間なんているわけない。
母親が出してくれたなけなしの学費をどぶに捨て続けるだけの日々を送り、俺はクズ人間としての階段を着実に上り続けていた。
就職先も見つからないまま卒業した俺は、深夜のコンビニバイトを始めた。母親にはデザイン会社で働いていると嘘をついた。就職祝いを送らなきゃ、と電話口で嬉しそうに話す母親の声を聴いて、俺の中のわずかな良心がずきっと傷んだ。
あんたの息子は毎日飲んだくれて適当な生活をしているんだよ、と言おうかと悩んだけれど、そんなことしたら冗談抜きで母親はショック死すると思う。
格安のアパートのポストには、生命保険とか年金とか大事なお金に関する手紙とか新聞の勧誘とかがぱんぱんに詰まっていた。
口座にはほとんど貯金もない。このまま生きていたら間違いなく将来はホームレスだろう。そういう危機感をかき消すように酒を飲んだ。俺の肝臓って同い年の奴に比べたら凄く汚いんだろうなぁと思った。
かび臭い畳に寝転んで天井を見る。下の階から、子供の歌声が聞こえた。誰かの誕生日を祝っているようだ。多分だけど、大きなケーキとか用意してもらってるんだろう。
自分の誕生日がそうだった。母親が作ったバタークリームのケーキと、赤いミニカー、大好きな唐揚げ。昔を思い出した途端視界が涙で滲んでくる。「なんでこんな風になっちゃったのかなぁ」俺のつぶやきは天井に吸い込まれていく。
布団も敷かないまま、俺は眠ってしまった。
焦げ臭いにおいに鼻をくすぐられ目が覚めた。ぱちぱちと何かが弾けるような音がする。あと、部屋の中が凄く熱い。赤い炎が揺らめくのが見えた瞬間俺は飛び起きた。
「おい、火事だぞ!!」誰かが叫んでいるのが聞こえる。玄関を開けると、アパート全体を覆うような黒煙が立ち込めていた。俺はTシャツの襟で口元を覆った。煙が目に染みて前がよく見えない。思わず手をついた壁は信じられないくらい熱くて咄嗟に手を離した。手のひらは真っ赤に腫れている。子供の泣く声が聞こえた。「早く、早く降りて」すでに避難した人が必死に叫んでいる。俺は夢中で走り出した。火の手は思っていた以上に早いようで、アパートをじわじわと追いつめている。ミシミシ、という音がした。
音の方を振り向いたのと、燃えかけた柱が俺の上に倒れてくるのは、ほぼ同時だった。
気が付いたとき、目の前には真っ白な空間が広がっていた。死んだのかなと思ったけど違うらしい。俺の腕からは点滴が伸びている。色んな機械が俺の枕元に並んでいた。
それに、鼓動を感じる。あぁ、生きてるんだなとも思ったし、あぁ、生き残ってしまったとも思った。
安心した気持ちで眠りこけていたけど、自分の置かれている現状を思い直しどんどん血の気が引いていった。住処が燃えたのだ。財布も携帯も多分駄目。
それにこんな状態では今まで通り働けない。
綱渡りみたいな生き方をしている俺にとって、バイトの収入が命綱だった。その命綱が今にもちぎれそうになってしまった。一瞬母親の顔が浮かんだ。この年になっても親に頼ろうという思考が頭をよぎる自分が心底嫌だった。
言葉にできない絶望感と自分の備蓄のなさに頭の中をぐるぐる回る不安に心を滅茶苦茶にされていると、部屋のドアがノックされる。
「意識が戻ってよかった」そう言いながら入ってきたのはいかにも頭がよさそうな男。
少し長めの前髪と、フレームのない眼鏡。眉毛は綺麗に整えられ、イケメンだなぁと素直に思った。温厚そうな笑顔を向けられ、警戒心が少し和らぐ。首に下げているネームプレートには「長弓真」と書いてある。「まこと」なのか「しん」なのか分からなかったけど。「痛むところは無いですか?」「あ、いや、なんとか…」
先生によると、幸い俺の体はそこまで重症じゃないらしい。軽度のやけどと打撲で済んだのは奇跡に近いとまで言われた。
「今後は外来の方に通院していただいて、怪我の経過を見させて頂きます」先生はにこやかに笑ってそういった
「…いいです」「え?」「金無いですもん。入院費だって払えるかわかんないし」俺は自分の中の鬱憤みたいなものを先生にぶつけ始めてしまった。「どうせ、あんたみたいにちゃんと勉強して医者っていう立派な仕事してる人から見たら、俺みたいな人間ってゴミみたいなもんでしょ?俺みたいなの助けても世の中の為になんないのに」お門違いにもほどがある。この人がいたからこうして俺は生きているのに、自分のだらしなさが招いた現在を、ふがいなさを、先生にぶつけているのだ。「家は燃えちゃったし、バイトはいけないし、そんなんで病院とか言ってる場合じゃないんだよ、そんな余裕ないんだよ」全部自分のせいなのに、ばかだなぁと思った。言ってて情けない。死んじゃいたいくらい。
「ならうちに来ますか?」
思いがけない言葉に愕然とした。顔を上げると先生はやっぱり微笑んでいる。
まるで仏さまみたいに。
何階建てなのか分からないくらい縦に長いマンションだった。俺は首が痛くなるまでその建物を見ていた。「入って」先生はにこっと笑って促す。
退院した俺は先生の家に転がり込むことにした。もう考えるのがめんどくさかったのだ。
いいじゃないか、医者にかくまってもらえるなんて。一生金に困らないじゃないか。そんなだらしのない考えが頭を埋めていた。
でもいざ来てみると少しビビってしまう。玄関には何台もの監視カメラが天井からぶら下がり、場違いな俺を捉える。
セキュリティを解除してエレベーターに乗り込む。うぃーん、と音を立て上へと昇っていく。先生の横顔を見ると、俺の視線に気づいて先生も俺を見る。ふっと微笑むだけで何も言わない。
「面白いものは何もないけど」玄関に入った瞬間、植物みたいないい匂いがした。一人で暮らすには広すぎる空間がそこにあった。大きな窓ガラスには曇りひとつない。その向こうに広がる夜景は小さなビーズをまき散らしたみたいにきらきらしている。
白とグレーと藍色で覆われた部屋にはゴミ一つ落ちてない。開いた口がふさがらなかった。同じ人間でもここまで違うのかと思ってしまう。
「さて、食事にしようか。シャワーが先の方がいい?」先生は台所に向かいながら俺に言う。
「あ、じゃあ、風呂借ります」「借りるなんて言わなくていいよ、ここに住むんだから」
当たり前みたいにそう言い放つ先生に、恐怖さえ覚えた。
風呂の中もカビひとつない。石鹸とかシャンプーとかがきっちりと並べられていて、几帳面な性格なんだなとひしひしと伝わってくる。手のひらに広げたシャンプーはやっぱりいい匂いがして、自分が今まで触れたことのないものに触れるたび、自分の今までの生き方が情けなくなった。
風呂からあがると、肉が焼けるようないい匂いがした。「あんまり凝ったものは作れないんだけどね」先生が作ってくれていたのはハンバーグだった。付け合わせのサラダとコンソメスープとデザートにアイスまでついてる。腹の虫がきゅるる、となる。
「いただきます」人が作ったご飯を食べるのなんて何年ぶりだろう。下の上に広がっていくうま味が俺の体の緊張をゆるゆるとほどいていく。それと一緒に、俺が小さい頃の誕生日の日の記憶までもほどこうとして、うっかり涙腺がゆるむ。
「おいしい?」「うん」つい子供っぽい口調になってしまった。「おかわりもあるからね」先生は笑う。やわらかに。
「何が目的なんですか」夕飯が終わった後、先生に聞いた。先生はきょとんと俺を見る。「普通じゃないでしょ、こんな俺みたいなまともじゃない人間かくまってさ。監禁でもするつもりなんですか?それとも人身売買ですか?臓器を誰かに売るつもりなら無理っすよ、俺不健康だもん」夕飯をおかわりしといて何を言うんだって感じだけど、こんなに優しくするのには裏があるのに決まっている。「そんな事企んでいないよ」先生は困ったように笑ってそういった。「じゃあ何ですか、かわいそうすぎて見てられないからですか?」「それもあるよ」先生はそう言ったあと少し黙った。「君にね、してほしい事があるんだ」まっすぐに見つめられたじろいだ。「そんな、痛い事とかじゃないよ」ソファに座っていた先生は立ち上がって俺の方に歩いてくる。「ちょっと、人に言えないことなんだ」
俺の頭を優しくなでながらそう言った。
「着替え終わった?」「えぇ、まぁ…」俺は渡された服に着替えて先生の前に出た。先生が渡してきたそれは、学ランだった。これを着てほしいと頼まれ言われるがまま着替えたけれど、何をしようというんだろう。「学ランとか中学生ぶりなんですけど…俺高校ブレザーだったから」と言いながら先生の方を見ると、先生はいつの間にか俺の目の前に来ていた。
驚いていると、「かわいい」と凄く小さい声で先生が言う。
先生の目がレンズの奥で鈍く燃えているような気がした。俺は瞬間ぞっとしてしまった。
長い腕が俺の体をぎゅっと抱きしめる。「ほんとうにかわいい…」ため息と一緒に漏れた言葉が俺の耳をくすぐる。女の人がこんなことされたらいちころなんだろうなぁと思った。
不覚にも、俺もどきりとしてしまった。俺の体を、先生の手がどんどん這いずり回る。俺のけがを手当てしたであろう手で、色んな所を撫でられる。
普通こんな事男にされたらぶん殴る勢いで振り払うのに、それが出来ないのは多分、先生にもうだいぶ世話されているからだと思う。それと、撫でる手の優しさに心地よさを感じているのもあると思う。人に優しくなでられるなんて何年ぶりだろう。いつもいつも、ばか野郎、と学校の先生に小突かれてばっかりだった俺の頭。俺は硬直したまま、先生にされるがままの状態だった。先生の手が俺の下半身に伸びてきた瞬間、俺ははっとした。
「怖い事はしないから」先生が喉の奥から絞り出すように言った。「家の事なんて何もしなくていいから、だから、こういうことだけ…させてほしい」なんで俺なんですか、と聞きたかったけど、今にも泣きそうな声で懇願する先生にそんな事出来なかった。
「あの、こういうことって、どこまで、ですか」恐る恐る聞くと、「君、男の人としたことある?」と逆に聞かれてしまった。「な、ないです」そういうこと自体久しくしていない。
「君が許してくれるなら最後まで」「あれですか、俺がされる側ってことですか」「うん…」
全く未知の世界なので、勝手がわからない。「痛くないなら…」というと、「本当に?」と先生が俺を見る。子犬みたいな目で見つめられ困惑した。イケメンって得だなぁと思った。どんな表情をしていても様になってしまう。
「キスしてもいい?」ほんのりと頬を染めながら先生が言う。一瞬ドキリとした。「ど、どうぞ…」男の人とキスなんてしたことないし、ましてやその先なんて経験したことが無い。
でも、衣食住世話になろうとしてる俺に拒否権なんてない。一文無しの生活を送るのと、キスするのと、天秤にかけなくてもどっちが自分にとっていいか分かる。俺はぎゅっと目をつぶった。先生は俺の口を覆うようにキスしてきた。しょっぱなからそんなのかましてくるな、と思っていると、先生の舌が唇をこじ開けるように入り込む。「む、」予想だにしない展開に頭が追い付かない。ぱさぱさだった俺の髪の毛は、先生の家のシャンプーのおかげでしっとりしていて、先生の手は俺の頭を何度も撫でる。人の舌ってやわらかいなぁと考えている間にも、先生はどんどん攻めてくる。
ひょいっと体を抱えられ、やわらかいベッドの上に寝かされる。マシュマロの上に寝転んでいるみたいだった。このまま食べられてしまいそうなキスはまだ続いている。
「んぐ、」鼻にかかった声が出て恥ずかしかった。先生は学ランの襟元を広げて、胸元から手を突っ込んでくる。先生の一挙手一投足に俺はビビってしまう。そんな不安を察してか、
先生はいい子いい子するように俺の頭をなでる。
唇が離れた瞬間、いっぱいに息を吸い込んだ。先生は俺の首あたりに顔をうずめて深く長いため息をついた。すぅーっと吸い込んで、はぁーっと深く吐き出された吐息が全身をくすぐった。色んな事に戸惑っている。猛スピードで展開していく俺の人生と、先生からされるあれこれを、気持ちいいと思っている自分に。
この先どうなるんだろう、と思っていると、先生がまたキスしてきた。
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