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第2話

目が覚めると、俺は大きなふかふかのベッドの上に一人ぼっちになっていた。 昨日の夜の事を思い出す。先生に一通り体中を撫でられ、先生が一呼吸おいて「ありがとう、もう十分だ」と耳元で言った。そのまま俺をぬいぐるみのように抱きしめて眠ってしまった。 俺も今まで体験したことのない出来事が一気に押し寄せてきたからか、どっと湧き出た疲労感に逆らえず寝てしまったのだ。自分の身なりを見てみると、前がはだけたままだった学ランは一番上のボタン以外ちゃんととめてある。何気なく伸ばした腕の先に小さなメモがあった。「昨日はごめんね。冷蔵庫にあるものは好きに食べていいよ。僕は仕事に行ってきます。玄関のカギと、エントランスを開ける番号も書いておくね。何もしなくていいからね」 ときれいな字で書いてあった。何もしなくていいというのは、何もするなという意味でもあるんだろうか。俺が何をしなくても、全てが整えられていた。洋服も、食べるものも、何もかも。至れり尽くせりだった。なのに、どうして心がずーんと重たいんだろう。 世の働く人たちが聞いたら、俺が今置かれている状況って羨ましくて仕方がないだろう。 金もかけずに自由気ままな毎日。働かなくても飲み食いできてしまう。 俺がもっと若かったら、一生このままでいいと浮かれきってたと思う。そうなれないのは多分、俺が一般社会で言ったらまぁまぁの社会人経験を積んでいるはずの歳だからかもしれない。25歳って、本当に若いのかな。四捨五入したら30だ。 きっと俺と同い年だったやつらは、今頃会社で結構重大な仕事を任されたり、後輩の指導とかもしているんだろう。それに比べて俺は何なんだろう。 自分の努力不足が招いた学のなさを、忍耐力のなさを、ずーっと見ないふりして生きてきてしまった。 冷静に自分が置かれている状況について考える時間をちゃんとったのはこれが初めてかもしれない。太陽はもう結構な高さに昇っていた。 「というわけで、今まで通り働けそうにないので…迷惑かけるわけにもいかないから、辞めようと思ってます」普段糸より細い目をしているバイト先の店長は、限界まで目を見開いて俺の口から飛び出てくる嘘みたいな本当の話を聞いていた。 「まぁ、一応事情は分かったけど…住むところは大丈夫なの?お金の事もそうだけど…」 「あぁ、とりあえず友達の家に世話になってます」さすがに自分のけがを手当てしてくれた病院の先生に衣食住世話になりっぱなしですとは言えなかった。世話になれるような友達なんかいないのにな、と自分の心を悲しくさせる嘘をついた。 店長は店の弁当や期間限定スイーツやジュースやお茶、スナック菓子なんかを袋にぱんぱんに詰めて俺に手渡してくれた。「人間、体を一番大事にしなきゃダメなんだよ」 俺みたいな人間に優しくするなら、もっと他の人にこの優しさを分けてほしいと思った。 俺は店長に頭を下げて先生のマンションへ帰っていった。 ドアを開けると先生の靴があった。今日は早上がりだったらしい。「あれ、お帰り。お散歩 ?」エプロン姿の先生が顔をのぞかせた。「バイト先に行ってました。辞めますって言わなきゃと思って」「そうだったの」先生はそれ以上俺に何も聞かなかった。 先生をやってるくらいだから、人の触れてはいけないラインみたいなものを見極めるのがうまいのかもしれない。 「…あの」「ん?」「なんかやります」「いいよ、座って待ってて」「いや…なんか、それじゃだめだと思うから」そう言うと、先生は「じゃあ、野菜たちの皮をむいてくれるかな」と言った。俺は玄関に並んでいる紙袋の山に目をやりながら台所に向かった。 今日の夕飯はビーフシチューとフランスパン、コールスローと野菜スープ。相変わらずどれもおいしかった。 「…あの」「なに?」「先生っていくつですか?」「32だよ」「結婚したことは?」「はは、無いんだよこれが」そのあとも、他愛のない会話をしながら夕飯を食べ続けた。 満腹って幸せだ。普通の人にとって当たり前のことが、俺にとっては特別だった。 「お風呂沸いてるよ。お皿は僕が洗っておくから先に入っておいで」先生は今にも眠ってしまいそうな俺を優しく揺り起こしてそういった。 「まだ眠らないで」その一言が妙に熱っぽくて、とろとろと俺を包んでいた眠気がすっ飛んだ。 寝室で先生を待った。用意された服を着て。 ベッドに横になると眠ってしまいそうだったから、間接照明の優しい明りを見ながら、実家の照明のしょぼさを思い出していた。 ドアが開いて、空気に割れ目が入るのを感じた。見ると先生が髪をふきながら立っている。 「かわいい」この前と同じことを言った。玄関に並んでいた紙袋の中身は思っていたとおり制服だった。 どうやら先生は、制服という物に対して異様な執着があるようだった。理由は分からない。というよりも、聞いていいのかどうか、怖かった。 今回はブレザーだった。いかにもなんちゃって制服という感じの色合い。その制服がなんちゃってか本物かどうかって、見ると意外とわかるものだ。 明るすぎるくらいの緑色のジャケットと、グレーのスラックス。ネクタイは真っ赤。クリスマスを連想させるような色合いだった。先生は髪を拭いていたタオルをその場に落として 俺に歩み寄ってくる。 押し倒すように抱きしめられ驚いた。「うお、」俺の存在を確かめるように、先生は強く抱きしめてくる。 人の目から光が失われる瞬間って、結構怖い。生気を失い、作りものみたいに見える。 俺と一緒に笑っていたはずの友達。進路指導の先生。専門学校の講師。 先生の目もそうだった。いつもさわやかに笑っているのに、この時だけ別人みたいな顔になる。 はあ、と熱い吐息が首をなぞった。思っていたより大きな手は、相変わらず俺の頭にある。 この手で、色んな人の手当てをしてる。お腹を開いて、悪いものを取り除いて、血をぬぐって、縫いとめて、人の命を救っている。俺ものそのうちの一人。 先生が顔をあげ俺を見る。ぼんやりと熱に浮かされているような瞳で、どこを見ているんだろう。 ちゅう、と触れるだけのキスをされた。やっぱり体が強張ってしまう。先生はそれを敏感に察知して、やっぱり俺の頭をなでる。 キスは少しずつ深く長くなっていく。こういうの、映画でしか見たことが無いなと思った。 自分に降りかかるありとあらゆる現実離れした出来事の中で、この瞬間だけは夢ではないのだと実感する。 舌と舌がぬるぬる行き来する。元々そんなに経験もないから、いいも悪いもよくわからない。 だけど、嫌ではなかった。「ん、」と声が漏れる。先生は俺が小さく声を上げるたびに 眉を寄せる。 特別甘いわけでもないのに、いつまでも舐っていたくなるのはなんでなんだろう。 人間だから、こういうことをしていれば自然と色んな所が熱くなる。 この感覚さえ久しぶりで戸惑ってしまうほどだった。無意識に足をすり合わせて隠そうとしているのも恥ずかしい。先生が俺が着ているスラックスに手を伸ばす。「いや、まって、」 俺は驚いて唇を離した。「嫌?」ほんのりと頬を染めた先生が言う。どきっと自分の心臓がはねた理由がわからなかった。「いや、だって、普通嫌でしょ」もごもごというと先生は笑って、「僕は普通じゃないから」と呟いた。 どういう意味か問う前に、先生の手はスラックスの中に入っていた。「ひぇ、」先生の指はスラックスどころか下着の中にもぐりこんでいる。 そんな事されるの初めてだったからちょっと怖かった。でも、拒む気にもなれなかった。 「あ、」先生の指がどう動いているか嫌というほど分かった。開いている方の手は、俺が着ているシャツのボタンを器用に外す。その間にもキスは続いていて、俺はされるがままだった。こんなにもいっぺんに気持ちのいいことをされて、冷静でいられる人間じゃない。 「ん、せんせ、」合間に呟いた俺の言葉に、先生の体温がぐんと上がった気がした。 なんかこういうAVありそうだなぁ、とぼんやりと思いながら、下半身にたまった熱いかたまりが、優しく外へ出ていくのを感じた。

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