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1日目
初めてその客を見た時、似合わないなと思った。騒がしい座席にも、高級な酒にも、色街にも。何もかもが似合わない。青鈍の着流しという簡素な格好だけど、見ただけでそれら全てが高価なものだとすぐにわかる。
どうせいつもの冷やかしだろう。高い金を払っているのに酒も料理も口にせず、ただ笑ってこちらを見ているだけ。
最近流行りの散切りは、癖が強いのかわずかにうねっていた。それでも金や色といった下劣な雰囲気は欠けらも無い。
本当に、訳が分からない。
でも、一番分からないのは。
「アタシのこと、女将から話は聞いていますよねェ、旦那様」
「ああ。もちろん聞いているよ」
にこにこと邪気のない顔で笑う様に、また訳が分からなくなる。聞いているのであれば尚のこと。なぜここにいる。
陰間茶屋の、二階になんて。
「聞いた上で了承した。貴方にとっても悪い話ではないんだろう?」
「それは、まァ、そうですけど」
「話し方も普通でいいよ。そんなに気を使わなくていい」
「……そうもいきません。お客様ですから」
コツン、と盆に灰を落とす。麝香に混じって紫煙がたち昇った。遠くから甲高い嬌声が聞こえてくる。どこかで誰かが春を売っているのだろう。
まあ、俺には関係のない話だが。
「ここまでたどり着いたのは私で何人目かな?」
「さァ。数え切れませんね」
「それじゃあ、あの向こうには?」
男が指さしたのは紅の屏風。その向こうには本来であれば床が敷いてある。でもここは別。そう簡単には先へと進めない。
ゆるりと右足を伸ばす。衣擦れの音と共に豪奢な打ち掛けが乱れていく。男は相変わらず感情の読めない微笑みでこちらを見つめていた。
「だァれもいませんよ、あの先なんて」
「そうか。それはよかった」
「旦那様は行けると?」
「そのつもりだ」
何を馬鹿なことを。屏風の先に行くことがどれほど困難なことか知っているのか?
それとも、見くびられているのだろうか。この俺が。だとしたら叩きつけてやらなくてならない。
夢ではなく、現であると。
「アタシが何と呼ばれているか、旦那様、知ってるかい?」
「聞いているよ。舞わずの太夫、御百度姫」
「よくご存知で」
煙管をそっと咥える。最初は美味しくもなかった煙草が、いつの間にか恋しくなってしまった。
視線をやると髪にさした簪がシャラリと鳴る。吉原の太夫だってこんな豪華なものは身につけられないだろう。同じ地獄にいるというのに。嗚呼、可哀想。
「御百度姫ってのはね。床入りするための条件から来ているのさ」
「百夜、通えと?」
「賢いねェ、旦那様」
アタシを抱きたければ、百夜通いな。
挑発するように目を細めた。
しかもただ通うだけじゃない。一夜分、買い切ることが条件だ。俺はこの陰間茶屋で最も高級であり、そう簡単に手が届くものではない。自分で言うのもなんだけど、それなりに価値が高いのだ。
だから多くの人は百夜どころか一夜でさえ訪れることができない。茶屋の二階にたどり着くことが出来ても、触れることはもっと難しい。それで、皆諦める。そんな高嶺の花よりも手軽に抱ける陰間を求める。
どうせこの男もそうだろうと高を括っていたけれど。
「通えばいいんだね? 百夜、貴方のところへ」
「あ、あァ」
「そうしたら貴方を手に入れられる?」
「まァ……そうなるね」
男はどこまでも本気だった。目でわかる。生半可な気持ちでここに来ていない。興味本位とか、気まぐれではない。
長年の勘がそう叫んでいた。
この男は危険だ、と。
「わかった。それじゃあまた明日も来るよ」
「簡単に言うねェ」
「貴方のためならいくらだって払う」
「太っ腹だ。旦那様、お名前は?」
琥珀色をした切れ長の瞳が、きゅっと細められた。今まで貼り付けたような笑顔だったのに。ようやく人間らしい顔を見ることが出来た。
そして優雅な所作で頭を下げる。まるで舞を見ているかのようだった。
「周、と申します」
「あまね? それは名字かィ?」
「いいえ、名前です。姓はまた後日お教えしましょう」
もったいぶった話し方をする。それじゃあまるで、これからも通い続けるみたいではないか。いや、この男、周はそのつもりなんだ。だから焦る必要もない。
余裕があるな。癇に障る。
「そう顰めた顔をしないでください、太夫」
「太夫なんてよしとくれ。そんな大仰なものじゃないんだ」
「それでは、なんと?」
遊女と違ってすぐに花が散る陰間には太夫なんて位はない。それでも周りが俺をそう呼ぶのは、それに見合う価値があるから。
徒花ではあるが、高嶺であることには間違いない。しかし俺には賞賛ではなく蔑称のように聞こえた。
どんなに鮮やかな花でもいつかは散る。地にしがみついてみっともなく枯れるのなら。それならいつか飛び立ちたい。自由を得たい。どこまでも、誰にも縛られることなく。そう、まるで。
「夜鷹。アタシは、夜鷹」
「素敵な名前だ」
「源氏名に素敵もなにもあるかィ」
紫煙を吹き掛けて口の端だけで笑う。周も同じように呼吸だけで微笑んだ。
これが俺と、周の初めての夜だった。
そう息巻いて座席に座ると、なんだか妙に緊張してきた。別に俺がどんな打掛けを着ていたといても周は何も思わないかもしれない。多少は何かしらに気づいて欲しいけれど、だからと言って浮いた言葉を向けられたらきっと可愛くないことを言ってしまうだろう。
素直じゃないから、と雲雀に言われるのにも慣れてしまったが、こればかりは性格なんだ。すぐに変えろと言われても難しい。そもそも幼い頃は見た目なんてなにも気にしていなかった。むしろ倹約、質素、質実剛健な暮らしをしてきたんだ。そんな人間がいくら陰間とはいえ、こんな場所には不釣り合いなのだ。
もうすぐ店が開く。そうしたら、きっとすぐに周はやってくるだろう。何が楽しいのかニコニコとしながら、今日も俺に受け取られない手土産を持って。
「やあ、夜鷹。こんばんは」
「こんばんは。今夜も来たね」
「もちろんさ。そのために大急ぎで仕事を終わらせてきた」
今日の周は藤鼠色の紬に濃紺の羽織という、普段より畏まった格好だった。言葉通り仕事が終わってすぐにやってきたのかもしれない。いつもの着流しも、粋な感じで悪くない。でも本当はこういう格調高い方が似合うんだろうな。
癖の強い髪は雰囲気を柔らかくし、切れ長ではあるが琥珀色の瞳はどこか優しげだ。どんなに着物を気崩しても品の良さまでは隠しきれない。それは、いつ何時でも背筋をすっと伸ばして座る仕草からも伝わってきた。
そんな、見るからに誠実そうな男に媚びたような口調で着物について尋ねるなんて。なんだか滑稽な気がしてしょうがない。
「こんな格好じゃここだと浮いてしまうかな」
「たしかにね。旦那様は、いかにも金持ちって感じだから」
「使い道を知らないだけさ。使わないから貯まるだけ」
まるで修行僧みたいなことを言って、周は困ったように笑う。なるほど確かに、毎晩陰間茶屋に通うとなれば他の趣味に金を費やすことはできないだろう。一晩だけでも随分と金を取られる。それを、百夜だ。
生半可な気持ちではできないだろう。
だからこそ俺は客にそれを求めた。俺を抱きたければ、本気で向かってこい、と。生半可な気持ちで俺を抱こうなんて、それは矜恃が許さない。いくら陰間とはいえ、どうしても譲れないものがあった。
周は、それをわかってくれるのだろうか。
「本当は貴方に打掛けを贈りたいんだけど、生憎と私はその類に疎くてね。何を選べばいいか分からないんだ」
「慣れてそうなのに」
「まさか。弟への贈り物にさえ頭を悩ませるんだよ」
「弟君、ですか」
その響きに胸の奥がぐっと締め付けられた。かつは自分もそう言われていたからだ。周に対してどこか安心感を抱くのは、彼の持ち兄らしさを感じ取っていたからだろうか。彼の弟は一体どんな人なんだろう。知りたいことは山のように湧いてくる。相手に興味があるのは俺の方ばかりなのか?
いつの間にか自分の中に周が居ることは当然のように思えてしまい、なんだかおかしな気分だった。
「そうだ、打掛け。どんなのが好きか教えてくれるかい?」
「それが今日の質問ってわけだね」
「うん」
「欲がないねェ、旦那様」
今日も今日とて素朴な食事を食べながら、酒も飲まず、俺を抱くこともせず、ただ穏やかな時間を過ごしている。しかも唯一許された質問が、俺の希望を知ることだなんて。
どうしてここまでするんだろう。出会ってまだ十日しか経っていないのに。
「私はあまり着物に詳しくなくてね。贈りたいと思っても何がいいかわからなかったんだ」
「詳しくないだなんて。いつもいいもの着てるじゃないか」
「仕立て屋に任せているから。自分で選んでいるわけじゃないんだよ」
なるほど。本当に自分の身の回りに興味がないようだ。着るものも、食べるものも、与えられるものに満足してそれ以上を求めたりしない。
そんな男がどうして俺にここまで。
(自惚れちゃいけない……絶対に)
ここは陰間茶屋だ。どんなに周が誠実に思えようと、客でしかない。客が飽きれば俺に引き止める術はないのだ。
だから期待しない。「次」という言葉を信じたりしない。周も今は毎晩通っているが、それが明日も続くとは限らない。
そう、自分に言い聞かせると、胸の奥がちくんと傷んだ。
「夜鷹? どうした?」
「あ、ああ……なんでもない。打掛けだったっけ」
「そう。どういうのが好きかな」
「ううん……」
正直言うと、あまり好みというのはなかった。自分で選ぶことはほとんどなく、手持ちの打掛けはほとんど客に贈られたものだ。その日身につけるものは雲雀に選んでもらっているし、周と同じくらい自分も自分に興味がなかった。
そういえば自分で打掛けを選ぶのは初めてかもしれない。陰間になって十年近くになるが、いつも与えられるものばかり身につけていた。欲しいものなんて、そんなの一つしかなかったから。
「あ、周」
「ん?」
そうだ。今日、聞きたいことがあったんだ。質問しようと思って身支度の時からずっと考えていたこと。
それこそ今聞くべきではないか。
変に緊張してしまう。口の中が乾いてしょうがなかった。もういっそ、酒でも飲んでしまいたい気分だ。それでも喉の奥をこじ開けて、掠れた声で絞り出したのは。
「き、今日の打掛け、似合っているか……?」
自分でも笑ってしまうくらいみっともない、小さな声だった。陰間として、客に使うべき言葉も出てこない。太夫なんて威厳はなく、震える手を抑えるために握りしめたまま動かすことができない。
どうして、こんなにも調子が狂うんだろう。
「似合ってるよ、とても」
「ほ、ほんと?」
だから、周にとってはなんでもない一言に、こんなにも喜んでしまうんだ。
「うん。貴方は大きくて鮮やかな柄が似合いそうだ」
今度、仕立ててくるから、と言う周は、今まで見たどの花よりも美しく、鮮やかで、眩しかった。
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