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40日目

その日は夕方から雲行きが怪しかった。周が店を出た時は晴れていたのに。寝ている間に雲が出てきたのか。湿った空気を感じながら湯浴みをする。 窓の外を見ると、ポツポツと小雨が降り始めていた。 「開店前に降り始めるなんて、ついてないなぁ」 「まあ、そんな日もあるだろ」 せっせと俺の髪を洗ってくれる雲雀が、億劫そうにため息をつく。店にいる間に雨が降ってくれれば、何かと理由をつけて客を引き止めることができる。 でも開店前だと、客足が遠くなってしまう。それでも俺たちは準備をしないといけない。特に今は、周が毎晩通っているのだ。きっとあいつは雨だろうと雪だろうとここに来るのだろう。 なんて、根拠の無い自信を持ってしまうくらい、俺の日常には周が存在していた。 「いいなぁ、姉さんは。周さんが毎日来てくれるから退屈しないだろうし」 「退屈は、まあしないが。お前だって座敷には出ているんだろう?」 「出てますよ。酔っぱらいの相手に床の準備……みんな周さんみたいに礼儀正しい人だったらいいのにって思っちゃう」 まだ丸みの残る頬を、雲雀がぷくりと膨らませた。よしよしと頭を撫でてやり、どうかこの子が汚される前にここから出してやりたい、とも願ってしまう。 雲雀はもうすぐ十歳になる。今はまだ禿として床入りはしないが、おそらく年が明けたら本格的に客を取るための用意を始めるだろう。 俺みたいに特別な事情がない限り、禿たちは男を受け入れるための準備をさせられる。後孔の使い方、解し方、気を遣らない方法など。とにかく客を悦ばせるための手練手管を教えこまれるのだ。 (できれば雲雀も、周みたいな人と……って、これじゃあまるで俺が周のことを、好いているみたいじゃないか……) 周はただの客だ。少し変わっているけど律儀で誠実な、俺の客なんだ。 毎日会っているからって絆されてはいけない。いつかはこの逢瀬も終わる。それまでの関係なんだと、きちんと割り切らなければ。 「ああ、雨が本降りになってきました。姉さん、足は大丈夫ですか?」 「うん……大丈夫」 雲雀の言葉にぼんやりとした返事をして、瞼の裏にいる周の笑顔を必死にかき消そうとした。 雨の日は、嫌いだ。いつも昔のことを思い出す。夜だともう駄目だ。右足の古傷がジクジク痛みだし、耳の奥にこびり付いた家族の声が鳴り響く。必死になってかき消そうとしても、目を閉じればすぐに幻影が追いかけてくる。 もう十年近く前のことなのに。 「夜鷹?」 「……あっ」 ついぼんやりしてしまい、心配そうにこちらを見ていた周の言葉に反応が遅れた。顔を上げると頭がぐらりと痛む。 雨のせいだ。だから嫌いなんだ、雨なんて。 「今日は体調がよくないのかい?」 「あ……まあ、少し」 「少しだなんて。顔色がそんなに悪いのに」 必死に化粧で隠したのに、どうして分かるんだ。言われたくないことを的確に突いてくる。でもそれは、優しさという糖衣に包まれているから、拒むことができない。 弱音なんて絶対に吐きたくなかった。それは客の前は当たり前で、女将にも、雲雀にも、誰にも見せたくなかった。それは俺の矜持だった。なのに、どうして周はするすると脱がせていくんだろう。 この瞳に見つめられたら、心のどこかが脆くなっていく。 「痛むんだ、足が」 「雨で?」 「……うん」 半分嘘で、半分本当。雨のせいで足の古傷が痛むのは事実だけど、それをわざわざ口にするほどでもなかった。でも、なぜか、周の前では上手く嘘が付けなかった。 「ずっとそうなのかい?」 「夜に降ると、駄目なんだ。昔を思い出してしまう」 「そうか……」 今まで一度も自分の過去を話したことはなかった。話す必要もなかったし、むしろ話すなと言われてきた。 陰間は一夜の快楽を与える者。過去とか未来とか、そんなものは考えず、今この瞬間の快楽を与えられたらそれでいい。 陰間として生きていくと決めた時からずっと教えられてきたことだけど。 「幻覚が見えるんだ、兄さんや、両親の」 自分の口から溢れてきたのは、どうやっても覆せない過去の後悔だった。 「夜鷹、苦しいなら無理に言わなくていいよ」 「苦しい、けど、でも」 自分でもどうしたらいいか分からなかった。頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。過去の記憶、楽しかった日々、業火と嫉みで失われた過去、そして今までの、憎しみに満たされた日常。 ああ。 それでも。 「貴方は、光だ」 「え?」 そんな、生きたまま死んでいくような日々に光を与えてくれたのは周だった。毎日、口約束ではなくここに来てくれる。約束をしたら何があっても守ってくれる。尋ねれば、答えてくれる。 あまりにも純粋で、あまりにも誠実で、俺にはもったいないような人だけど。そんな人がこの世にいるというだけで、俺には十分すぎるほどの救いだった。 「貴方なら、信じてもいいと、そう思えた」 「それは、よかった」 ズキンズキンと頭の痛みが増していく。目の前がチカチカと点滅していた。これは酷い。今まで頭痛はあったけれど、ここまで悪くなることはなかった。 そうならないよう、ずっと気を張っていたのもある。まさか周の前だから気が緩んでしまったなんて。否定したくても、それは覆ることのできない事実だった。 「夜鷹? 君、顔色が」 ちょっと気分が悪いだけだ、と言おうとして、キンと耳鳴りがした。意識が一瞬遠のいていく。自分がどんな体勢なのか、どうなっているのか理解できないまま暗闇に落とされる。 体を支えようとしたら右足の古傷が痛み、その重心が倒れていく。 (あ……まずい……) なにがあっても客の前では冷静でいろと教えられたのに。どうにも今日は、それが難しい。 咄嗟に右腕を突き出して、なんとか体重を支えたがすぐに崩れ落ちそうだった。 「夜鷹、聞こえるか?」 「あ、まね」 「うん。ねえ、君に触れてもいいかい?」 「え……?」 こんな時に何を言っているんだ。今の俺は何も考えられず、耳鳴りで周の声さえ遠く聞こえるんだ。 そんな状況で、触れていいか、だなんて。 どうしてそんな、当たり前のことを聞くんだろう。そうしてふと、ほとんど働いていない頭の中で一つの可能性が浮かび上がった。 「そ、れは、しつもん?」 少しずつ視界が下がっていく。体が倒れかけているんだ。もう腕だけでは支えきれなくなっている。喉の奥から胃液が込み上げてきた。これ以上みっともない姿は見せたくないのに。 どうしてもそばにいて欲しいと願っている自分も、間違いなくそこにいた。 「質問、だね」 「だったら、あなたのすきにして、くれ」 「……わかった」 なぜか緊張したような顔で、周が手を伸ばしてくる。体重を支えていた右腕をそっと持ち上げ、そのまま呼吸が楽にできる体勢に変えられた。 つまり、膝の上に座らされ、両腕に抱かれたのだ。 初めて触れた周の手は、大きくて、そしてじんわりと温かかった。逞しい腕に抱かれると、まるでここだけ何からも守られているような気分になる。首筋からはいつもの白檀と、わずかに肌の匂いがした。今まで遠かったから気づかなかったのだ。この人が、こんなにも優しい香りをしていたことを。 まるで子供のように抱かれ、ゆっくりと背中をさすられる。ただそれだけのことなのに、ずっと苦しかった呼吸がわずかに楽になった。 「足にも触っていい?」 「すきにしろと、いった」 「うん」 耳朶をくすぐる、いつもより低い声に腹の奥がじわりと熱くなる。吐息が触れるだけで冷えきっていた体に熱が走った。 周の手が、そろりと右足に触れる。膝の、ちょうど傷があるところを少しだけぎこちない手つきで撫で始める。治療でさえ誰にも触れさせなかった場所に、今、こうして触れられている。 そう思っただけで、なんだかいけないことをしているようだった。 「これで少しでも痛みが無くなればいいんだけれど」 「やさしいんだな、あなたは」 「君にだけだ」 「……そうか」 こんな甘い言葉を信じるなんて。本当だったらありえないことだ。客の甘言なんて脆い砂糖菓子のようなもので、含んだら直ぐに溶けて消える。 その場限りの、幻にすぎないのに。 ああ、ああ、どうかこの言葉だけは真実であってくれとぼんやりする頭で祈っていた。 しばらくそうしていると、次第に痛みは遠のいていった。そうなってくると次に問題となるのは、今のこの状況である。 俺が許したとはいえ周の膝に抱かれ、足を撫でられるなんて。おまけに過去のことを、少しとはいえ話してしまった。今更聞かなかったことにしてくれ、忘れてくれと言っても無駄だろう。そう願うにはあまりにも俺たちは近すぎる。 「少し顔色がよくなってきたね」 「ああ、お陰様で随分と楽になった」 「そう」 だからもう離してくれ、と言いたいのに、膝を撫でられる心地良さと腕の体温から離れがたくて言葉にならない。 それほどまでに、周の体は気持ちよかった。 「このまま寝ていいよ」 「そんなこと出来るか! 客を置いて陰間が寝るなんて……」 「それじゃあ私も横になる。それならいいだろう?」 「うっ……」 口調は穏やかなくせに、目が本気だった。じっとこちらを見つめてくる琥珀色の瞳が、きゅっと細められた。 嗚呼。この目。 初めてここに来た夜もそんな目をしていた。 どこまでも本気で、純粋で、真っ直ぐな。 気がついたら捕らわれてしまうような、美しい目。そんな目で見られたら。 「まぁ……貴方も横になるのなら」 なにもかも、奪われてしまう。思考も、理性も。気がついたら優しく取り払われていた。 せめて布団は別にしてくれと頼むと、周は困ったように笑いながら屏風の向こうから二組の布団を持ってきくれた。まさか客に床の用意をさせるとは。しかもただ寝るだけのために。 本当に、調子が狂ってしまう。 「すまない、貴方にこんなことをさせて」 「好きにしていいと言ったのは君の方だ。気にしないで」 「でも」 「考えすぎると頭がもっと痛くなる。ほら、おいで」 普段使っている布団を軽く叩かれ、誘われるように横になる。簪が枕に当たったのを見て、そっと抜いてくれた。ついでに打掛けを脱がせ、帯まで緩めてくれる。 これだけ見ているとまさに今から床入り、といった感じなのに。実際には本当に、言葉通り、ただ寝るだけだ。いいのかこれで。高い金を払って一緒に横になるのになにもさせないなんて。 「また何か考えているね」 「いや、貴方にしてもらってばかりだと思って」 「私のためと思うなら大人しく眠りなさい。まだ少し顔色が悪い」 隣の布団で横になった周は、腕を伸ばしてゆっくりと頭を撫でてくれる。どこか遠いところで三味線の音が聞こえていた。もうしばらくすると、今度は嬌声が響くんだろう。 そんな中で、本当に眠れるんだろうか。というか周はなにも感じないのだろうか。それはそれで、なんだか寂しい。百夜通うまでは本当に手を出さないつもりなのか、それとも性欲がないのか。でも陰間茶屋に来るくらいだ。全くの無欲ということではない、はず。 「夜鷹」 「ああもう、わかった。どうしてすぐに気づくんだ、貴方は」 「分かりやすいからだよ」 「……ふん」 ゆるり、ゆるりと頭を撫でられ。次第に瞼が重たくなってくる。鈍い痛みを持っていた右足はいつの間にか軽くなっていた。 それと同時に体がゆっくりと弛緩していき、頭も働かなくなってくる。 「そう。いい子。そのまま眠りなさい」 「んん……」 子供扱いするなと言ってやりたいのに、口がほとんど動かなかった。一人で眠るよりもぽかぽかと暖かい。それに、気持ちがいい。胸の奥がほろりと解けていくのは、どこか懐かしい白檀の香りがするからだろうか。 次第に自分の呼吸が深くなっていくのを感じながら、そういえばまだ今日の質問をしていないことに気がついた。 まあそれは朝起きてからでいいかと、久方ぶりに翌朝が楽しみだと思いながらそっと瞼を下ろした。 最後に見たのは、どこまでも優しく穏やかな琥珀色の瞳だった。 目が覚めて、一番に感じたのは白檀の香りだった。それから抗えないほど心地よい温もりと、肩に乗せられた慣れない重み。目の前にはいつもの天井ではなく、薄墨色が広がっている。 そこで、ふと、何かがおかしいと気がついた。 「おはよう、気分はどうだい?」 「あ、まね……っ!?」  聞こえてきたのはいつも通り、穏やかで優しい周の声。でも記憶よりもずっと近くにいる。昨日は別々の布団で横になり、腕を伸ばせばなんとか届くくらい離れていたのに。 どうして。今、俺は周に抱きしめられているんだ!? 「な、なん、なんで……!?」 「覚えてない?」 困惑しながらこくりと頷く。確かに昨夜、周の膝に乗せられたのは事実だ。でもあれは俺を介抱するためであって、そのあとは何もしなかったはず。 それに周の性格からして、寝ている俺に手を出すことはしないだろう。その証拠に着物はまったくはだけていなかった。 「君がくっついて来たんだよ。何回も」 「何回も!?」 「起きた時に驚くかもしれないけど、と確認したけど、それでもいいって君が言うから」 「俺が……!?」 なんてことだ。客よりも先に寝るだけではなく、まるで子供のように駄々をこねていただなんて。挙句の果てにはぎゅうぎゅう抱きついて離れようともせず、ぐっすり寝こけてしまっていた。 こんなこと女将に知られたら一大事だ。叱られるよりも先に手を叩いて笑われる。きっとそのまま雲雀にまで話が伝わり、ずっとニヤニヤしながらその話をされるだろう。 うう、恥ずかしい。 「よく眠れたのならいいんだ。顔色も随分とよくなっている」 「それは、うん、ありがとう」 周はなんて事ないといった風に、俺の頬を撫でてくる。これだけ見れば情事の後なんだろうけど。閨どころか口付けすらしていないのに。 先にこんなことをしていいんだろうか。いや、別に何もいやらしい事はしてないからいいんだけど。 「そろそろ時間だから私はもう行くけど、もう大丈夫そうだね」 「大丈夫、だけど」 もうそんな時間なのか。普段はずっと起きて他愛ないことを話しているから、今日はあっという間に時間が過ぎていったように感じる。 これから周は仕事に行くんだろうか。いつも日が昇る前にここを出るから、確かにもう支度をしないといけない。頭では分かっているのに、なぜだか体が動かなかった。 「夜鷹?」 「……周」 胸の奥でぐるぐると言葉が渦巻いていく。俺は何を伝えたいんだろう。ありがとうも、大丈夫も、伝えたはずなのに。 他にもまだ言いたいことがあるようで、なんだかすっきりとしない。 「また夜に来るよ。だからそれまでゆっくり休みなさい」 「……うん」 諭されるように頭を撫でられ、ようやく体を離していく。隣で起き上がった周の姿を見て、また悲鳴を上げそうになった。 俺が抱きついていたところに、べったりと白粉がついていたからだ。 「す、すまない! 貴方の着物が汚れてしまった……!」 「え? ああ」 周は大して気にしていない風に、少しだけ乱れていた襟元を正した。きっとこの着物も高価なものなんだろう。しかも着流しだから何かで隠すこともできない。 これじゃあどこからどう見ても「色街で遊んできました」と言っているようなものだ。 「いいよ。君が付けたものだから」 「は、はぁ!?」 「君はいつも、何も残さない。未練も情も、香りさえ」 「何を言って……」 「だからこれは、初めて君が私にくれたものだ」 馬鹿だなぁ、この人は。どうして俺が未練も情も残していないと思うんだ。俺が毎日、どんな気持ちで過ごしているか知らないのか。 本当に今夜も来てくれるだろうか。飽きていないだろうか。また、笑ってくれるだろうか。 そんなことばかり考えながら支度をしているというのに。 「今日の分の質問をしていなかったから、聞いていいか?」 「うん。いいよ」 「貴方は」 俺を本当に抱きたいのか? そう言葉に出来たらよかった。でも「違う」と言われたらきっと耐えられなかっただろう。理由は分からない。でも、きっと、駄目になる。 太夫だから抱きたいのか。ここまで高額な金を払ってきたから、ここで辞めるのは惜しくなったのか。それとも簡単に手が届かないから征服欲を刺激されているだけなのか。 一体どんな理由で毎晩通っているんだ。 周。俺は、貴方がわからない。 「私が?」 「その……一緒に寝て、どうだった?」 なんて間抜けな質問なんだろう。それでも心臓は馬鹿みたいに鳴り響いていたし、緊張で喉がカラカラになっていた。ぎゅっと周の着物を握りしめたままだった手には冷や汗が滲んでいた。 祈るように視線を上げてみると、周は何とも形容し難い表情をしていた。困ったような、恥ずかしいような、でもどこか嬉しいような。本当に不思議な顔をしていた。 「周?」 「君と寝たのは……その……」 珍しく言葉に詰まったあと、片手で顔を覆いながら「幸せだった」と呟いた。 その言葉をじっくりと噛み締めて、理解して、遅れて俺の頬も真っ赤に染まっていった。

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